騒音書簡1-30

2024年8月29日

市田さま

「音楽とジェンダー」という「主題」にはまったく興味がないし、僕は女性だからといってべつにリスペクトするわけではないが、歌手の場合は女性と男性はまったく違って聞こえる。最近は男性歌手を聞く気になれないことが多い。だが女性ミュージシャンが「女」的だとはちっとも思っていない。アルゲリッチやマリア・カラスやニーナ・シモンの演奏や歌が女性的だとは思わない。でもこんな話は不毛だ。

前葉の君の批判には僕なりに言いたいことがある。まず、グッゲンハイム邸での森田潤とのデュオ・ライブは、CD『残酷の音楽』のプロモだとしても、CDとは全然違うことをやったということ。CDと同じ曲も三曲やったが(他の曲はCDには入っていない)、曲が同じだけで、CDとはまったく違う演奏になっていた。モチーフも違う。そもそもCD『残酷の音楽』という水面、水の広がりのようなものがあっただけ。それにいくらクラシックの楽曲を使ったからといって、CDよりはるかにエグい、まったく別の拡大深化ヴァージョンだった。森田君のモジュラーシンセ・ヴァイオリン演奏も僕のキーボード・ピアノ演奏もCDとは全然異なる。前葉でやった僕の種明かしはライブでやった楽曲についてのものだ。 君のライナーノーツはCDの音源について書かれたもので、したがってライブとは無関係だ。それについて僕の種明かしとの齟齬があったとしても仕方がない。 君のライナーノーツは素晴らしい「解明」だったよ。だけど僕は自分が演る音楽について解明できない。水の上に広がる波紋や航跡は目に見えるが、船を操縦する者にとってそれらは消えてしまう。

前葉でサービスのつもりで「種明かし」をしたが、余計な余興だったかも。ただ元曲を明記しただけで(元曲ですらないのだが)、僕の解説はいわゆる「種明かし」になんかなっていない。そういう情報に興味があるかもしれない未知の読者(もちろん、この往復書簡は君宛てのものだが、それでも公開しているのだから、不特定の読者に宛てても書いていることになる)にあえてデータばらして、手の内を見せびらかしただけ。

それにそもそも「種明かし」をする手品師というものを考えてみると、手品師は明かすべき独自のディスクールをもたない。手品師の種明かしの言述は最初からフェイクである。手品師はその意味で偽あるいは擬・古典主義者である。しかし手品師が種明かしをしても、彼には隠しているもの、たとえ隠さなくても表には表れようのないものがある。森田君も僕も音楽手品師の端くれではある。

音楽だけでなく文学を含む美学的領域にもう少し話を拡大するが、古典とそうではないものとのあいだに、何なら前衛的なものとのあいだと言ってもいいが、方法の進化、あるいはその解体、その変遷を見ることはもはや僕にはできない。我々はもう前衛の時代にはいない。古典も前衛もそれぞれが「言語」の様態を示しているのだから、その意味では、すべてを古典であると見なすことができる。すべての時代を通じて「ただひとりの作家が書いている」のだというプルーストの見解に僕は賛成したくなる。その意味では個も時代も抹消される。前衛は古典と同一の平面にある。ある時からそのようにしかしか考えられなくなった。ロートレアモンは(ルーセルでもいい)ダンテやシェイクスピアと同じ平滑平面にいる。歴史的条件については、このような区分とは別のもの、つまり民衆的なものにも同じようにそれを見てとることができるわけだから、前衛的なものにすら歴史的規定だけを課すことはできない。その点では結局僕が歴史的なものを無視していると非難されても仕方がない。古典は知らぬ間に超越論的なものになるだけではなく、読解において「経験」の審級を含みもつからだ。

僕にとって、音楽についてもこの考えが浸透しないわけがない。偽の、あるいは擬似古典主義者という誹りは甘んじて受けるよ。ただ今回というか、最近は、それをわかりやすいやり方で、誰の耳にも少しは聞こえる形でやっているだけで、最初期のEP-4のステージでも僕は同じようなことをやっていた。引用する古典のタイプが違っていたし(現代音楽だったが、僕にとってクラシック現代音楽はすでに古典になりかけていた)、佐藤薫以外の誰にもわからなかっただけ。だけど僕はクラシック音楽をやっているわけでもロックでもジャズでもない。君が挙げていたデレク・ベイリーや灰野敬二は尊敬しているが、彼らと同じようにはやりたくないし、それほどいいとも思わないし、ヒントをもらおうとは思わなかった。実際、ヒントがなかった。演奏者としてそもそもそれぞれが頭のなかに描く音楽史はまったく別のものなのだから。

僕にとって森田君のモジュラーシンセはオーケストラや古楽の合奏団みたいなもので、君の言う「ソロ演奏」なるものは成り立たちにくいだろう。それはないものねだりというものだ。僕たちはジャズをやっているのではないし、マイルス・バンドじゃないんだから、僕だってマイルスのように突然シンコペーションを消してシャーとオルガンを弾くわけにはいかない(バンドなら、unitPならやってもいいんだけど……)。

ところで、周到な遺著または回想録と言えるギー・ドゥボールの本『頌辞』(パネジリック)で、著者自身が引用するものすべてが古典から取られていたことが思い出される。書いている内容はどれも反古典主義的でありながら、引用する文はひとつ残らず古典の大作家からとられていた。すべては他人の文章からなっている。引用とは、僕にとって、うまくいけば地の文と見分けがつかなくなるようなもの、意味の観点を度外視すれば、同じ連なりのなかに現としてあるものでしかあり得ない。だからこそ、ここでも「剽窃」はあえて弁明されなければならない。あるいはジャン・ジュネの全作品の古典的文体についても同じようなことが言えるだろう。「種明かし」すれば、好みあるいは尊敬の問題として僕はドゥボールとジュネに脱帽するしかない。

話は変わるが、最近、クリス・デイヴのドラムをじっくり聞く機会があった。まさにマイルス・バンド、トニー・ウィリアムス以降の最高のドラマーなのだろう。超絶技巧だけど、発想はアナログっぽいと思った。現存のミュージシャンとしてあらためてすごいと思う。彼をツアー・ミュージシャンとして抜擢するウタダヒカルもやるね。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】酒をやめて三ヶ月にはなる。バーでドラキュラ・ドリンクを飲んでいます。