騒音書簡1-19

2023年9月30日

創士くん、

森田潤と君の競作、 《Vita Nova》を聴きながらこれを書きはじめている。率直に言うが、これは「作品」として、EP-4 unitPのライブよりよほど面白いではないか。二つを比べることはそもそも間違っている、ということを前提にそう言っている。後者にはいわゆるリズム隊が作る音の骨格が厳としてあり、君のキーボードを含む、その時々で入れ替わったりする音群は言わばその都度の介入的、闖入的要素をなしつつ、全体がいつもの、かつ一回かぎりのEP-4 unitPを聞かせ─見せる。楽しいよ、だからいつも。ところが今回のアルバムはまったく違う。どこにも骨格がない。様々な記憶が詰まった二人の引き出しから取り出された諸要素が平等に、ゼロから「作品」をなすように構成し直されている。君は偽古典主義者を自称するのだから、当然のことかもしれないが。極論すれば、バンドにはそのバンドそのものしか「作品」はないと思っている。一度だけのセッションは「実験」ではあっても、その結果が「次」に移入されなければ、たとえどんな素晴らしい経験を演奏者と観客にさせてくれたとしても、まだ「作品」ではない。バンドは続いてこそ、かろうじて「作品」。ところが 《Vita Nova》は否応なく「作品」だろ? はじまりがあって終わりがあり、もう世に出てしまっているのだから(ひょっとしてまだ?)。おまけにそこでは、数々の「~風」であることが、どれも骨格をなさないよう組み合わされ、「一つ」へと構成されている。断片的でもなく、構造的でもない。いや、森田のことだから構造を埋めているのだろうけれど、要素のほうはそれを帳消しにするくらい様々な過去をアルバムの今に響かせる。

しかし、それが「よほど面白い」と思える要因は、半分は僕の側にある。君たちの記憶の引き出しは、それが記憶に関わるかぎりは僕とも、いや誰とでも、多寡は異なれ重なる部分を持つ。あまり使いたくない語だけれども文化というものは拭いがたく存在し、それがあるおかげで「作品」もまた存在する。君たちのアルバムについて言えば、映画では『甘い生活 La dolce vita』と『愛の嵐』がなければ成立しえず、ランボー──RamboではなくRimbaud、どうにかしてほしい、この同音異義は──を「68年5月」に召喚したいわけだろ? それらの名前によって刺激される記憶が僕のなかにもあるから、それが一種のジャンプ台となって、僕は君たちの「作品」だけからなる「今」、つまり記憶のそとに飛び出すことができる。「~風」という支配的な色のない、静かな混沌に身を委ねることができる。記憶のなかにあるあれこれのことどもは全部〈終わった〉のだ、と思うことができる。一世代に属する初老の人間として。若い人たちはまた違った聴き方をするだろうけれど。

この〈そと〉は君たちがアルバムを作るにあたって設定した〈ゼロ〉地点、「作品」の〈はじまり〉と同じ場所のはずだ。まだかつすでになにもない場所。当然、「作品」もまた、そこにはない。

ここ何回かの書簡で話題になった「作品の不在」だが、この不在によって定義される「狂気」は、書けない不能状態やその結果としての白紙や無音とはまったく違うものだと僕は考えている。いわゆる「病む」こととはまったく関係がない。文章が乱れることとはなおさら。「作品」は、私がもっぱらそれを作ったと思う/語る個人と、この帰属ないし所有の関係を承認する他人がいるところにしか存在しない。つまり「作家」がいる地平でしか成立しない。だから、これは「私」とはいささかの関係もない〈世界のありよう/ことわり〉だと主張するような、たとえばヘーゲルの『大論理学』──聖書でもよいぞ──は「作品」ではないし、最初に設定したはじまりと終わり──偶然発見された同音異義──を厳格な「手法」にしたがって繋いでいくことで小説を書いたルーセルは「作家」ではない。二人とも、書くものにいささかも「私」の個人的主体性を移し入れようとはしていないので。「作家」のいる「作品」は実に近代主義的概念であるのだろう。いわゆるアウトサイダー・アートの諸作品を「作品」にしているのは、作った本人ではなく、それをアートとみなす他人だ。本人にどういう意図があり、本人の「なに」がそこに移入されているのか、当の本人にはどうでもよいから、というより誰にも分からないから、彼らはアウトサイダーつまり〈そとの人〉であり、それを「買う」者たちがそれを「作品」にしているだけのこと。

「作品」と「作品の不在」にさしたる違いはない、と僕が書いたことには、ある意味単純な理屈しかない。上に書いた〈そと〉からしか「作品」ははじまらず、「作品」は終わればそこに帰り、そこにとどまれば、人は「狂人」呼ばわりされかねない。ヘーゲルをそう呼んでどこが悪い? と僕はルーセルを読みつつ思う。はじまりと終わりが同じ〈ゼロ〉地点であるからあらゆる「作品」は〈ある〉のに、どうしてそれを〈ない〉ことと区別しないといけない? しかしこの同じはすでに十分、それ自体で「狂って」はいるだろう。君たちの「作品」は君たちの「作家」性──どんな「クリエイティブ」な「個性」を持っているか──とはまったく異なる次元で、〈あり〉かつ〈ない〉のだよ。映画の世界で言われる「作家主義」は、見る批評家の側にしか存在しない。もっとも、「作家」が同時に批評家であることもつねに可能だろうけれど。

しかし、極めて現代的な事態として、サンプリングと編集と音響生成装置で、どんな「~風」でも「ない」音の絵を「個人」的に構想することができ、「作品」化できることには今更ながら驚く。「新しい生活 vita nova」はどこにでも転がっている、とアルバムを聞くあらゆる個人が思ってくれることを願う。文化的に聞くことをやめればよいだけだ。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

【Monologue】ストーンズばかりかパティ・スミスにも封印された曲があるのね。文化的事情で聞けなくなることもあるわけか。