騒音書簡1-21

2023年11月29日

創士くん、

そう、リスナーは怖いよ。誉めるから。ライブ終わりに「最高!」なんて声をかけるのはまさに誉め殺しではあるまいか、とよく思う。そのときリスナーは自分がいかにお高くとまっているのか忘れている。演者を評する地点から言葉を発していることを。そしてその評言が残酷であるのは、実は最高点を付けるという行為以外の何も語っていないのに(まさに行為遂行的言語だ)、演者をリスナーとのSM的関係に巻き込み、知らぬふりを決め込むから。誉められた演者は喜ぶことでリスナーに従属するか、それとも次は彼(ら)の期待を裏切ってマウントを取ってやろうかという気分になるか、いずれにしても、「最高!」は不可避的に一種の支配-従属関係をバンドの音に持ち込む。スターは君主であるけれども、ファンを恐れざるをえない。自分がファンの奴隷であることをよく知っている。ファンは自らの崇拝に、いつかスターをその座から引きずり下ろしてやるぞという姿勢を込めている。主人と奴隷の古臭い弁証法の戯画だね。いずれが勝利を収めるにしろ、一つの結末は見えている。バンドはいつか潰れる。潰れなくとも消える。

だから、少しはそれに抗いたい俺は、EP-4の昔からのファンではないと断りを入れつつ「誉める」ようにしているつもりではある。そして思う。「作品」は、というか正確には「作品」という概念は、少なくともこのSM的関係には解消されない何かを演者とリスナーの関係に持ち込んでくれるのではないか。「作品」としての君たちのアルバムには、演奏している最中、アルバムを制作している渦中の君の経験なり思いなり状態は、もはや関係ないのだから。そこにあるのは、もう第三者的なモノ。演者からもリスナーからも自立した音。君自身が「作品」から弾き飛ばされているわけだ。弁証法の語彙で言えば「疎外」されている。だからもう演者には自分の「作品」に対してはファンでいるぐらいの権利しかない。もちろんアンチになる権利もあるが。

しかしどうして「作品」はそんな自立性を持ってしまうのだろう。話を音楽にかぎって言えば、ここでずっと(?)書いてきたことだと思うが、音楽が言語の「よう」であるからだと思っている。言語を「反復」しているからと言ってもいい。何かを「語って」しまうから。リスナーの「最高!」発言もその一つの証拠だろう。そして音楽が語りうることについて言えば、それは言語の語りうることより確実に少ない。音楽は言語より語りの内容についてははるかに希少だ。だからつい「最高!」とか貧相な誉め言葉を音楽に向かって放ってしまう。同じことは言語そのものについても言える。それは「世界」について何でも語りうるふりをしているが、実は「世界」を構成しているモノよりはるかに少ない。「世界」は無限だが言語は有限。だから言語には必ず同音異議が生じる(一つの音で複数のことを語る)。そして言語はこの本性的希少性により、語りそのものをどんどん増幅させていく。何かを正確に語ろうとすれば、費やされる言葉はどんどん増えていく。無限の世界に拮抗するには言葉を無限に増やすほかない。音楽はそんな言語より、「世界」に対しはるかに希少な「言語」であるだろう。一音で「世界」まるごとを表現できるくらいに希少。言語はモノとその「世界」を反復し、音楽はその言語を反復する。音楽は言語よりはるかに少ない表現手段により、言語が表現しようとするものを表現する。というか表現してしまう。リスナーを「世界」に送り届けてしまう。「世界」に没入させてしまう。

モノと言語と音楽を繋いでいるのは、「音」というモノだろう。話者、演者、読者、リスナーから独立している第三者であり、表現される「世界」に属していながら表現する手段として使われるモノ。言語も音楽も「世界」を反復することで、「世界」との差異や距離を開きつつ、同時にそれを埋めようとする。「これが世界だ」と主張する。反復とは差異の肯定かつ否定だ(モノマネを想起されたし)。言語と音楽はこんなふうに両者に対し外的な「世界」を介して繋がっているだけでなく、「音」を介して互いに内的な繋がりを持っている。「韻」を考えてみればよく分かるはず。「韻」は言葉にリズムを刻み、メロディーを持ち込まないか? また純粋音楽におけるリズムやメロディーや音響は、それ自体同音異議であるかのように、意味をめぐる空想、想起を掻き立てないか? 詩は歌であり、音楽は詩であり…という循環は言わば「音」から派生する必然であるかもしれない。

だから「音」には「世界」を組織する/生む力がある。そうレーモン・ルーセルは信じた。《billard》(ビリヤード)と《pillard》(略奪者)のほんのちょっとした「音」の違いから、 一つの《histoire》(物語=歴史)の全体を組み立てることができる、と。ほとんど同じ「音」が反復される時間と空間の隙間に、「世界」全体を挿入することができる、と。「はじめに言葉ありき」という聖書の教えをこれほど忠実に守った創作活動はなかろう。そしてルーセルの読者は知っている。彼の「作品」は読めた代物ではない。「世界だ」という触れ込みで差し出される「作品」はこの上なく「世界」からは遠く、もはや「作品」ではない。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】この手紙がサイトに掲載される頃には、私が編者となった『裸のラリーズ詩集』が世に出ています。そして私は渋谷PARCOなどというバブル時代の遺産のような場所で「トークショー」なるものを演じ終わっています。