騒音書簡2-07

2022年9月30日

市田君

前回の君の手紙に反論がある。好き嫌いで物事を判断することは馬鹿げているし、反動的で無益だということも重々承知している。だが僕は「文学」が好きかとも、「哲学」が好きかとも聞いていない。そうすぐに一般化しないでくれよ。書き手として、あいそよく、僕はフォノンのためにここで「騒音書簡」を書いていることをまったく意識しないでいることはできないのだから、当然、音楽の話になってしまう。でもローリング・ストーンズが好きか嫌いかじゃなくて、僕は「音楽」が好きかということについて話をしたんだ。音楽が好きか嫌いかということは、あっ、そう、では済まされないところがある。本質的なことなんだ。誰にとって? 僕にとって? ああ、そのとおり! マグナス・ミルズ『鑑識レコード倶楽部』はアイデア小説としては非凡だけど、僕にとってはそれだけという感じだった、つまりそんな意見など「あんたの好みの小説じゃないんだ、あ、そう」で済むところがあるが、「音楽」については同じとは言えない。君の言うのとは反対に、音楽について、好き嫌いはそう簡単には反転できないと思う。『鑑識レコード倶楽部』では、あのアリスの言葉はやはり僕にとって当意即妙なままだ。《「あんた、ここで何してるわけ」アリスは言った。「あんたそもそも、音楽なんて好きじゃないじゃない」》。

今はバンドの哲学や社会学について話をしているのではないし、自分対自分、自分対他者のことはさしあたりここでは置いておく。君が音楽を好きだとしても、それは僕に直接関わりがないだろう。だが嫌いだとすると、話は違ってくる。音楽が好きな思想家、嫌いな思想家や書き手は、少なからず名前を上げることもできるだろうし、音楽あるいは音楽的ということについて無感覚な思想家や書き手を僕は心底信用できないところがある。耳があるのに音楽が嫌い、嫌いだから音楽を死ぬまで聴きたくないということをうまく想像できない。「思考」そのものとの関係、あるいは五感全体の対比においてね。それに音楽を嫌いな人がそう簡単に好きになったり、音楽が好きな人が年を経て嫌いになることがあったりするのかな。そんな芸当は聞いたことも見たこともないよ。音楽を聴くことができないという状態と(それは僕にもしょっちゅうある)、音楽が嫌いというのは全く違うことなんだ。

君は僕の第一書簡の空耳の話にそれらしい反応を示さなかったが、また蒸し返すなら、聞こえないこと、実際には聞こえていないこと、あるいは空耳は、音の対極にあるのではないことは君も承知してくれると思う。今はまだうまく言えないが、空耳が聞こえていること、耳鳴りを聴くこと、それを意識せざるを得ないことは、音楽を聴くことと無関係ではあり得ないように思うんだ。しかも空耳はつねに「騒音」と対になっているし、それこそ反転可能だ。これらのこと自体が、ただ単に音を聞いているということにしても、あるいは無音を聴きとろうとする意志にしても、それらは「音楽」の範疇にあるということを示している。耳の聞こえない人だっているじゃないか、って? 生まれつきの聾者も何も聞こえないという感覚そのものによってある種の「音」を聞いているのだと思う。音楽を聴くことは、物質としての音-無音をひとつの身体的反応として享受することであり、身体は延長をもつのだから、この反応と無反応は身体の延長のなかにもあるからだ。しかしスピノザに反するようだが、これを延長における精神的反応だとしても何ら齟齬はない。音楽を聴いて、あるいは聞こえないことでそれを享受することは、そもそも身体的「矛盾」を、身体のなかにある種の乖離を引き起こすことだからだ。何が言いたいかといえば、音楽を聴くことは(身体的)空耳だということになる。

こんなことは全部個人的なことだろうか。たぶんそうかもしれないし、音と音楽をごっちゃにしていると反論されるかもしれないが、ノイズにおいても、それは僕にとって同じ原因結果を伴うものとしてある(これは君が言うようにキリスト教的だろうか)。ただの感想と受け取られても仕方ないが、ノイズを聴こうとする人、ノイズを聴くことのできる人は、音と音楽を分けて考えることができない。クセナキスを引き合いにするまでもなく、それが基本じゃないかな。もし音楽が嫌いな人であれば、このようなことは理解できないと思う。

最近読み返していたので余談を。中上健次という作家にとって「路地」は愛憎相半ばするものとして存在した。だが中上は明らかに路地に矛盾した観念的「愛着」を抱いていた。失われたにしろそうでないにしろ、なまの現実としても、一種のサーガとしても、路地が好きだった。中上ならそう答えることをためらわなかっただろう。路地からはいろんな音がする。ラジオ、テレビのニュースや相撲や軍歌、家の外に漏れてくる話し声、茶碗と箸がかちかちあたる音、女と子供の声、向こうから聞こえる小川や雨だれの音……。中上はそれらの音をアルバート・アイラーのテナー・サックスの攻撃性とその消えゆく余韻のなかにも聞き取った。音楽はそのような「存在」でもあるし、存在論的な次元を確固としてもつかもしれないが、存在を瓦解させるところもあって、その意味で中上の観念のなかの路地は僕の言う「音楽」に似ているかもしれない。まず最初に、そこにいた者、あるいはそれを聞いている者に、君が言うように、極めて実在的な「妄想」を要求するんだ。

君の言う、好き嫌いという「規範」への抵抗を揶揄したり、その邪魔をしたりするつもりはないが、君が答えなくても、君の答えを留保する必要はないと思う。じゃなければ、ショパンではなくモンクに衝撃を受けたという君の「告白」はあり得ないよ。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】秋になったらなったで、うれしいけど、いつものように体調が良くないです。