騒音書簡 2-2

2022年4月29日

So-siくん、

そう来たか、ジェイムズ・ジョイスか。ノイズ・ミュージックはさしあたり『フィネガンズ・ウェイク』の「ような」ものか。最後までそうであるかはさておき。前々から小説家としてのきみにいつか聞いてみたいと思っていたことがあった。いちおう文章を書く人間としてのおれには「できない」と思うことを、きみはときどきやる。小説と論文の違いの問題ではない。きみはとても論理的な文章も書くし、おれは小説のようであろうと意識して文章を書いたこともある。けれどきみはおれが自分には「できない」と自覚していることを、平気でなのか、そこになにかを賭けてなのか、すすんでやる。それが「ような」とか「ように」と書くことだ。おれはそれを意図して避けてきたように思う。

きみがそう書いているのを目にするたびに思い出す。「手術台の上でのミシンとコウモリ傘の出会いのように」。「ような」とか「ように」ときみが書いているのを見ると、オレはまだシュール・レアリストだぞ、と、きみが宣言している「ように」聞こえるんだ。アンドレ・ブルトンを引き継ぐ覚悟には敬服する。ブルトンが良い悪いではなく、自分の「作品」をどこにどう置くかをきちんと知っているということに脱帽する。おれに対し、ああおれはいつの頃からかシュール・レアリズムからも、さらに「文学」からも遠ざかろうとしてきたんだな、と思い起こさせてくることに感謝さえする。きみにも言ったことはあると思う。おれは今、ほとんどの小説が読めないんだ。入っていけない。

それは多分、「ような」/「ように」が言語以前にある──と想定される──心的経験なのか世界なのかを「隠喩」してしまうからだ。言葉はそれ自体でなにかしらの現実の隠喩なのか? それが「心の闇」であろうと、「いまどきのリアル」であろうと、「狂気」であろうと、言葉がその隠喩的表現であろうとしていると感じたとき、そんなものには興味がない、とその言葉に向かって言いたくなる。そんなもの、知ってるよ、いまさら言われなくても、と。歴史的蓄積のあるこれだけの情報社会(!)で、言葉で、それも喩えてみせる言葉でしか伝えられないものなんてあるのか。歴史を、年寄りを、なめんなよ。喩えなくていいから、情報だけくれ。

とはいえ、かく言うおれも、自分の書くものは「歌」の「よう」であってほしいと願っている。おれの文章は世界の隠喩でなくとも音楽だ! 踊りだ! と見栄を切りたい気分を、論文を書くときにも持っている。特に助詞の使い方と文末処理には「リズム」を賭けている。フランク・ザッパについて書いたときには、頭のなかでずっと彼の『黙ってギターを弾け』を流していた。CDを聴きながらではない。そんなことをすれば同調できない。おれは無音の状態でしか文章を書けない。たったいま頭のなかで流しているのは「ブラウン・シュガー」だ。もうコンサートで演奏しないというニュースを耳にしたから、おれがキースとミックの代わりに演ってやるぜ、ぐらいの心持ちでいる。

この差はなんなのだろう。きみの意見をぜひ聞かせてほしい。

「同調」と書いてしまったことに関連して、少し補足しておく。「ような」/「ように」を目にするたび、ほとんどの小説を読むたびに、おれは世界から遠ざけられた気分に陥る。隠喩は、隠喩されるものからは離れていることを前提にするからだろう。隠喩は世界との同調を妨げる。だから逆に、世界からいったん離れるために音楽に没入する時間もおれにはある。なに、ごくありきたりな効用さ。イヤホンをつければ外界から自分を一定遮断できる。そしてスピーカーから大音量でノイズミュージック──例えば先日の森田潤のライブアルバムな──を流せば、それが世界そのものになるから、つまり現実世界の隠喩たりうるほどリアルさを乗っ取ってくれるから、隠喩されたリアルな世界を一瞬忘れることができる。ああ、イランのペルセポリス神殿でクセナキスの「ペルセポリス」を聴きたかった! ベートーヴェンではもう隠喩にさえなれない。いっとき自分でマスタリングすることに凝った裸のラリーズの客録り音源も、おれにはもうだめ。いったいどうしてだろう。

市田良彦

 

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

【Monologue】この歳になって英語に苦しめられている。体がついて行かない。