騒音書簡1-29

2024年7月31日

スズキくん、

はて。カーラ・ブレイが僕のアイドルだったことはないな。アイドル視することは彼女と彼女の音楽に対し失礼な気がする。彼女が女であることは彼女の音の感性に関係していたのかもしれないが、僕には彼女の最後の夫君であるスティーヴ・スワローのほうが、少なくともよほど「女房」役的に音を出しているように聞こえる。〈音楽とジェンダー〉は主題として成立しうるのか。僕にはよくわからんね。彼女の生涯に対してはリスペクトしかなく、彼女の音楽に「女」性があるとしたら、ショパンやブラームスも「女」的だろう。さらに、例えばチャーリー・ミンガスの名曲Goodbye Pork Pie Hatの演奏に関しては、ミンガス・オリジナルよりカーラ・ブレイ・バージョン(アルバムBig Band Theory収録)のほうが「男」的だろう。同曲をジョニ・ミッチェルが歌ったものとブレイ・バンドの演奏の間には、ジェンダー的同質性など皆無に思える。

それはさておき、きみの前葉にはやや苦言を呈したい。先日のライブについて「種明かし」をした点に絡んで。それを「種明かし」と呼んだことに対して。「種明かし」は「種明かし」である以上、どこまでも正解である。しかしこの正解はアルバム『残酷の音楽』──ライブはこのアルバムのいわゆる「プロモ」だったはず──との関係において、ミスリーディングではないか。そのように、アルバムの「解説」を書かせてもらった人間としては言わずにおれない。アルバムから「コンセプト」を抽出し、音の組み立てを文字に再-現した者としては、きみの「種明かし」はそのいずれからもズレているように思える。僕がきみたちの作業に対し正解を与えたかどうかは知らない。だから聞いたはずだ。これでほんとうによいのか? と。僕にも疑念はあったわけだ。きみたちの前作Vita Novaとの関係において。『残酷の音楽』は明らかに別の作り方をしているように聞こえ、僕としてはその違う部分を思いきり拡大して言葉に「翻訳」したつもり。ところがきみの「種明かし」は、二つのアルバムの違うところを帳消しにするように思えた(Vita Novaの僕の捉え方について、読者には書簡第19葉を参照願いたい)。いつものきみ(たち)とは別の「世界」を『残酷の音楽』は文字通り構築しようとしていた──と僕は書いたつもり──にもかかわらず、きみは言わば森田くんを差し置いていつものきみ──偽古典主義?──に戻っている。

実際のライブもまた、アルバムの「精神」──と敢えて大仰な哲学者風物言いをする──からズレていた。まさに「種明かし」されている古典の挿入の仕方により。擬古典主義、と僕は言いたい。「偽」ではなく「擬似」。古典をほぼそのまま、それと分かるようにきみは挿入し、森田くんはそれを『残酷の音楽』からの引用を交えつつ、カオティックな多重音クラスターの中に吸収して、古典趣味(≒品の良さ)を「壊す」。心地よい忘我をきみは味わっていたであろう。こちらにはきみの出す音は次第に見分け/聴き分け難くなり、酩酊/陶酔(ivresse)のお裾分けを頂戴することになる。しかしこれはまさにニーチェ的ワグナーというかディオニソスとキリストの融合体験のようなもので、まぎれもないつまり「偽」ではない、一種の古典主義美学──17~18世紀ではなく19世紀の──に依りかかってこそ成立するものではあるまいか。だから擬古典主義と僕は言う。「形式」は異なるが「精神」において同じという意味における「擬」。

それが悪いと言っているのではない。実際、僕はVita Novaの古典趣味を「偽」古典主義として面白く聞いた。そこにあると僕に思えたのは様々な古典が持つ古典性のまったき消去でもあったので(「~風という支配的な色のない、静かな混沌」と僕は第19葉で書いた)。つまりそこには「反」古典主義もまた古典主義と同じくらい感じられ、そこに僕はきみが自分の主義/趣味に「偽」の語を冠する正当性を認めた。

ライブがゴールドベルク変奏曲からはじまるのではないか、という僕の予想は実は上に書いた僕の疑念と関係する悪い予感の延長線上にあった。アルトーの「異言」をどうライブの音に変換するのか、僕の頭にあった一つの仮想範例はデレグ・ベイリーの『スタンダード』と『バラード』であったわけだが、つまり既知の〈メロディー=言葉〉そのものの中から「異言」を取り出す試みであったのだが、きみはそれをしてくれまいという予感もあった。きみの「偽」古典主義はまさに「種明かし」が明かしているように、古典的ナンバーを混淆するところにあるので。きみの趣味からして三文オペラもどこかで出てくると思っていたよ。『残酷の音楽』は森田版『レクイエム』も使っていたが、あれをライブに取り入れ、かつ、きみ流の「偽」古典主義でその場に臨めば、答えは「擬」古典主義のivresse──そんなふうに僕は予感していた(ライブであることがivresseを容易にする)。「壊す」役目を森田くんに丸投げすれば、きみの「壊れない」メロディー群が全体をそこへ持っていくだろう、と。

そういえば灰野敬二もロックの古典について「異言」抽出の試みをしたことがあったな。とにかくベイリーも灰野も、そしてきみたちの『残酷の音楽』も、それぞれの違いは無視してもいずれもivresseとは無縁だ。そろそろモジュラーシンセにも、音を多重化させるDJ機器的使い方ではないソロ楽器としての地位を与えてやってほしい。「種明かし」されたやり方では、古典音源をサンプリング素材として森田くんの機械にあらかじめ仕込んでおいても結果はさして変わらないかも。きみたちの共同作業が文字通りのデュオとなりますよう。つまり機械のほうにも、音群を重ねるだけでなく、きみの側の「壊れゆく」演奏、つまりきみなりの「異言」化プロセスに合わせて、音を引き算するような展開をときにやってほしい。二人の文字通りの〈絡み合い〉を聞かせてほしい。僕は古典的バンド主義者にすぎるのだろうか。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

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