騒音書簡2-36

2025年2月26日

鈴木殿、

構造と構成の違い。バッハにあって、クセナキスにないもの、あるいは逆にクセナキスにあってバッハにないもの。私はかなり単純に考えている。クセナキスには、ある意味では完全に構造がある。「楽譜」があるのだから。指示書のようなもの、あるいはコンピュータを動かすプログラムのようなものかもしれないが、それがなければあんな場所であんな音響装置を使って、音を演出できるわけがない。あれは人間による即興演奏ではない。そんなことは誰にでも最初からわかっている。クラスター群は厳格に「構造化」されている。ところが誰も、その「楽譜」を知らない。たとえ紙媒体として残されていたとしても、あの場所で一回しか演奏されないのが『ペルセポリス』であるから、「楽譜」を読んだところで、その立場は現場にいた聴衆と変わらない。聴きながら/読みながら、その「構造」を探るしかない。それが終わってはじめて、「構造」の全体は姿を現す。正確には、音を聴きながら、その音が語っているものとして「構造」を徐々に掴むほかない。これを「言語」に置き換えてみよ。聞いているうちに「意味」がわかってくる発話であろう。こちらが文法も語の意味もまったく知らない未知の言語を、誰かが喋っている。しかしその発話は自分で、自分の語りたい内容として、その「構造」を語っている。その「構造」そのものにしか、話者の語りたい発話内容、意味はない。〈我々〉はそれを解読すべく、発話を聞く。それが作品だとすると、この作品は迷宮だ。奥の奥にある終点に辿りついたところで、なにか解読の秘密のようなものが置かれているのではなく、迷宮は迷宮として「構造化」されていたということがわかるだけ。〈我々〉がその「構造」を「構成した」のである。この「構造」は一度だけ「構成」されて姿を消す。「意味」を失う。

ところがバッハの組曲の場合には、とある構造がバッハ自身にも〈我々〉にも、最初から見えている。和声と調性だ。話者と聞き手が文法と辞書をすでに共有している。演奏者が音をはずせば、はずしたとすぐにわかる。しかし、和声と調性の有限な規則を、順々に試していく──バッハが組曲を通じてやったことだ──と、どうなる? ロマン派的に見たとき、これは「作曲」なのか? 嫌味でもなんでもなく、サンプル集と言ってもいいだろう。こんな具合に規則は発話を可能にする、という見本。時代的に考えてみると、バッハにとって、ようやく知られたばかりの音世界の構造は、まだ作品制作の「道具」にはなっていなかったはずだ。どんなふうにこの世界は構造化されているか、規則とはどういうふうに働くかを、いわば実験的、実証的に確認しようと彼は様々な組曲に挑んだのではないか。そうすると、そこがバッハ組曲の組曲たる所以なのだが、順々に並べられたピースが、和声や調性とはまた別の「構造」を全体としてもちうる、ということが次第に見えてくる。ただ「もちうる」ということだけが。彼の組曲を順に聴いていると、彼はきっとクセナキスを聴く〈私〉のように迷宮を歩いていたのだろう、と思えてくる。組曲は、だから順に聞かなくては味わえない。というか、どれか一つのピースを聞くことと、全体を聴くことはまったく異なる経験を〈我々〉にもたらす。彼はクセナキスを聴く〈我々〉のように、知っている構造とは別の「構造」を「構成」しようと、手を変え品を変え様々な組曲に手を染めていたのだろう。この別の「構造」が、一つの組曲の終わりごとに消えてしまうこともまたクセナキスと同様である。

音楽は聴くことも作ることも迷宮散歩なのだろう、と思わせてくれる機会はそれほど多くない。バッハもクセナキスも〈私〉も、一つの同じ〈我々〉を作りだしながら、音楽は〈前進〉する。〈我々〉はあるはずの、いや曲が作られるまえから「あったはず」の「構造」を探して〈後退〉する。前進と後退が共存している。互いを裏打ちしあっている。その二重体が〈我々〉だ。そこでは〈私〉はバッハにもクセナキスにもなる。この感覚を私に教えてくれたのは、やはり幼いころのピアノの練習であったように思う。バイエルでもツェルニーでも、バッハやモーツァルトの練習曲集でも、順々に弾けるようになっていくことで、私は「どこか」に近づいているような心持ちであった。作曲家にも近づいている気分であった。あるいは、音世界の「昔」に遡っているような。それぞれの曲がというより、階段を上っている/降りていること自体が、わくわくさせてくれる。だから音楽愛好者としての今の私は、結果的に、好みというものを失ってしまったところがある。ときどき発見できる、音が階段を上がる/下がる瞬間をひたすら探しているような。聞こえてくる音が、終わりとはじまりに分裂する瞬間を。そんな瞬間はジャンルを問わずにときどきあるから、必然的に、私の聴くものはあちこちうろうろすることになる。もちろん、踏みはずすことも多々あるのだが。だんだん曲が演奏するに難しく、複雑になっていくことを「上がる」と誤解するような場合がその典型。あるいは、それと正反対に、破綻に美を求めるだけのエセ前衛主義に陥ってしまうとか。だから「構成」は聴き分けることも見わけることも、とても難しい。だから面白い。

市田良彦



市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】Xでの新着書簡の告知ポストに、久々に私が「パチモンDavid Bowie」を気取っていたころの写真を発見し、気まぐれで « It’s no game part1 »を聴いてみる。私はかつて、それが一曲目に収録されているアルバム『Scary Monsters』を、それを飛ばして聴くのがつねであった。日本語が恥ずかしく、痛々しい。やはりだめだった。しかし、今回はサブスクで聴いたのだが、歌詞を日本語で朗読している女性の声がLP盤とは差し替えられている気がしてならない。誰か真相を教えてくれないか。ボウイの近くに、やめとけよ、と助言する日本人はいなかったのだろうか。