UPLINK FACTORYが渋谷消防署の近くにあった頃、僕はリスナーとして敬愛してきた国内外のノイズ/サイケデリック/実験音楽の文脈上で語ることのできる音楽家たちとの接触に執心していたように思います。
自分が好きな音楽家を会場側の人間としてドキドキしながら迎えつつ、一緒に企画を考えたり新進の音楽家や他メディアとのミックスを試みながら、「これはアリなのか?」という自身の設問に対する答え合わせと新しい謎かけの作成を同時に現場で行っていた、そんな感じでしたね。ああ、そういうことだったのか。えっ、この人の作品は正直ピンとこなかったけどライブは良すぎる。じゃあ、次はこの人と一緒にやってもらおう、といった具合に。アーティストのアウトプットが一つしかないっていうのはあり得ないわけですから、狭いながらも一つの場所でアーティストにいくつもの選択肢を提示できたことはFACTORYの強みでした。昼から夕方にかけてはいつも映画を上映していましたが、夜はそんなことばかりに明け暮れていたんですよね。
では、同時期に西麻布で異彩を放っていたSuperDeluxeはどうだったかというと、自分が付き合ってきたアーティストたちが出入りしていたベニューの中では希少な「中箱」という認識でした。DJプレイでもミドルのコントロールが肝要ということはよく言われますが、その「中間」という不安定な領域を場所という概念に当てはめて個人経営レベルで維持していくことは並大抵のことではありません。いつも100人未満の少人数を相手にしていた僕にとってSuperDeluxeは何かスペシャルなことをやるときにお世話になっていた場でもありました。
一方でSuperDeluxeは中箱として、我々がメインストリーム側にいると認識している人びとが実験を試みる場としても機能していたように思います。先日、南房総へ移住したマイクさんを訪ねましたが、彼がSuperDeluxeの後にこれからやろうとしているアイデアを色々と聞いてさすがだなと思いましたね。パーマカルチャーとアートの融合を試みるなんて、東京ではできないことですよね。とにかく今後の展開がすごく楽しみです。
僕は当時も今も自身の活動に関しては公私の隔てといったものがなく、自分の本業がなんなのかわからないまま今日に至ってしまったようなところがあるんですが、かといって趣味という認識でわざわざこんなことを続けてきたわけでもない。ただただ東京だからこそできることにこだわり、その上で観客が納得してくれる内容の企画を考えることに腐心していたようなところがあります。
2005年のOFF SITEの閉店とほぼ同時期にFACTORYは同じ渋谷の中で移転をし、ベニューとしての機能が拡張されるに至りました。新しくなった場所で最初に企画したのは、当時OFF SITE とFACTORYに出入りしていて今でも何かと現場をご一緒する機会の多い大谷能生さんとの「大谷能生のフランス革命」というイベントでした。その後、あの場所でできることの選択肢は増えていった一方で、自分がやるべきだと認識していた仕事の数々がどうして段階的にできなくなっていったのか━━ということについてはよく考えます。大谷さんはたまにFACTORYで何かをしている夢を見るんだそうで「それは決まって昔のFACTORYなんだ」と言っていました。それは僕も同じなんですよね。失敗も含めて色々なことが起こった場所でした。
場を作ろうとする人が現れたからその場は僕たちの眼前に存在する。トートロジーめいた単純なメカニズムですが、ではなぜその人がその場を作ろうと考えたのかということが一番重要なわけで。 マルセイユにあるランボビヌーズというベニューが、その表現の内容が人権団体に糾弾されたことによりフランス国内での活動が難しくなっていたジャン=ルイ・コステスのために作られたという話を創設者のフェリックスとシャンタルから聞いた時は感動しましたよ。
しかしどんな場所にも寿命というものがあるわけで、そういった意味では、都市部は死屍累々であるがゆえにその肥沃な文化的土壌を維持し続けてきたという、ちょっと残酷な見方も出来てしまいます。ゆえに僕は東京だからできることに拘り続けてこれたわけですし。場というものはそこに関わる人びとによって形作られていくものだから、役割を終えた場をもう一度同じ形に作り直すことは絶対にできません。油断しているとすぐに損得勘定を優先してしまう集団心理に抗うための装置としての場は、そしてその役割というものは、どうしたって時代の移り変わりとともに変貌していくものなのでしょう。都市部と田舎を行き来するようになった今となっては、そんなことがなんというか頭ではなく身体で理解できるようになりました。
自分が好きな音楽家を会場側の人間としてドキドキしながら迎えつつ、一緒に企画を考えたり新進の音楽家や他メディアとのミックスを試みながら、「これはアリなのか?」という自身の設問に対する答え合わせと新しい謎かけの作成を同時に現場で行っていた、そんな感じでしたね。ああ、そういうことだったのか。えっ、この人の作品は正直ピンとこなかったけどライブは良すぎる。じゃあ、次はこの人と一緒にやってもらおう、といった具合に。アーティストのアウトプットが一つしかないっていうのはあり得ないわけですから、狭いながらも一つの場所でアーティストにいくつもの選択肢を提示できたことはFACTORYの強みでした。昼から夕方にかけてはいつも映画を上映していましたが、夜はそんなことばかりに明け暮れていたんですよね。
では、同時期に西麻布で異彩を放っていたSuperDeluxeはどうだったかというと、自分が付き合ってきたアーティストたちが出入りしていたベニューの中では希少な「中箱」という認識でした。DJプレイでもミドルのコントロールが肝要ということはよく言われますが、その「中間」という不安定な領域を場所という概念に当てはめて個人経営レベルで維持していくことは並大抵のことではありません。いつも100人未満の少人数を相手にしていた僕にとってSuperDeluxeは何かスペシャルなことをやるときにお世話になっていた場でもありました。
一方でSuperDeluxeは中箱として、我々がメインストリーム側にいると認識している人びとが実験を試みる場としても機能していたように思います。先日、南房総へ移住したマイクさんを訪ねましたが、彼がSuperDeluxeの後にこれからやろうとしているアイデアを色々と聞いてさすがだなと思いましたね。パーマカルチャーとアートの融合を試みるなんて、東京ではできないことですよね。とにかく今後の展開がすごく楽しみです。
僕は当時も今も自身の活動に関しては公私の隔てといったものがなく、自分の本業がなんなのかわからないまま今日に至ってしまったようなところがあるんですが、かといって趣味という認識でわざわざこんなことを続けてきたわけでもない。ただただ東京だからこそできることにこだわり、その上で観客が納得してくれる内容の企画を考えることに腐心していたようなところがあります。
2005年のOFF SITEの閉店とほぼ同時期にFACTORYは同じ渋谷の中で移転をし、ベニューとしての機能が拡張されるに至りました。新しくなった場所で最初に企画したのは、当時OFF SITE とFACTORYに出入りしていて今でも何かと現場をご一緒する機会の多い大谷能生さんとの「大谷能生のフランス革命」というイベントでした。その後、あの場所でできることの選択肢は増えていった一方で、自分がやるべきだと認識していた仕事の数々がどうして段階的にできなくなっていったのか━━ということについてはよく考えます。大谷さんはたまにFACTORYで何かをしている夢を見るんだそうで「それは決まって昔のFACTORYなんだ」と言っていました。それは僕も同じなんですよね。失敗も含めて色々なことが起こった場所でした。
場を作ろうとする人が現れたからその場は僕たちの眼前に存在する。トートロジーめいた単純なメカニズムですが、ではなぜその人がその場を作ろうと考えたのかということが一番重要なわけで。 マルセイユにあるランボビヌーズというベニューが、その表現の内容が人権団体に糾弾されたことによりフランス国内での活動が難しくなっていたジャン=ルイ・コステスのために作られたという話を創設者のフェリックスとシャンタルから聞いた時は感動しましたよ。
しかしどんな場所にも寿命というものがあるわけで、そういった意味では、都市部は死屍累々であるがゆえにその肥沃な文化的土壌を維持し続けてきたという、ちょっと残酷な見方も出来てしまいます。ゆえに僕は東京だからできることに拘り続けてこれたわけですし。場というものはそこに関わる人びとによって形作られていくものだから、役割を終えた場をもう一度同じ形に作り直すことは絶対にできません。油断しているとすぐに損得勘定を優先してしまう集団心理に抗うための装置としての場は、そしてその役割というものは、どうしたって時代の移り変わりとともに変貌していくものなのでしょう。都市部と田舎を行き来するようになった今となっては、そんなことがなんというか頭ではなく身体で理解できるようになりました。