騒音書簡2-5

2022年7月28日

こんにちは

君と同じように「比喩」を嫌悪している作家マグナス・ミルズの『鑑識レコード倶楽部』を読ませてもらったよ。だけど俺にはこの比喩の拒否はこの作家特有のレトリックにしか見えなかったし(たとえそれが彼の長きにわたる経験に裏打ちされたものであるとしても)、この小説全体がそもそも何かの「比喩」のようではないかと感じた(それが小説というものの本性かもしれんが)。政治的寓意、集団的寓意という点では、俺の訳したベルナール・ラマルシュ=ヴァデルのフェイク・バロック小説『すべては壊れる』のほうが俺にはしっくりくる。この政治的集団的寓意は「死」に包囲され、現代の死体解剖所見となっているのだが、作家本人も頭をピストルでぶち抜いて自殺したのだからオチまでついている。まあ、自分が訳したのだから、単なる手前味噌なんでしょうが。

それはそうとして、音楽を聴くということについては、この小説が語るように、ノーコメント派(鑑識派)、告白派、認識派がいるというのは確かにそのとおりだろうし、なかなか言い得て妙だった。鑑識派の主眼は四の五の言わずに「聴く技を磨く」ことなのだから、究極的には聴くことから「思考」を追い出すことが求められることになりそうだ。「感情」については言うまでもない。この場合、「感覚」なるものはどのあたりにあるのだろう。しかしそこまでいけばこの試みは至難の技だ。モンクについて君が俺たちunitPに要求するように、「モンクのように」に試みるとして(これにかなり深い意味があることは俺にはわかるが、こんな要求は無謀だよ)、どうやって「思考」を追い払えばいいのだろう。

演奏しているときに何も考えないでいることは俺の課題なんだ。ただしあれこれ考えたほうがいいときもある。盆栽音楽については、凡庸な思考の臭いがぷんぷんするだけで、肝心の内容がそっちのけのものや、逆に内容盛り沢山でもミュージシャン臭で辟易するものがあるが、君が盆栽音楽を退けるのはうなずける。音楽は鑑賞するものじゃない。趣味でもない。告白派そして認識派には盆栽を愛でる傾向がある。

ところでこの本で一番はっとした箇所がある。パブの臨時女給でミュージシャンでもある、この小説の隠れた主人公ともいえるアリスが、鑑識派の「俺」に放った言葉だ。《「あんた、ここで何してるわけ」アリスは言った。「あんたそもそも、音楽なんて好きじゃないじゃない」》。お前そもそも、音楽なんてどうでもいいじゃないか! 音楽を聴くふりしているだけだろ! ああ、なるほどそういうことがあるな。アリスの言うとおりだ。彼女はミュージシャンなのだから、とだけ考えてはいけない。だけど俺は音楽が好きなのだろうか。まったく音楽を聴く気がしなかったり、受けつけないときもあるが、たぶん好きなのかな。君はどうなんだ。佐藤薫はどうなんだろう。こんな馬鹿げた質問を彼にしたことはないが、佐藤はオーケストラの指揮者のようなものだから、誰よりも音楽を注意深く聴いてきたことは確かだ。聴いてきた音楽の範囲もとても広い。それは俺が保証する。でも音楽を注聴することは音楽を愛することなのか。それとも佐藤の頭のなかでは、音楽ではなく、音が鳴っているだけなのか。音楽が好きというのは何のことなのか。

こんなことを思ったのは、もうひとつには、先日、氷川きよしをテレビで見たからだ。彼のビジュアル的変貌はとてもいい選択だったと思うが、その番組で氷川はジャズのスタンダードを歌おうとしていた。嫌悪していた演歌をずっと無理やり歌わされてきた腹いせはよくわかるが、歌ったジャズのスタンダードはひどいものだった。相変わらず彼の歌う節回しはジャズではなく、演歌のままだった、というようなことが言いたいのではない。でも俺にはわかったんだ、こいつは音楽が好きじゃないな、って。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】昨日、アルトーについてのインタビューを受けた。熱中症の夜。