騒音書簡2-22

2023年12月28日

Sô-siへ、

僕がコルトレーン? 彼のことは、宗教的と思ったことはあれ哲学的と思ったことはないぞ。まあお前は隠れキリシタンだと言われたこともあるので、違いは微妙かもしれないが。それでも哲学的ジャズマンの代表格は僕にとってやはりドルフィーのほうであり、彼以外ではセロニアス・モンクなのだが、ドルフィーの場合にはコルトレーンと一緒にステージに上がった彼ではなく、『アイアン・マン』と 『アウト・トゥ・ランチ』の彼こそ哲学者であり、『ラスト・デイト』の彼は文学者ないし詩人。今回はその違いをここでの主題である「ノイズ」に引っ掛けて書いてみたい。

出発点はそれでもやはり『ヴィレッジ・ヴァンガード』(1966年と前々回書いてしまったが間違いだった。録音は61年末。ドルフィーは64年に死んでいる!)。コルトレーンはこのときすでに自分の「世界」を持っていた。というか、彼は「世界理解」の人であり、ひたすら彼の目に映る「世界」に近づこうと努力を重ねていた──「理解」を「深め」ようとした──ように思う。自分の〈音-世界〉をそれに合わせようとしていたように。音によってそこに近づこうとしていたように。この連続性があるために、たとえハードバップからフリージャズに移行したと言われようと、移行はいつの間にかそうなっていたという状態変化にすぎないように思える。彼はいつだって「ジョン・コルトレーン」だった。実際、モーダルである点で彼のサックスは変わらなかったろ?彼はつねに「世界」を〈精神の眼〉で凝視していた。対するドルフィーはこの「世界」への「闖入者」だ。モーダルに設えられた舞台に、いきなり「外」を持ち込む。「世界」内では感知されない、声ならぬ声を出しぬけに発しはじめる。前々回の君の「アルトー」みたいにね。あれは僕の耳には君の声として届かなかったわけだ。だから僕は「ノイズ」と言った。

しかし、舞台の上で二つの声が衝突し、絡み合うようになると、様相は変わる。最初は「ノイズ」的第三者性を持っていた音も、観客である僕の耳には別の「世界」の中にあるように聞こえはじめる。僕が「世界理解」の人になる。「闖入者」の登場もそれ自体一つの演出であったか、と思えるように。舞台の外を舞台に上げる「演出」のように。僕の観客的第三者性が、舞台から「ノイズ」性を奪ってしまうわけだ。レディース・アンド・ジェントルメン──僕たちにとっての第三者──には実際、君の「アルトー」と僕の非応答はちょっとしたハラハラドキドキの演出のようであったろう。演出家はいないとはいえ。

問題はその後。コルトレーンは「闖入者」の登場による舞台の変容を、自分のいっそうの「理解」のために使い続けたはず。そうか、こういう要素/様相も「世界」にはあるのか、ならば…と、『至上の愛』(1965)のほうへと一歩を踏み出したかもしれない。ファラオ・サンダースを加入させる方向(同年)にも。そういう求道者的(宗教的?)連続性を、僕はコルトレーンには感じる。彼にはいかなる断絶も感じない。彼には驚かされることがないと言ってもいい。悪い意味ではないぞ。さもありなん、という納得だけが第三者たる僕にはある。

ところがドルフィーのほうは、「闖入者」としてコルトレーンに奉仕した後、自分が「主役」である舞台の「構成」にすぐ向かったように思う。録音順序は『ヴィレッジ・ヴァンガード』1961年、『アイアン・マン』63年、『アウト・トゥ・ランチ』64年。後2作ではもう『ヴァンガード』以前のドルフィーのハードパップ性は姿を消している(僕には)。もちろん以前の吹き方、いかにもドルフィー的な音の離散性は残っているというか、取り入れられているのだけれど、それが乗せられる舞台のほうは、もはや「世界」ではない。「我々」のものではない。コルトレーンの「世界」はいかに彼に独自の見え方をしているとはいえ、彼と観客に共有されているはずの「ザ・世界」であったろう。神が作ったこの「世界」。彼の歩みの連続性は極点にそれを展望させるという意味で、僕は彼を宗教的だと定義づける。ところがドルフィーの2作には、そこに「我々人間」がいない、いなくても成立する、という意味で、「世界」というより「宇宙」。もう少し卑近な言い方をすれば、いきなり登場した新「ジャンル」。「闖入者」を彼のセリフはそのまま残して「主役」に変えた舞台脚本を、ドルフィーは書いた。そこではもう即興的フレーズもまったく即興的に聞こえず、しかるべき音として最初から書かれていたように響く。僕にとっては「哲学」の理想だね。「ノイズ」として登場したものを「ノイズ」でない音に組み換える音楽こそ、その範例。

言い換えるなら、「ノイズ」性そのものみたいなものは、「哲学者」としての僕(!?)にはもう「ない」のよ。君が最近浸っているというクラシック音楽の数々は、僕にとってのコルトレーンのようなものなのかな、と想像してみたりする。君はヴィレッジ・ヴァンガードの舞台の上のドルフィーのようにそこに絡みたいと思っているのか、と。言い換えるなら「ノイズをやるしかなくなる」というのは、ちょっと違うんじゃないか、と。君たち(君と森田だ)は君たちの『アイアン・マン』を作りたまえ。「ノイズ」の極点は、僕には鼓膜が破れて音が聞こえなくなることだ。すなわち沈黙。「詩人」の話はまたいつか。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】12月1日の渋谷パルコに引き続き、Zoom上でだが久しぶりに人前で話をした。もう授業なんてできないわ。よくあんなことを30年以上やっていたものだ。