騒音書簡1-05

2022年7月30日

鈴木創士へ、

なるべく毎回、宛名の書き方を変えようと思っているのだが、ついに呼び捨てか? いや、そういうわけではない。今回の手紙は「鈴木創士」と名乗っている作家・音楽家に宛てているつもりである。同じように、今回の手紙は流れ弾を「佐藤薫」にも被弾させようと思う。君たちの7月2日のライブは、考えてみれば僕にとっては、二人が同じステージに立つのを見るはじめての機会であった。40数年前に見たEP-4の舞台に、「鈴木創士」はすでにいなかった。

「佐藤薫」は、ヴォイスとして出演するかぎり、マイク片手に座っていてほしくなかった。「佐藤薫」にはトルソとして、舞台中央に突っ立っていてもらいたかった。Velvet Undergroundにおける「ニコ」のように(「ように」をめぐる考察は続いている…)。楽器奏者は美神に仕える従者であってほしかった。君たちのステージは40年前よりはるかにExploding Plastic Inevitableの一環であったわけで、舞台にいない僕はまるでウォーホールになったかの気分であった(ヴェルヴェッツのこの連続ライブについて初耳の方はぜひYouTubeで検索して視聴ください)。音的にも絵的にも、ベースを含む電子音群の厚い層──マーラーやベルリオーズばり──が「真ん中」を形成し、その「下」でユンが気持ちよさそうにポコポコとアナログに太鼓を鳴らしている。トランペットとギターは「上」から介入して、全体を柔らかいベッドにして飛び跳ねたりベッドそのものを裂いたりする。「真ん中」が「上」と「下」を遊ばせる。「上」と「下」から「真ん中」にしてもらっている。ウォーホール(影のプロデューサーだ!)として言わせてもらえば、この構図にヴォイスの位置はない。だから「佐藤薫」は座っていたのだろうが、しかしそれは裏を返せば、突っ立って全体の「外」に出てしまえば構図を鮮明にする役を果たすことができた、ということでもある。現代のMelody Laughter(これも初耳の方はYouTubeで聴いてください)「として/のように」、僕は君たちのステージを聴いた。今この瞬間も聴いている。

そう、これは僕の妄想である。しかし聞き手に妄想を綴らせることもまた、音楽の効用ではないのか。これは前回の手紙で紹介した『鑑識レコード倶楽部』の著者に対する僕からの返答でもある。マグナス・ミルズも実は僕が今ここでしているようにしてあの小説を書いたはずだ。音楽と音楽について語ることの間の断層を、一つの妄想に仕立てて実在させたはずだ。鈴木創士の『離人小説集』を見よ。彼はそこで何人もの作家になりきっている。なりきることで、なることなどできない事実にようやく形を与えている。内田百閒の「よう」で「ある」鈴木創士とはこれいかに。文との関係における作家の固有名とは??

妄想という分かりやすく強い言葉を使ったが、僕は実のところ、自分の「市田良彦=アンディ・ウォーホール」という恥知らずの等式を妄想とは思っていない。実際、演奏中の君たちもまたここでの僕のようにしていたはずだ。すなわち「言葉」を聞いて「言葉」を返す、ただそれだけのことを。返す「言葉」がただ「正しい」反応、期待される返事であるなら、バンド演奏など成立しない。出される音がつねに一定「間違っている」から、会話としての演奏は続き、演奏しながらイライラしたり、調子にノリすぎたりする──まさに妄想に閉じこもる──こともあっただろう? 観客をもう一人のバンドメンバーとして巻き込まずして、彼に妄想を抱かせずして、どこがライブよ。生物学の教えるところでは遺伝とは情報伝達であるそうだが、だとすれば「正しい」情報、ノイズを含まない情報しか伝達しないときには、子が親の完全コピーとして生まれるという気持ちの悪い事態にしかならないだろう。これもまたある科学史家の言葉を受け売りすれば、「正常」な人間は「正常にされた怪物」にすぎないそうな。その人いわく、生物はみな「間違える能力」を持っている。バンドのライブは、事後に持たれる感想も含め、それを実証している。

けれどもまた、そこが僕をいつも苛立たせるところなのだが、こういう「誤謬(エラー)の哲学」は結局のところ、「正常化」の包括的正当化にしかならず、妄想であれノイズであれ偶然であれ、それが「真」として炸裂する瞬間のことを捉え損なっている。言語と音楽はいずれもエラー含みの生命活動であるには違いないのだが、そのように見切ってしまえば、「EP-4=Velvet Underground」を幻視する「市田良彦=アンディ・ウォーホール」にはなんの面白みもない。「私は狂っている」と自白した人間は病院を退院させられる。それが分かっているならあなたはもう狂っていませんよ、と言われて。言語と音楽の間には越えられない壁があるから、越えること、妄想することに意味がある。バンド活動を続けること、言葉を綴ることに固有の「技術(パフォーマンス)」が生まれる。

君たちのEP-4に「真」なるノイズを炸裂させるためには、次はフィルターをかけない生声を登場させたまえ、と影のプロデューサーは言っている。そうだ、7月2日に生のアノニモ夫人(アルバムを聴いていない人はすぐに買ってください)にお会いできたことはこの上ない光栄でありました。

市田良彦

 

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

【Monologue】YouTubeで「万年蘭」を発見する。ええな~俺もまた拡声器で応援されてみたいわ(遠い昔を思い出す)。今更ポン中にはなれんけど。