森田潤 ★ 元旦に孤高のノイズ24時間耐久ライヴ・ストリーミング

ホモフィクタス・ラヂオ ㊗︎ 開局記念 第1回実験放送(映像付)

 

かくて作品が生まれた… 市田良彦

この実験の結果は残しておくべきである。音と映像の記録とは別に、どのようにこれが作られ、聴かれたかを。以下は作家・森田潤と視聴者である私、二人の経験の付き合わせである。φononレーベルの諸作品を2年にわたって聴くなかで、いつかこんなことをやってみたいと思っていた。その機会が「森田潤24h」という異例の出来事-作品の出現に合わせて訪れたことを、まずは素直に喜びたい。終演直後の興奮と疲労の只中で話を聞くという特権を一視聴者に与えてくれた森田に、深く感謝したい。

私はなにを「聞いた」ことになるのだろう。もちろん、音楽を「聴いた」のであって、それ以外のなにものでもない。しかし「聴く」には理解するということも含まれる。私はではなにを理解したのだろうか。知ったのだろうか。そんなことをどうやって説明できるというのか。小説が読まれるべく書かれるように、音楽は聴かれるべく作られる。即興的要素が含まれる作品の場合には、その場かぎりという要因のせいでとりわけ、対話の性格が強い。完全に作曲された作品であっても、作曲という行為は作曲者による「自己との対話」であろう。作曲者は自分の作品の最初のリスナーだ。そんなありふれた意味で「言語活動」であるのに、音楽を聴く者にはしばしば「返す言葉」がない。そのことに私は日々苛立ってきた。言葉を紡ぐことを生業とする身としては、ほとんど打ちのめされてきた。

ずっと聴いている人なんかいないだろうから、まずは聴く自分を飽きさせないように「設計」した、と森田は言う。24時間という途方もない(のか? ほんとうに)時間は、彼をいつもより聴く立場に置いたようだ。私たちが見た/聴いたのは、Iannix(クセナキスのアイデアに由来するグラフィック・シーケンサー)に発出させた24個のドローン「曲」と、集められた140あまりのサンプリング素材をまずは「聴く」森田潤だった。私たちは彼と24時間の聴く体験を共有した。そうであるかぎり、彼もまた私たち同様なにかを「理解」し続けていたろう。その「理解」にもとづき、「言葉」を返し続けていたろう。楽器としての機械に、ツマミの操作を通じて。それが彼の「演奏」だった。そしてこれを書いている私は今ようやく「演奏」に入っている。ひょっとすると誰も聴いていないかもしれないという森田の危惧が、彼の作曲と演奏になんらかの実体的作用を及ぼしていたとすると、私たちは現に聞いてない時間によって、彼に「言葉」を返していたことになる。私たちの沈黙も彼には言葉だった。それゆえ、これを書いている私はある種の自信を持って、24時間が終わったあとも「私は演奏に参加している」と言える。実際、あの24時間のうちかなりの時間を、私は画面の前から離れて過ごした。その間、音楽は「隣の部屋の物音」だった。パソコンをまったく閉じていた時間、眠っていた時間さえある。それでも、その時間さえ「森田潤24h」のうちにあると感じていた。音楽を聴き続けている気がしていた。今にして思えばずっと夢のなかにいたようなもの。森田は森田の、私は私の夢のなかに。それでいて対話は続いていた。二人で見る夢? ──「演奏」は今も継続されている。終演直後の彼の疲労困憊した顔に浮かぶ笑みの残像が、私に今語りかけている。

だからこそ、私は最初の問いに送り返される。「理解」とはなんなのだろう。「言語の文の理解は、人が思っているよりもはるかに音楽の主題の理解に類似している」と書いたヴィトゲンシュタインは正しかったのだろう。けれどもではその「理解」とはどういうことかを問いたい気分である私は、哲学者の言う「類似」に答えを流し込めない。「森田潤24h」を見た/聴いたあと、残像と残響にまみれ、あれはなんだったのかと反省してしまう私は、「理解する」ということそのものがわからなくなっているのである。もちろん、自分がなにを書いているのかはわかっているつもりである。けれども、ke-re-do-moという4つの音がどうして私に「けれども」と聞こえるのか──音列に意味を持たせて「けれども」という語として使えるのか──がわからなくなっている。失語症に近い状態にいる。ヴィトゲンシュタイの命題は「理解」についての説明というより、言語と音楽の相互送付を記述しているだけだ。理解において、言葉は音楽に似ている/音楽は言葉に似ている。以上、終わり、あとは感知せよ。

そんな問いに頭を悩ませるのは一種の病であって、この「類似」に神秘の存在を認めつつも、悩む必要などないのだ、それが言語ゲームだ、と同じ病に罹った経験のあるヴィトゲンシュタインは自分に言い聞かせ、病の治療にあたろうと志したようである。曰く、語の意味とはその使用なり。音楽の意味もその使用すなわち演奏なり? まさにKE-RE-DO-MO、私はこの失語症をいっときの病とはみなしたくない。というのも、病から癒えて日常のゲームに復帰したところで、それがいかにつまらないかを病のおかげで知ってしまったから。病に陥る「快」を音楽は教えてくれると思うから。言語もまたそうだったと哲学者の言う「類似」はむしろ気づかせてくれる。日常の言語ゲームなどなにも面白くない。こうやって森田を言葉のほうで真似ようとあくせくしている時間こそ、甲斐のある言語的実践だと思ってしまう。

24時間という枠は、言語ゲームにおける文法その他諸々のような「規則」ではなかった。そこで演奏を終えるという制約条件ですらなかったと言ってもいい。もちろん森田は24時間を厳格に守ったのだが、その意味ではたしかに哲学者の言う「規則に従う」ことをしたのだが、この「規則」は8時間であっても12時間であってもよかったろう。「永久に」であってもかまわなかったろう。Iannixというツールには有限な時間にもループする時間にも、延々と続く時間にも「描画」上の違いしかない。どんな時間も簡単に描けてしまう。線の数と形の違いに時間とその構造は還元できてしまう。それらの選択は恣意的でしかないし、おまけに言語的差異のように恣意的だから強制力を持つ──規則を外れると言葉として通じない──というのでもない。ほぼ1時間単位の24個のドローン「曲」は森田の音楽にとって最初の〈地〉を形成した。彼の言葉では「パレット」である。現場で音の〈図〉、音楽を描いていく〈地〉。楽譜に言語の規則と同じ強制力を持たせようとする「作曲」は、そこにはなかった。そして私にも聞き取れたこの〈地〉──持続と変化の尺度をなす──は、言語的にも音楽的にもまったくの無意味、純粋な雑音(ノイズ)と定義される「世界」との関係においては、すでに〈図〉である。つまりドローン「曲」は、〈地〉または〈図〉になる──どちらにもなれるが必ずどちらかである──1枚のレイヤーであった。それを「構造」と呼んでもいいのかもしれないが、繰り返すがそれは演奏を縛るようなことはしない。実際、森田は言う。「そのほとんどが長時間の聴きものに耐えられず、ほとんどが中断もしくは途中で変形されてしまった」。彼には構造に「飽きる」自由があったわけだ。「演奏中は次のドローンの曲想も忘れていた」。文法を忘れるのとはわけが違う。

このレイヤーはつまり一種の不定状態を作り出す。演出する。もしそれが24個ならぬ1個のドローンであったなら、森田に遅れて私たちもまた遅かれ早かれ「飽きて」いたろう。どんなドローンも、それだけでは「曲」として成立しない。いつしかパチンコ屋の騒音に変わる──エントロピーの最大化? およそ1時間ごとの変化が、不定状態を持続させる。X番目のドローン「曲」がはじまると、X-1番目のドローンは必然的に〈地〉の位置に転落してしまう。しかしその瞬間に〈図〉になったX番目のドローン「曲」も、遅かれ早かれ〈地〉になってしまう。森田や私たちが「飽きる」ときには。

そこに140曲分のサンプリング素材が第2のレイヤーとして被さる。それらは「フレーズらしきもの」(by森田)として働き、第1のレイヤー全体を〈地〉にしてしまう。それらの素材のそれぞれは独立して聞いてもおそらく「曲」として聴こえるものだったろう。短いだけに。なかには実際、既存の「曲」の引用もあった。しかし2つ目のレイヤーとしてドローン「曲」に被せられると、そこにあった〈地〉と〈図〉が揺らぐ不定状態そのものを、「伴奏らしきもの」に変える。2層構造は「協奏曲」を演出する。それを踏まえて彼も140曲分の素材を「フレーズらしきもの」と呼んだのだろう。たとえ厳密にはフレーズをなさなくとも〈地〉との関係でフレーズのようになってしまうもの。それらは紛れもなく、音の〈図〉、「音楽」の層として意図された音群である。しかしこれで〈地〉-〈図〉関係は安定するのだろうか。したのだろうか。下層の不定性は安定した〈地〉になってくれるのだろうか。くれただろうか。そんなことはないから、森田はほとんどのドローン「曲」を中断させたり変形させたりしたのでは? 「飽きる」という事態が訪れたのでは? 「飽きる」ときには逆説的ながら、ドローン〈図〉として聞いているのである。曲として「聴く」からこそ「飽きる」こともありえる。パチンコ狂にとり騒音は安定した〈地〉であるから、心地よいベッドと変わりない。飽きない。とにかく第2レイヤーの介在は、〈地〉-〈図〉関係全体の不定性をむしろ増幅、加速させたようである。「140曲分用意したけど、全然足りなくなったので、その場でいくつか作った」と森田は言う。彼は関係の不定性に翻弄されていたのである。もっと「曲」を、〈図〉を!

第2のレイヤーも、レイヤーであるかぎり、〈地〉または〈図〉になることができる。集められた素材のなかには、私がどこかで耳にしたことのある「曲」らしきものもあり、その記憶は第2レイヤーの音群を〈図〉ならぬ〈地〉にする効果──森田の意図におそらく反した──を持ったように思う。それは森田とアノニモ夫人の競作のときと同じだ。私の知っている歌の数々はなるほど森田を「伴奏者らしきもの」にして歌われたものの、知っているからこそ、森田の音のほうが新たに〈図〉として聴こえてしまうのだ。森田が歌に挑んでいる、と。今回も、たとえば阿部薫のサックスらしきものは、私を往時に送り返しつつ、目下の音を演出している「森田潤」のほうを聴かせた。引用されたEP-4の曲の断片も同じだ。私は、おそらく森田も、目下の演出に耳をそばだてていた。誰もこんなライブで昔の音楽をただ聴くだけのようなことはごめんではないか。クラブですらDJの技は組み立ての妙に求められるではないか。「フレーズらしきもの」はフレーズらしければらしいほど、そこから遠ざかろうとする意欲を生んでしまう。欲求不満を生産してしまう。終演後の森田が「設計の失敗」を口にしたほどに。

レイヤーは1枚だけでも、あるいは2枚重ねれば余計に、〈だまし絵〉のように働く。たとえば、こんな絵。

これはウサギの絵かそれともアヒルの絵か。どちらにも見えるだろうが、両方同時には見えない。「ウサギアヒル」などという生物はいない。どうしてもウサギに見えてしまう(左に「耳」がある)と言う人には、絵を透明なアクリル板に転写し、裏返しにして見せればいい。あ、アヒルだと言ってくれるだろう。わざわざそんなことをしなくてもウサギに見えたりアヒルに見えたりするのは、頭のなかで反転操作を実行しているからである。レイヤーはその反転操作を音群のなかに持ち込む仕掛けである。〈地〉と〈図〉はそれぞれレイヤーのアスペクト(聴こえ方)にすぎず、実はアスペクトとして対等なのだが、そうであるから共存はできない。〈地〉として聞こえるか、それとも〈図〉として聞こえるか。アスペクトとして自覚されたとき、縦の関係であった〈地〉-〈図〉関係は横並びのアスペクトAとアスペクトBの関係になる。

絵とは異なり、音は持続する。頭のなかの反転操作は、それ自体が持続する。聞く者は演奏者から──森田は「楽器」から──ずっと、「私は嘘をついている」と言われているようなものだ。この言葉そのものは嘘なのかほんとうなのか? この不定性の持続を、森田も私たちも「聴く」ことになる。〈地〉と〈図〉、雑音と楽音、フレーズと伴奏、二層のレイヤー、等々の反転そのものを音楽として聴くようになる。反転に「共鳴を聞く」ように。反転の効果はしたがって分裂である。アスペクトAとアスペクトBの分裂。持続につれて二つのアスペクトそれぞれの側に、記憶が溜まっていく。「~として聞こえる/聴こえる」がそれぞれ硬化し、分立し、矛盾し、衝突を来たすようになるのである。かくて私たちはウサギとアヒルを分かつ空白地帯に立たされる──これは〈だまし絵〉では生じようもない事態だろう。レイヤーの階層構造は脆くも崩れ、「理解」の契機が失われる。「理解する」ためにはたんなる音、聞かれた音群を、音楽「として」聴く必要があるのだ。森田もまた失語症状態に陥っていたのでは? ウサギとアヒルが1枚の絵の「見え方」であることをやめ、2枚の絵に見える状態である。そこに「失敗」があったとすれば、それは構造的必然でしかないだろう。

そのときである。第3のレイヤーが介入してくるのは。サックスのソロ、人の声、電子ノイズ──その発生源も色々で、なかには生演奏されたバイオリンの音もある──等々の即興的介入。これはその即興性すなわち規則との無関係さにより、純然たる〈図〉として響くほかない。孤立しているのだから。固有の〈地〉を持たないのだから。この〈図〉が闖入してくることにより、第1と第2のレイヤーはにわかに一つの〈地〉へと転落させられる。第3レイヤーと同時に鳴っているかぎり、それらは機械による「伴奏」になるのだ。ただし第3レイヤーと第1・第2レイヤーの間にはいかなる協調もなく、〈地〉-〈図〉関係を維持させるのはあくまでも無関係さである。もはや反転はない。無関係さがそれを禁じる。即興の示す極度の意志性と、反復と引用が見せる機械の非意志性の、非和解的対立が浮かび上がる。人間・森田潤vs機械連合軍の激突。それはほとんど古典的意味における協奏曲なのだが、コンダクターは音群を接近・調和させようとするよりは、苛立ちのあまり離反させようとしているかのようである。3つのレイヤーは相互に自立をはじめる。もはやどれも〈地〉ではなく、無関係が宙空に〈図〉として立ち現れる。アスペクトA +アスペクトB +アスペクトC。この併存が一つの作品としての「森田潤24h」である。

なにかがなにかとして見える/聞こえることがアスペクト(見え方/聞こえ方)の正しい定義だとすれば、音群はむしろアスペクトを失ったと言うべきだろう。つまり「意味」とそれを「理解する」という体験の契機を。ヴィトゲンシュタインはこの状態をアスペクト盲と呼んだ。アスペクト盲は「意味盲」(意味とはなにかがわからない)に通じる。通常の言語ゲームでは「意味盲はたいして失うものがない」と彼は言ったが、それはことさらアスペクトなど意識せずとも彼には語の「使用」そのものが「意味」だからであって、「意味盲」が自分だけに理解できる言語、他人には意味不明な言語を操っているからではない。けれども、「森田潤24h」はそんな「私的言語」をアスペクトの効果により生産してしまったのではないか。彼と私の側の双方に。レイヤーの層構造を確保・維持して「意味」を理解しながら生産したかった彼は、自分の生産した言語を理解できず、「失敗」を口にし、私は「私的言語」の壁に阻まれて文字通り「返す言葉」を失う。2人とも、生まれた言語からはじき飛ばされる。

しかし私的言語は、この概念を提唱したヴィトゲンシュタインにとっては、生産などされようもないものだったはずである。それを語るのはたんに狂人の証であった。「それはある朝私が起きると周りの人々が全く知らない言葉を話し、私が話すのを聞くや驚きの態度を示すのに似ている。……ここで問題なのは私が彼らの言葉を学べるか、彼らが私の言葉を学べるか、それとも意思の疎通が全くできないかである。その場合自分がなんと言うか私にはわからない。何が真実なのかを私はどのように語るべきなのか。たぶん彼らは私を精神病院に送るであろう。」

やはり森田潤はラモーの甥であったか。しかし、理解できなくとも「解釈」──たんなる「おしゃべり」と言い換えてもよい──を強いる、あるいは解釈したいと思わせ、解釈を生産するのが作品だとすれば、「森田潤24h」は立派な作品だった。

 

森田潤24hに捧げる46小節 市田良彦

§1. 大作曲家ジャン=フィリップ・ラモーの甥は、ひょっとすると18世紀フランスに転生した森田潤その人だったのでないか。叔父と同じように音楽家であったものの、叔父ほどパッとせず、それどころか数々の奇矯な振る舞いにより、作品ではなく逸話を残した甥ラモーは、森田潤だったのでは?

§2. 私は聴いたことがない。浮浪者や泥棒たちと一緒くたに「一般施療院」という名の監獄に閉じ込められてもおかしくなかった、狂った音楽家ジャン=フランソワ・ラモーの「作品」を。それでも、彼の曲はまだはじまっていない「森田潤24h」のようだったろうと思いたくなる。甥ラモーが作品を残さなかったのは、その音楽もまた音を踏み外し、歪んだ引用に満ち溢れ、そこに「作曲家」の痕跡を認めることが困難であったからかもしれない、と。私はすでに彼らの音を「聴いて」いる。

§3. ノイズ・ミュージックは、「作品の不在」としての狂気を地で行く。それはいつも「かつてなかった」と「まだない」の間に「ある」。だが「わしという人間がいなくなったら、あの人たち、どうするんでしょう。犬みたいに退屈しますよ」(ドゥニ・ディドロ『ラモーの甥』)。

§4. 19世紀になると哲学者ヘーゲルが、甥ラモーを主人公とする小説を絶賛する。一見したところ、王の傍にいて傍若無人な振る舞いにより王と宮廷人を楽しませた中世の道化のようでありながら、自身の狂気により啓蒙の真実を、その空虚さを暴いていった甥ラモーと、理性的とされる人々の間で交わされる会話に、大哲学者は「人間」の真実を見た。

§5. ヘーゲル曰く、彼らの「対話」にこそ人間の本質がある。狂気とは非理性ではなく、理性そのものの中に潜む乱調であり、人間はそもそも狂気と理性の間に住んでいる。それこそが「対話する人間 homo dialecticus」の真実であり、甥ラモーは、この真実を我々に見せてくれる鏡だ! 狂人は塀の向こうから解放されねばならない。我々は狂気の発する声、モジュラー・シンセの音の洪水に耳を傾け、身体を任せねばならない。我らのゴドーを待ちながら。しかし──

§6. とうの昔にパスカルが言っていた。「人間が狂っているのは必然であるので、狂っていないことは別の仕方で狂っていることだろう」。

§7. なるほどノイズ・ミュージックの歴史は狂気の歴史を分かりやすく例証している。森田に先立ち、自らをアントナン・アルトーに擬えたパンクもいた。なかには本当に狂ってしまったミュージシャンもいた。

§8. 歴史は教えてくれる。近代において、狂人たちは監獄から解放されて病院に送られる。彼らはもはや鎖に繋がれず、庭を自由に歩き回ることもできる「保護施設」(アジール)に収容される。狂気は「病気」になる。狂人は薬と環境と訓練によって、やがて「治る」はずの、社会のなかでそれなりに生きていけるはずの存在になる。

§9. 理性の乱調は「真理の真理」として持ち上げられる一方、「生暖かい水族館」のなかで静かに観察されるべき事象=症例(ケース)になる。我々は今や誰もがいつなんどき激烈に発症するかもしれない潜在的病人である。生きるということは、自己の内部に潜む病=狂気をコントロールすること。レコードに収納された「管理された偶然」に耳を澄ませ、破綻を享楽しながら危うい「距離」を生きよ。自らの症状と共存せよ。とはいえ──

§10. 「わしらがちょっと気の利いたことを言っても、それは偶然なんだよ。気違いや哲学者どもと同じさ」(『ラモーの甥』)。

§11. 音の世界を一歩離れれば、そんな狂気は消滅してしまったのではないか。それを消滅させることが近代から現代に向かう医学が自らに課してきた役割ではなかったか。「自閉症」はもはや「幼児精神病」ではない。同性愛はとうの昔に疾患リストから外されている。精神の「病」の大部分が脳の生理学的であったり遺伝的であったりする「障がい」に置き換えられた。

§12. もはや「責任能力」の一点のみがかつての狂人を獄舎から病院に移す。しかしこの能力を判定するのは今や最終的に裁判官であって医者ではない。医学は法律に「負け」た。薬の投与は「治療」を目的とするというより、「患者」を社会的におとなしくさせておくツールだということを、今では誰でも知っている。鬱病程度なら薬さえ不要かもしれず、認知行動療法──「治療」なのか「訓練」なのか──で「なんとかなる」かもしれない、と。

§13. 狂気の消滅はノイズからかつての破壊力を奪ってしまったろう。それは音楽を取り巻く強力で広大な「外」の位置から、ダラダラと無限定に伸びるスペクトラム中のある「一帯」に席を移した。

§14. 1970年代の終わりであったか、「スペクトラム」という名のフュージョン・バンドが出現したのは。今日のノイズ・ミュージックはむしろ「自閉スペクトラム症」の暗喩的化身として「ヴェニュー」の中から発せられる。そこはまるでクロスフィットネスのBoxだ。引きこもるゴミ屋敷というより、誰もが一度は入ってみるべき道徳的鍛錬の部屋。森田潤は轟音と戯れる術を教える身体トレーナー。あるいは──

§15. 彼は、我々の身代わり、我々の代表として施設に入所してくれる触法精神病者なのか? いずれにしても健康なリスナーは、彼のおかげで狂気が消えた社会を生き延びることができる。私のいる部屋はあそこと電波によって隔てられ、かつ繋がっている。この距離のなかに森田も我々も住んでいる。

§16. 「言葉は存在の棲家である」(ハイデッガー)。「存在」すなわち「狂気」の。「言葉」and/or「音楽」は。

§17. 狂気消滅後の我々の棲家を指し示す機能を持っていたのは、20世紀前半にはもっぱら文学だったろう。狂気が消え、同時に人間なるものまで終わった後に「我々の言語活動の土壌」となるのはルーセルであり、アルトーである、とフーコーは1964年に語った。たしかに彼らの文学は自閉的であったろう──分裂症的である以前に。そこでは──

§18. 発せられた言葉を理解可能にするコードが、その言葉の中にしかない。彼らの言葉は、他者に共有された文法を支えや前提にするどころか、自らの内部から全く個的な解読格子を生み続ける。そのワンセットが手に入ったところで、それもまた解釈を強いる言葉の群れにすぎない。ゆえに読者はつねに「私は嘘つきである」と言われているようなもの。隠された真実を明かすことと騙すことの区別が無効にされている。

§19. だからこそ、狂気の文学は何も語らない。語ることが語る主体から他者へ向けてのメッセージ送信であるかぎり。何も語らないからこそ、それは「作品」をなさない。「作品」をなさないから、語る主体は「作家」ではない。「誰が語ろうとよいではないか」(サミュエル・ベケット)。だが──

§20. 狂気の文学はついに未来の言語にはならなかった。狂人が病人であることを止めた後、文学そのものが言語活動の母体ではなくなってしまった。狂気の言葉を発し、言語活動を刷新し続ける「人間」の営為は終わった。今日、「誰が語ろうとよいではないか」とは文学ならぬ5chのスローガンだ。そこでは誰が語ろうとまさに「自演乙」。誰の「自演」? 破片の群れと化した「我々」のだ。匿名での呟きなど誰でもtwitterでやっている。Qアノンの信奉者は「嘘」にこそ「真実」を発見して増殖し続ける。彼らは21世紀の反動貴族。

§21. だが森田潤のような特異な人しかノイズ・ミュージックはやらない。そこに足を踏み入れるや、匿名性の陰に隠れるどころか、作家性の不在をこれでもかと晒すほかない。こいつはいったい誰なのだ? 誰が「パフォーム」しているのだ? 健全なリスナーは言葉を失くす。よかったよ、と事後的に励ますぐらいが席のやま。

§22. 狂気の「言語」の戦線が、文学から音楽に移動したのだろうか。音楽は言語活動の新たな形態なのだろうか。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。森田潤は大作曲家の甥が告げた近代の開始時点に戻っているのだから。音楽はいつだって、言葉がそこから生まれる沈黙だったのだ。生まれた言語から見れば狂っている言語の母体。しかし──

§23. 「ノイズ=カオス」から「音楽=秩序=言語」が生成されるのではない。モジュラー・シンセはジェネレーターではない。「音楽=沈黙」と「言語」の非時間的関係が、時間のなかにはつねに「ある」。時間の凹みのように。轟音は、「沈黙である/聞こえない」ことも、「雄弁である/メロディアスに聞こえる」こともある。意味のある言葉がノイズであることもある。この凹み、非時間的関係を、あなたは聞いている/読んでいる/見ている。

§24. これは会話なのか? 森田潤とシンセと私、あなた、どこかで何かを操作しているであろう佐藤薫の間で交わされるお喋りなのか? もっと後ろにいるらしい芥正彦はいったい何をしている? さらに後ろから、かつてこのスタジオにいた阿部薫は何を語っている?

§25. 「24時間、365日、ライブを演るべきだ!」

§26. 邪魔だ。名前が邪魔だ。音楽であれ言語であれ、その自由な交換と流通に名前が歯止めをかけている。どんな「意味」なのかはともかく、名前が「意味」の増殖にブレーキをかけている。各人が人格を失い、別人にならないよう。誰も凹みにはまらないよう、誰にも狂った沈黙に帰らせないよう、誰も死なせないよう。

§27. 阿部薫と高柳昌行のセッションのとき、名前はまだ会話の邪魔をしなかった。それは「解体的交感」にフィクショナルな空間──阿部・高柳著「なしくずしの死」?──を設営する役目をしてくれた。言葉を「外」に向かって延ばす転換子shifterの役目を。私を彼(ら)に折り重ねる襞の役目。私たちは書物のような「盤」に封じ込まれた会話を楽しむ「観客」でいられた。私たちは生暖かい水族館の中を歩く「医者」のようでありえた。

§28. だが今や、名前こそがノイズを生む。そこのおまえ、いい加減黙れ、解説はもういい、出て行けと私に言いたいであろうあなたもまた、ミュージック生成の立役者だ。私は言う──それが嫌ならあなたこそ出て行け。私たちは森田潤が設計した「〈構造〉を聴取している」(ブーレーズ)のではない。森田は語っているのではない

§29. 開演を待ちながら、私たちは今「夢」を見ている。誰かが言っていた──「眠り、automatisme、非意志的なものの視点からこそ、目覚めた状態で世界を知覚する人間の心理学を作ることができる」。この「心理学」を私たちは作り直している。脳科学にも生理学にも、この経験を譲り渡すな。一人でしか夢を見ることができないなど誰が決めた? 街頭反乱の現場で、私たちは他人の夢を私の夢としていたではないか。「突っ込め!」

§30. スタジオはむしろ「世田谷一家殺害事件」の現場だ。EP-4がかつてジャケット写真に選んだ「金属バット殺人事件」の家ではない。あのとき「犯人」は分かっていた。名前を持つ少年だった。しかし今、殺人者は顔のない絵だけを残し、消えた。「犯人A」としてこの場にいる。私たちの名前は私たちを、殺されていたかもしれない人間にする。そんな夢を見せる。

§31. 狂った殺人者が姿を消したあとに、ウイルスが来訪した。我々は「狂人かもしれない」の代わりに「感染者かもしれない」になった。しかし、「アジール」が解体されても道徳的「個人」には閉じ込められ続ける。自粛あるいは自閉する個体に。だがウイルスは語らず、歌わない。新たに壁を作るのみ。見えない動的な壁を。社会が「一般施療院」になった。

§32. あるいは「中国の不思議な役人」の舞台なのか。窓辺に佇み微笑む美少女・森田潤が私たちを誘惑している。私たちは自分が宦官であることを忘れ、部屋に上がる。だがこれは美人局。しばし少女の踊りを楽しみ、果てようもない興奮に身悶えしている。すると──

§33. 隠れていた悪党たちが現れ、私を押さえ込む。私は三度殺されるがその度に生き返る。憐れに思った少女の胸に抱かれ、私は、来ないはずの絶頂の訪れとともに、傷口からようやく血を流し始めて息絶える。台本レンジェル・メニヘート、作曲バルトーク・ベーラのグロテスク・パントマイム。

§34. ディスプレイが私たちを去勢してしまった。しかし音楽がそれを忘れさせ、私たちは踊る森田潤を追いかけ回す。不能を忘れた罰に悪党どもの餌食となるが、死と引き換えに、ありえないはずの成就を得る。映像と音楽からなる美人局。私たちは24時間死ねない。

§35. またあるいは、ここはエデンの園か。アウグスティヌスがそこでの性交の仕方に思いをめぐらせた、堕罪前の人が住む世界。アダムとイブは快楽も欲望もなしに、どうやって神の命令──「生めよ、殖えよ」──を実行できたのか。

§36. 意志により、である。アダムはファルスに「勃て」と命じ、それをイブの膣口にあてがい、挿入することなく、膜に開いた穴から子種を彼女に渡した。

§37. アダムが森田潤、私たちがイブ、ディスプレイとスピーカーが処女膜の「穴」。COVID-19を神の罰のごとくに捉えれば、完全に無菌の音と映像の空間は、我々の性行為から快楽と欲望を奪ってしまう。不意の勃起や肝心な瞬間のインポテンツがそんなに怖いのか。確かにそれは精神に対する肉体の反乱なのだが。

§38. BLAC LIVES MATTER:トランプ率いる白人警察官に殺されるより、感染リスクを犯してでも街頭に出よう。それを支持できる者だけが、エデンの園でも聖なる行為から快楽を得る資格を持つ。意志的な非意志、非意志的な意志をただ肯定する権利を。音楽に身を任せる能力を。

§39. とある定義 •人には制御できない身体の物理的振動 •意に反して快楽に「持っていかれる」魂の動揺 •それを死に接近させるような思惟の最終的消滅

§40. ギリシャ以来キリスト教にまで受け継がれた「性的絶頂」の定義である。ベートーベンの交響曲第9番のクライマックスの描写であってもおかしくない。ノイズ・ミュージックは最初から最後まで、この状態の持続を目指していたかに見える。では今は??

§41. ギリシャ人はこの「痙攣性ブロック」を操ろうとした。過剰を抑え、使用法を考えようとした。キリスト者はそこに罪の証と罰の両方を見た。「痙攣」は神に対する罪である。そんなものを味わうことが罰である。すなわち罪を犯すという罰。では今は??

§42. まだ来ない音楽に耳を傾けている。それをすでに目撃している。これを読んでいる。私たちの「自己」に関係している。関係して、どうしようというのだ??──「気分はもう戦争3(だったかもしれない)」。

§43. 「むろん、あなたの言う乞食たちのパントマイムなるものは、地球が体を揺すって踊っているのさ」(『ラモーの甥』)。

§44. 我々は〈言葉=音楽〉を一から学びはじめたところである。

§45. 「2005年11月のある日──よく覚えているが土曜日だった──、ぼくの人生は根本から変わってしまった。あの瞬間をどう定義してよいか分からない。分かりやすく卒中(アクシデント)と呼んでもいい。そう呼ぶとして、卒中はいくつもの顔をもっている。それはまず革命である。言語に対するぼくの関係を振り出しに戻してしまった。ぼくにはまだ動詞を活用させることがうまくできない。そのため、これからの話は主として現在形で書かれることになるだろう」(フランソワ・マトゥロン『もはや書けなかった男』)。

§46. The End. むろん、とりあえず。2021年1月1日を待つ。

 
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市田良彦:思想史・神戸大学国際文化学研究科教授 著書に、『闘争の思考』(平凡社 1993年)・『ランシエール 新<音楽の哲学>』(白水社 2007年)・『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書 2012年)・『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波新書 2018年)──など。ほかに共著書/訳書など多数。

『φononの2018年活動報告と提言・〈わたしたちの音〉をめぐる manifesto』

   

MORITA SYNTHESIS 24HRS

12月18日に2ndソロ・アルバムを“φonon”から発売する森田潤が、 令和3年正月元旦の正午12時から翌2日の正午12時まで、 24時間ノンストップのソロ・パフォーマンス 《MORITA SYNTHESIS 24HRS──みなしごたちへのお年玉──》を敢行する。 プロデュースは演出家の芥正彦。

夜を日に継ぐ演奏が行われるヴェニューは、約半世紀前、 あの阿部薫と芥正彦が名盤『彗星パルティータ』を制作した現場、 劇団ホモフィクタスのスタジオ105だ。 その模様はYouTubeのライヴ・ストリーミングのみで配信される。

視聴は、24時間完全無料!!

 

モジュラー・シンセ奏者/DJとして独自一貫の活動を続ける森田が、 COVID渦中に放つ24時間連続たったひとりの耐久NO密音行ライヴ ──みなさんも音垢離を掻く正月をご一緒に

「24時間、365日、ライヴを演るべきだ!」阿部薫