騒音書簡1-31

2024年9月28日

鈴木くん、

ライブとアルバムは違う。前々葉を書いているとき、きみはそう答えるだろうなと思っていた。答えの説明については特段予想していなかったが。そしてぼくは言わば先回りして、それへの返答として前葉を書いた。ライブとは「体験」である、云々。とりあえず「聞く」側にいるぼくにとって。するときみは前葉で、演奏する者にとってもそうである、と教えてくれた。「僕は自分が演る音楽について解明できない」──なぜなら「体験」であるから、とぼくは先行的に応じた。「水の上に広がる波紋や航跡は目に見えるが、船を操縦する者にとってそれらは消えてしまう」──それをぼくはこう言い換えた。「何が持続しているのか、私には言うことができない」。「体験の流れは持続する無だ」。書簡の往復はたった今、どの地点にあるのだ??

一つの完結した「世界」をなすアルバム作品についても、位相は異なっていても同様のことが言えるだろう。その根源にはきみの音楽体験があり、小説作品なら読書体験があり、とにかく受動的な、いまや「解明できない」何かがあったはず。そして作品を制作する過程自体も、それとは別のもう一つの体験としてきみに訪れたはず。演奏すること、文字を書くこと、それ自体が新たな体験の流れになったはず。しかし同時に、きみは言わば夢から「覚める」こと、体験を今の経験にする意識的作業もしていたはず。そんな変換が、作品制作過程では生起していたはず。体験が「夜」に属するとすれば、作品を一つの世界として構成する作業は「朝」のものだ。朝日に照らされて、体験は「真」になる──オレは~を見た、~はほんとうにある! この書簡の最初のほうできみが語っていた「空耳」を思い出さずにはいられない。空耳を空耳と同定しうるのは、それがもう聞こえていない「昼間」か、まだ半分聞こえている「朝」のみ。彼方に遠ざかるきみの体験を、ぼくのほうはあくまで昼間に、きみの「世界」として受け取る。夜の体験から朝の経験へ、その経験からさらに昼の作品へ。そんなイメージで、ぼくは音楽であれ小説であれ、作品を世に送り出す作家としてのきみを捉えている。

この流れで言えば、ぼくはやはり「作家」ではない。体験に根源を置く作品を作ろうとしたことがないので。ぼくにももちろん体験はあるし、それが自分の書くものに影を落としていることは当然である。しかし、作家が自分のものである「世界」を提示しようとするのに対し、ぼくは自分の体験を棚上げし、ぼくの「世界」なんかでは到底ない、「歴史」を紡ごうとしてきたと言えばいいか。「お話history」と言い換えても同じこと。その主語、語る主体は、作家である誰か(『残酷の音楽』の場合であればきみと森田くん)とその作品を受け取るぼくの両方を含む「我々」。この「我々」に共通の体験などない。だから「歴史」を書くぼくはきみの「真」もぼくの「真」も棚上げにする。「歴史/お話」にとってはいずれもどうでもよい部類のものに、きみの体験はなる。もちろん「歴史」は様々な「世界」が織りなす「世界史」であるから、根っこは一つである。しかし──

「世界」と「歴史」の関係については、こんな比喩が的を射ているのはないか。一本の紐を紙の上に置き、円を作る。「作品=世界」のつもり。その中心にあるのが体験。そして次に、円を変形して正方形にする。「歴史」のつもり。対角線の交点にはやはり体験がある。変形の操作は簡単だろう。指を動かせばよい。一本の紐からできる「世界/円」と「歴史/正方形は、形こそ異なれ同じ面積をもっているはずである。けれども、その面積を求める計算を有限回の手続きで記述できるかというと、できないだろう。円の面積を求める公式に含まれる無理数πが、有限な言語による記述の邪魔をする。「作品=世界」と「歴史」の間には、言語的には超えられない溝が立ちはだかる。二つの記述、二つの語りdiscoursはズレを宿命づけられている。

歴史家として言わせてもらえば、「前衛」はどこかに必ず「ある」。というか、それを発見してこその歴史記述だと思っている。どこで、いかにして、「歴史」──個人史か世界史かは問題ではない──は変わるか。ぼくの音楽体験はいまやまことに節操がなく、どんな音楽が好きかと聞かれると途方に暮れる(だからいわゆる音楽談義ができない)のだが、それでも「前衛」を事後的に発見したくてジャンルを問わずにうろうろしているのは確か。その「前衛」はジャンルとしての前衛音楽とは、あるいは音楽史の最前線とは、なんの関係もない。過去との関係における新しさでもない。ある時点における「現在」を突破しよう、〈外〉に出ようとしているかどうかにのみ、それは関わる。「新しさ」は「古さ」を引きずり、「歴史」の〈中〉に回収される。技巧の洗練がその典型だろう。そんな〈外〉こそ、「世界」と「歴史」の間の溝、無理数πが言語──音楽言語であれ文字言語であれ──に穿つ穴なのだろうと考えている。つまり「前衛」は「世界」の構築には役に立たない。何しろ体験にはもとづかないのだから。それはただ「歴史」の側から接近可能であるにすぎない。今月、ぼくはそんな「前衛」をあるミュージシャンのある時期の演奏に発見し、一人悦にいっていたのだが、それが誰かはここでは書かないことにする。固有名詞を出してしまえば、ぼくの体験を説明する「世界」記述、つまり「作品」になってしまうので。ぼくの体験が、「フェイク」かもしれない「真」になり(しかし、真や偽を言うのはいったい誰だ??)、それを棚上げにした意味が消えてしまうので。固有名詞を「種明かし」の「種」つまり、体験の暴露された秘密にすることは避けたい。「歴史」にはどんな秘密も隠されておらず、歴史家はあくまで「私の世界」に抗うのですよ。きみたちのアルバムについても、ぼくは「解明」などやったつもりはなく、ただ「歴史的」に位置付けただけ。

さらに歴史家として言わせてもらえば、森田くんのモジュラー・シンセはどんどん独奏楽器に近づいていると思う。「合奏団みたいなもの」であっても、複数楽器を組み合わせる話法discoursはありえるし、あの年越し24時間ライブはその試みの端緒だったのでは、と今にして思う。何しろ、即興とはいえ〈船を導く羅針盤〉があったではないか。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】白神山地をトレッキングする。快晴に恵まれた数ヶ月ぶりの山の空気は鮮烈であった。