2024年12月31日
歴史のアヴァンギャルドたる君へ
君の音楽ライフを思い浮かべてしまったよ。音楽ライフはライフそのものなのかどうか微妙だが、まあ、言うところの君の音楽ライフは普通じゃないね。君はいろんな音楽を知っていて、それを聞いている。どうやってそうなるのか。我々は誰もそれを知らない。どうやってそうなるかなどという問いを無視してたまたま死なずにいると、どうやらアヴァンギャルドは、ある年齢に達すれば、偏見なしにそんなジャンルならぬジャンルに通暁してしまうらしい。本を読まないことを自慢する作家がいたりしたが、それらのヘボ作家はそもそも絶対にアヴァンギャルドになったりできない。音楽だって、美術だって、文学だって、何だってそうだ。通暁するという言い方が感じ悪ければ、オタク的であってもなくても、単に網羅的になると言い換えてもいい。物がしゃしゃりでるのではなく、むしろ物は心理とともにたいして意味をなさなくなる。事が平行に運ぶ。この幾つもの平行にはそのつど垂直性があり、すばやいペケポンがなされるわけだから、そこには十字形が顕れたりする。十字というのは最も単純な、原始的なサインだ。つまりこの署名によって合図がそこに発生する。合図を送る人は知的であるか白痴的であるに違いない。知的であることは白痴的であることと両立するし、知的であることは別に悪いことではなかった。だから合図を送る奴が、普段はよく見えないだけで、いろんなところにいるはずだ。作品と商品のせめぎ合いがすでに始まっているが、作品に向かうなんて姿勢ははなからない。いまさっき偏見なしに通暁すると言ったが、偏見を捨て去ろうなどと自分に言い聞かせたわけではない。自分のことで言えば、偏見がじょじょになくなることはある意味仕方がないと思っているし、別になんとも思わないが、そうでない偏見に凝り固まったヘンコは世の中にいっぱいいて、それはそれでとても凡庸であるし、何々が好きとか言いながら、貧乏臭漂うなかで「痴呆の翼の影」と姑息さが見え隠れしているとも言える。その意味では、ロッケンロールは痴呆ジジイの音楽になったと言えるだろう。ちょっと語弊があるかもしれないが……。
だからいろんな音楽を聞くゼロ歳の老アヴァンギャルドが成立する。僕の知り合いのなかでは、君も佐藤薫も森田潤もそうなんだろう(ごめん、森田君はかなり若いけど)。我々は無一物に近い。その意味で、以前、自分のことをそう呼んだように、君たちは全員古典主義者なんだよ。たしかに、その形態において、君にとって一番かっこいいのはブルース的であることだとすれば、君のことをデルタ地帯を知るブルース的古典主義と呼んでもいいぞ。まあ、なんと呼ぼうが構わないのだけれど、マイルスが自分のことを前衛などとは呼ばなかったという君の言を言い換えたまでだ。今の僕にはほとんど何の偏見も何の恥も悔恨もないと自負しているので自分のことを報告しておくと、ごく最近ちょっと気に入っているのはジョニー・ミッチェル(ジョニー・ミッチェル! ジョニー・ミッチェルなんかほとんど聞いたことがなかったのに)のジャズヴォーカル・アルバム『ミンガス』かな。チャールズ・ミンガスに捧げられている。最近、ラジオで聴いて、お、と思った。いまさらながらCDを買った。彼女の(?)ガットギターもいいし、ウェイン・ショーターやハービー・ハンコックもバックでやっている。ミンガスの三つのメロディを使っていて、ノイズそのものではないのに、僕にはギターがノイズのように聞こえて、そこに歌が重なる。
言語にとって音楽そのものがノイズだという君の話は、一聴に値するね。「人の声の成分そのものから言語的意味を除去したような官能的肉質をこちらにどんどん突きつけてくる」バッハのチェロ曲。歌の成分を原子の底に沈め、大気を階層ごとに無化して、我々をそのままの姿で我々に変えてしまう。まるで素粒子物理学だ。歌が天から落ちてきて、粉々になり、そのまま地を覆い尽くす。あらゆる映像にこのバッハのチェロ独奏が隠れていたりする。それが生活だ。望みのままの生活だ。そんなときは素晴らしい映像になる。ゴダールの90年代の映像を見ていてそう感じたことがあった。近眼的なバッハの演奏者自身はといえば、しだいに老眼、遠視になり、近くのものがぼやけたまま、官能の波にさらされていくようだ。目がよく見えないし、耳も聞こえにくい。
あのチェロの低音はもう音楽ではないかもしれない。
鈴木創士
だからいろんな音楽を聞くゼロ歳の老アヴァンギャルドが成立する。僕の知り合いのなかでは、君も佐藤薫も森田潤もそうなんだろう(ごめん、森田君はかなり若いけど)。我々は無一物に近い。その意味で、以前、自分のことをそう呼んだように、君たちは全員古典主義者なんだよ。たしかに、その形態において、君にとって一番かっこいいのはブルース的であることだとすれば、君のことをデルタ地帯を知るブルース的古典主義と呼んでもいいぞ。まあ、なんと呼ぼうが構わないのだけれど、マイルスが自分のことを前衛などとは呼ばなかったという君の言を言い換えたまでだ。今の僕にはほとんど何の偏見も何の恥も悔恨もないと自負しているので自分のことを報告しておくと、ごく最近ちょっと気に入っているのはジョニー・ミッチェル(ジョニー・ミッチェル! ジョニー・ミッチェルなんかほとんど聞いたことがなかったのに)のジャズヴォーカル・アルバム『ミンガス』かな。チャールズ・ミンガスに捧げられている。最近、ラジオで聴いて、お、と思った。いまさらながらCDを買った。彼女の(?)ガットギターもいいし、ウェイン・ショーターやハービー・ハンコックもバックでやっている。ミンガスの三つのメロディを使っていて、ノイズそのものではないのに、僕にはギターがノイズのように聞こえて、そこに歌が重なる。
言語にとって音楽そのものがノイズだという君の話は、一聴に値するね。「人の声の成分そのものから言語的意味を除去したような官能的肉質をこちらにどんどん突きつけてくる」バッハのチェロ曲。歌の成分を原子の底に沈め、大気を階層ごとに無化して、我々をそのままの姿で我々に変えてしまう。まるで素粒子物理学だ。歌が天から落ちてきて、粉々になり、そのまま地を覆い尽くす。あらゆる映像にこのバッハのチェロ独奏が隠れていたりする。それが生活だ。望みのままの生活だ。そんなときは素晴らしい映像になる。ゴダールの90年代の映像を見ていてそう感じたことがあった。近眼的なバッハの演奏者自身はといえば、しだいに老眼、遠視になり、近くのものがぼやけたまま、官能の波にさらされていくようだ。目がよく見えないし、耳も聞こえにくい。
あのチェロの低音はもう音楽ではないかもしれない。