騒音書簡2-18

2023年8月25日

鈴木創士兄、

アルトーとヴァレーズの話は、以前、貴兄の文章で読んだ記憶がある。そのときにも思ったが、アルトーはヴァレーズの特にどの曲にどのように惹かれたのだろう。文献的には知りようないかもしれないが、話をわかりやすくするためと、この書簡で取り上げるにはいかにも相応しかろうとも思うので、「騒音主義」の代表曲と言われた「イオニザシオン」だと仮にしてみる。まず思うのは、あれは「騒音」か? あれをかつて「騒音」視させたのは今となってはひたすら、伝統的なオーケストラ編成が出す音色にすぎなかったであろう。さらに、音楽は旋律と和音から構成されるという観念であったろう。今となっては、「イオニザシオン」は打楽器群のみごとに構成されたアンサンブルとして聴かれ、どこにも「騒音」性など聞き取られないだろう。アルトーはそんな歴史的に相対的な──文化的と言い換えてもいい──「騒音」性に惹かれたのだろうか。アルトーをめぐる貴兄の文章を読んでいると、そうではなかったと貴兄が考えているように思えてくる。何か絶対的に「騒音」であるもの/ことがあり、その「もの/こと」は物理的/生理的な「音」に還元できないかもしれないが、その「もの/こと」に媒介されてこそアルトーとヴァレーズの共演は構想可能であった、と。絶対的騒音は存在するのだ、と。

そうかもしれないし、そうであってほしい、と僕も思う。ただ僕はそれを「生」に関わる何かに引き寄せる──その「生」が有機であれ非有機的であれ──ことに対しては、現在ではとても警戒している。演劇と音楽の両方から見ての警戒だ。デリダの有名な託宣がある──「残酷演劇はreprésentation〔何かの再現〕ではない。それは再現不可能な部分によってまさに生それ自体なのだ」。たぶんこの託宣にも影響されてであろう、アルトー全集の編者ポール・テヴナンは、残酷演劇を実際に舞台化する試みを拒み続けた。アルトーの「生」だけが残酷演劇である、という論法で。音楽はとりあえず再現芸術ではないから、残酷演劇の音楽化の試みには彼女も同意したかもしれないが、デリダの託宣をまともに受け取れば、それも許されないのではないか。絶対的騒音が「音」そのものではなく「生」のあり様であるのなら。残酷演劇と絶対的騒音の理念的カップルは、アルトーの舞台化と音楽化に「否」、「不可能」と言い続ける。とにかく、やめておけ、と。

いや、そんな「否」と「不可能」をまともに受け取りつつ〈アート〉しようとした実例は、あるではないか、と僕はデリダとテヴナンに言いたくなる。念頭にまず浮かぶのは、Throbbing Gristle / Psychic TVのジェネシス・P-オリッジだ。彼/彼女のDisciplineという曲が想起される。彼/彼女はアルトーのラジオ放送をアルバムに使ったこともあったはず。面白いとは思うんだ、そのDisciplineという曲は「聞いても/(ライブ映像を)見ても」。ひたすら「我々にはある種の規律some disciplineが必要だ」と呪術師ばりに唸り、観客を挑発する。「規律」に対するアイロニーとも、 今とは異なる別次元の「規律」を本気で求めているようにも受け取れる。音も舞台パフォーマンスもそれに見合っている。しかし、Throbbing Gristleというバンド名〔今まさにビクビクと射精している男根〕、つまり『戴冠せるアナーキスト』のアルトーを想起させなくもない「コンセプト」が、僕をすぐさまこの作品にうんざりさせる。これでは「痙攣」と「賢者タイム」の繰り返しではないか。そんなセックスは退屈だ、とP-オリッジに向かって言いたくなる。彼/彼女はたしかにアルトーのように「生きた」ところがある。性を変え(どこまでかは知らないが胸はいつの間にか膨らんでいた)、おかしな宗教教団を作り、故郷を追放され…。この生きた縁まで「作品」に含めれば、テヴナンもP-オリッジにアルトーの後継を認めることにやぶさかではなかったかもしれない。しかし、僕は彼/彼女の「思想」にはまったくそそられないし、「痙攣」と「賢者タイム」の繰り返しには正直、つまらんと思う。残酷演劇の「作品」化とはこんななのか??

そんなはずはなかろう、と、ほかならぬ『演劇とその分身』をちらほら読んで思う。たとえばこんなフレーズを序文に見つけた。「そしてそこにあるフォルムの強度は、ひたすらある力を誘い込み、捉まえるためにある。その力が音楽において、悲痛な鍵盤を目覚めさせる」。「そこにある」のはメキシコの半蛇神の絵のようなのだが、これは立派な演出プランではないか。舞台装置と音響を繋ぐやり方。少なくとも、「シコって発射せよ」みたいな指示とはまったく違う。ドラマトゥルギーを作ろうとしている。ただその素材と原理が当時の「文化」的基準から外れていただけだろう。音楽としての「イオニザシオン」がそうだったように。ドラマトゥルギーは「痙攣」を「作品」に回収してしまうかもしれないし、やがて相対的騒音を完全なる非騒音に変えてしまうかもしれない。けれども、残酷演劇は「作品」化を排するものではない、と教えてくれる。「生」に向かって逃走せよ、というメッセージではなおのことなく。絶対的騒音はそれを否定する音群構成の中にしか聞かれず、残酷演劇はその不可能を否定する演出の中にしか見て取れない。いずれにしてもドラマトゥルギーの効果。「これも」あり、と示さなければ、「あれ」はない。P-オリッジには「痙攣」と「賢者タイム」だけではない快楽を演出してほしかった。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

【Monologue】コロナからも癒えて小旅行もし、色々と原稿仕事もしているが、なんかやはり体力が一段階落ちたままの気がする。いやだなあ。