2024年11月28日
UnitPの首魁にして自らの「百二十日」を綴り続ける作家、鈴木創士へ、
このところのmy music lifeはますます混沌の度合いを増している。灰野敬二と森田潤の共作ときみたちのライブ盤を堪能する合間に、R.L. Burnsideの古いブルースのはずなのにポストパンクっぽいアルバムや、カタロニア語で歌う(?)フラメンコバンド(?)Ojos de Brujo(「魔法使いの目」という意味らしい)の数枚を連続でかけたり、バッハのチェロ曲を延々と流したり。とにかく、一貫性がない。けれどもその混沌の効果については、あるいはぼくがそれらのあいだを飛び回りたくなるほとんど無意識の理由については、はっきりしている。言葉というか歌こそ、音楽にとってはノイズなんじゃないかという問いにしばし向きあってみる、ということだ。逆に言えば、音楽は言語にとってそもそもノイズなのでは、という問い。
きみたちのアルバムに少し挟まれる、人の声がもし意味のある歌詞だったらどうだろう。それはもう、暗い無国籍ファンクのうねりを邪魔するだけだろう。サウンドに日本語の色がついてしまう。しかし、なくてもいいはずの人の声が入っていることで、全体の無国籍性とファンク性が一挙にノイズ性を帯びる。Ojosのライブアルバムに英語で歌うボブ・マーリーのカバー曲が入っているのだが、 « Get Up »が「ケチャップ」に聞こえてしまう訛りや、他の曲でときおり挟まれるアフリカの言語の明らかに異質な響きが、ああ、ワールド・ミュージックってほんとうにあるんだな、と思わせてくれる。ジャンル音楽にとっては一個のノイズのようにして。バッハのチェロ曲なんて、人の声の成分そのものから言語的意味を除去したような官能的肉質を、どんどんこちらに突きつけてくる。灰野敬二には、短くて分かりやすい英語のフレーズでサウンド全体を色付けしてしまう、きみたちとは正反対の指向性があるようにも感じる。これは無意味だけれど意味なんだよ、と言われている気分になる。
ぼくはどうにも「超絶技巧」というやつが苦手だ。どんなジャンル音楽においても。難曲を一音たりともたがえずに演奏したり、そのことを誇ったり褒めそやしたりするのを見たり聞いたりするたびごとに、なんのコンプレックスがそうさせるのだ?と鼻白らむ。そこまでノイズが嫌か?と問いただしたくなる。しかしそれとは正反対に、ぼくにとっての「いい歌」(ほとんどの場合、日本語の歌謡曲)を聴くたびに、音楽と言語の壁をやすやすと超え、意味と音の幸福な合致を実現していることに羨ましくなる。
そしてノイズをめぐるこの感覚が、ぼくにとっては作品と作品の不在の関係にもなっている。一方において、作品は完結している。はじまりがあり、終わりがある。どんなに駄作であろうと傑作であろうと、その点はどうしようもない。けれどもその完結性を与えるのは、作家であるのと同程度に他人だ。作品を作品として受け取る他人がいなければ、それはそもそも作品ではない。サドの諸作品など、事後的に書物になっていなければ、獄舎に打ち捨てられた囚人の遺品、ゴミであったろう。そんな原稿の束がいまやフランスの国宝。要するに、「作品」概念はどこまで行っても「商品」性を引きずっているのよ。他人にとっての使用価値がなければ、交換価値はなし。たとえその他人が第一読者たる自分であっても、作品そのものに、それを完結させる独立した「作品」性はない。作品は「モノDing」ではなくあくまで「ことがらSache」だ。
ところが「ノイズ作品」は、そんな作品と作品の不在のちょうど中間を聴かせよう、読ませようとする。そのことが意図されていなくても、この中間性が受け取られれば、それは「ノイズ作品」になる。きみたちのアルバムにも、いやUnitPならぬ「(かつての)EP-4」という上位コンセプトそのものにも、電子的変調を施された人の声が、ほとんど「ノイズ作品」としてのアイデンティティのようなものを与えている──ようにぼくには受け取れる。その点では、桑田佳祐や忌野清志郎や吉井和哉の「いい歌」と同列にぼくのなかでは並んでいる。ちあきなおみの「いい歌」とはまた違う、歌謡曲の「ノイズ」化。きみたちがPファンクと電化マイルスの「ノイズ」化だとすればね。
そして、音楽家たることを遠い昔に諦めてしまった吾輩、ひたすら文を綴ることに専念しようとひそかに決意している我が身にとって、かつて受け取った最大の賛辞は、「ブルースじゃん」という感想であった。「いい歌」として聴かれる文章。そんな作品として完結させようといつも強く思うと同時に、心地よいものとして「消費」されてたまるか、とも念じている。この両極のまさに中間に、この「騒音書簡」もある。かろうじて本業の「~論」を書くことも。ロゴスのなかにメロディとリズムを導入すべし!
もっと言えば、ぼくには日本語がそれ自体で一種のノイズだ。10年間ほどほとんど日本語の本を読まなかった時期があり、そのあとしばらく、日本語の文章をどう書けばいいのか途方に暮れていた。けっして母語にはならないフランス語と、いっこうに書き方の定まらない日本語のあいだに、ぼくは自分の言葉を打ち捨てていた。読んでくれた人々には申し訳ないと同時に、それもアリでなければ、裸のラリーズなどもっとナイではないか、といまもって思う。水谷孝の凄みは緻密さと粗雑さの緊張関係以外のなにものでもないだろう。作品になっているかどうかなど、作り手にとっては「知ったことではない」という態度でよいのではないか。自分がなにを表現しているのか、そもそも表現行為をしているのかも。きみにはいつまでもそんな高踏的身振りの仲間でいてもらいたい。
きみたちのアルバムに少し挟まれる、人の声がもし意味のある歌詞だったらどうだろう。それはもう、暗い無国籍ファンクのうねりを邪魔するだけだろう。サウンドに日本語の色がついてしまう。しかし、なくてもいいはずの人の声が入っていることで、全体の無国籍性とファンク性が一挙にノイズ性を帯びる。Ojosのライブアルバムに英語で歌うボブ・マーリーのカバー曲が入っているのだが、 « Get Up »が「ケチャップ」に聞こえてしまう訛りや、他の曲でときおり挟まれるアフリカの言語の明らかに異質な響きが、ああ、ワールド・ミュージックってほんとうにあるんだな、と思わせてくれる。ジャンル音楽にとっては一個のノイズのようにして。バッハのチェロ曲なんて、人の声の成分そのものから言語的意味を除去したような官能的肉質を、どんどんこちらに突きつけてくる。灰野敬二には、短くて分かりやすい英語のフレーズでサウンド全体を色付けしてしまう、きみたちとは正反対の指向性があるようにも感じる。これは無意味だけれど意味なんだよ、と言われている気分になる。
ぼくはどうにも「超絶技巧」というやつが苦手だ。どんなジャンル音楽においても。難曲を一音たりともたがえずに演奏したり、そのことを誇ったり褒めそやしたりするのを見たり聞いたりするたびごとに、なんのコンプレックスがそうさせるのだ?と鼻白らむ。そこまでノイズが嫌か?と問いただしたくなる。しかしそれとは正反対に、ぼくにとっての「いい歌」(ほとんどの場合、日本語の歌謡曲)を聴くたびに、音楽と言語の壁をやすやすと超え、意味と音の幸福な合致を実現していることに羨ましくなる。
そしてノイズをめぐるこの感覚が、ぼくにとっては作品と作品の不在の関係にもなっている。一方において、作品は完結している。はじまりがあり、終わりがある。どんなに駄作であろうと傑作であろうと、その点はどうしようもない。けれどもその完結性を与えるのは、作家であるのと同程度に他人だ。作品を作品として受け取る他人がいなければ、それはそもそも作品ではない。サドの諸作品など、事後的に書物になっていなければ、獄舎に打ち捨てられた囚人の遺品、ゴミであったろう。そんな原稿の束がいまやフランスの国宝。要するに、「作品」概念はどこまで行っても「商品」性を引きずっているのよ。他人にとっての使用価値がなければ、交換価値はなし。たとえその他人が第一読者たる自分であっても、作品そのものに、それを完結させる独立した「作品」性はない。作品は「モノDing」ではなくあくまで「ことがらSache」だ。
ところが「ノイズ作品」は、そんな作品と作品の不在のちょうど中間を聴かせよう、読ませようとする。そのことが意図されていなくても、この中間性が受け取られれば、それは「ノイズ作品」になる。きみたちのアルバムにも、いやUnitPならぬ「(かつての)EP-4」という上位コンセプトそのものにも、電子的変調を施された人の声が、ほとんど「ノイズ作品」としてのアイデンティティのようなものを与えている──ようにぼくには受け取れる。その点では、桑田佳祐や忌野清志郎や吉井和哉の「いい歌」と同列にぼくのなかでは並んでいる。ちあきなおみの「いい歌」とはまた違う、歌謡曲の「ノイズ」化。きみたちがPファンクと電化マイルスの「ノイズ」化だとすればね。
そして、音楽家たることを遠い昔に諦めてしまった吾輩、ひたすら文を綴ることに専念しようとひそかに決意している我が身にとって、かつて受け取った最大の賛辞は、「ブルースじゃん」という感想であった。「いい歌」として聴かれる文章。そんな作品として完結させようといつも強く思うと同時に、心地よいものとして「消費」されてたまるか、とも念じている。この両極のまさに中間に、この「騒音書簡」もある。かろうじて本業の「~論」を書くことも。ロゴスのなかにメロディとリズムを導入すべし!
もっと言えば、ぼくには日本語がそれ自体で一種のノイズだ。10年間ほどほとんど日本語の本を読まなかった時期があり、そのあとしばらく、日本語の文章をどう書けばいいのか途方に暮れていた。けっして母語にはならないフランス語と、いっこうに書き方の定まらない日本語のあいだに、ぼくは自分の言葉を打ち捨てていた。読んでくれた人々には申し訳ないと同時に、それもアリでなければ、裸のラリーズなどもっとナイではないか、といまもって思う。水谷孝の凄みは緻密さと粗雑さの緊張関係以外のなにものでもないだろう。作品になっているかどうかなど、作り手にとっては「知ったことではない」という態度でよいのではないか。自分がなにを表現しているのか、そもそも表現行為をしているのかも。きみにはいつまでもそんな高踏的身振りの仲間でいてもらいたい。