2025年1月30日
市やん
市やんと書いてみたら、何十年も前になくなった市場を思い出した。熱々のコロッケのある肉屋、そこの娘は同級生だった。布団屋、愛想のいい夫婦がやっていて、主人のほうが長生きした。魚屋、おとなしい息子がいたが、黒縁の眼鏡をかけた親父は威勢がよかった。それから貸本屋。極彩色絵入りのカバーのついた漫画が主だった。そこで借りるか、お好み焼き屋に置いてある漫画だけを読んだ。水木しげるの『墓場鬼太郎』や楳図かずおがあった。市場の裏にはたこ焼きも売る清潔な駄菓子屋があったが、昔を懐かしんでいるわけではないし、そんな話はもういいだろう。
君の前葉に触発されてクセナキスの『ペルセポリス』を聞きながらこれを書いている。僕も今でもクセナキスを聞くことがあるよ。『ペルセポリス』を最初に聞いたときは、あたりまえにノイズ的動機の印象が前面にあったが、いま聞くとそうではないね。君が言うように、これには構造ではなく、「構成」がある。微妙に揺れ動く全体。上昇も下降もない。断続的な奥行き。ところどころ音質というか音域が変わるところは絶妙のタイミングだ。ノイズ的な高音だけでなく、低音もやばい。だがよく聞いてみると、いわゆる主たる中間音がとらえられない。中間音とは物語の単なる装丁かもしれない。ペルセポリスだからというわけでは必ずしもないが、この中間を欠いた、ということは中間だけからなるとも言える「構成」全体には、なるほど「古い」、とても古い時間が流れている。この点でも上昇も下降もないが、音の厚みによる時間のたゆたいのようなものはあるかもしれない。古代遺跡の奥行き。全てが埋もれてしまったか、地上に見えるのは形骸だけ。時間の残骸が見える。そこに立つと時間は横にしか流れない。我々にまで続いているらしいこの時間を寸断することはできないし、現代的なリミックス的介入の余地はない。そこでは「ペルシア人の都市」と「都市を破壊する」が完全に一致してしまう。僕はカール・クラウスやギー・ドゥボールをわりと読んだほうだろうが、蛇足ながら、これを聞きながら思いついたことを言えば、彼らの主題のひとつもそれだと言えないこともない。「心理地理学」は自身のなかで都市を壊してつくりかえてしまうことでもある。ウィーンとパリは古代ギリシアやペルシャの都市の風貌を帯びはじめる。人間はいながらにしてすでに消えている。人間的なものが無駄だったことがわかる。心理地理学の「心理」は別の非心理的漂流の動機を形成するし、そう言ってよければ、彼らがそれを革命的思想に結びつけたかったことは理解できる。そんなわけで、クセナキスは僕を飽きさせない。君と同じように、今の僕にとって、環境音楽を聞くと、退屈だし「時間の無駄」に感じてしまう。一番悪い意味で、時間の喪失だ。クセナキスに環境音楽的なところはない。それがないのは、バッハ、ヴェーベルン、そしてヴァレーズ、クセナキス……。
バッハの「構成」はどうだろう。その点で近いのはクセナキスというより、むしろヴェーベルンだ。たとえ十二音であっても対位法のようなものが僕には聞こえる。まあ、ヴェーベルンはここではいいとして、バッハにおいては、非常に厳密に作り出されているのは、「構成」ではなく、「構造」であるように思える。ミサや声楽曲には、元のテクストがあるのだから、意味としては「構成」らしきものがあるが、カトリック的な(バッハはプロテスタントだったが、ニーチェが言うように、プロテスタント音楽というものはない)『ヨハネ』も『マタイ』の場合も、それは全体としてであって、それぞれの楽曲における、『ペルセポリス』のような音楽自体の構成ではないように思われる。では、バッハの「構造」とは何だろう。いまだによくわからない。ピタゴラス的空間を含めた、バッハ独自の「空間」があるのだろうか。神的にしろ、そうでないにしろ、そこに音楽的時間が流れることはできるのだろうか。しかしこの構造において、縦の線(縦の構造)と横の線(横の構成)は交わるように作られていながら、それぞれが独立しているし、交差はめったに起こらない。ポリフォニーなどということが言いたいのではない。森田潤の『GATHERING 100 REQUIEMS』を聞くと、モーツァルトでさえ、そんなものはもう全部ほとんど意味がないことがわかる。
君の今とつながる『ペルセポリス』。面白いことに、まさに『帝国は滅ぶ』じゃないか! だけど森田潤とのあのアルバムは、森田潤と僕が棲み分けを意識したわけではない。作曲も編集も森田潤によるものだが、僕はキーボードも弾いている。それに匿名的ラップとなった「帝国は滅ぶ」の言葉は、ああいう風になった時点で、森田自身が書いたとも言えるわけだし……。
君の前葉に触発されてクセナキスの『ペルセポリス』を聞きながらこれを書いている。僕も今でもクセナキスを聞くことがあるよ。『ペルセポリス』を最初に聞いたときは、あたりまえにノイズ的動機の印象が前面にあったが、いま聞くとそうではないね。君が言うように、これには構造ではなく、「構成」がある。微妙に揺れ動く全体。上昇も下降もない。断続的な奥行き。ところどころ音質というか音域が変わるところは絶妙のタイミングだ。ノイズ的な高音だけでなく、低音もやばい。だがよく聞いてみると、いわゆる主たる中間音がとらえられない。中間音とは物語の単なる装丁かもしれない。ペルセポリスだからというわけでは必ずしもないが、この中間を欠いた、ということは中間だけからなるとも言える「構成」全体には、なるほど「古い」、とても古い時間が流れている。この点でも上昇も下降もないが、音の厚みによる時間のたゆたいのようなものはあるかもしれない。古代遺跡の奥行き。全てが埋もれてしまったか、地上に見えるのは形骸だけ。時間の残骸が見える。そこに立つと時間は横にしか流れない。我々にまで続いているらしいこの時間を寸断することはできないし、現代的なリミックス的介入の余地はない。そこでは「ペルシア人の都市」と「都市を破壊する」が完全に一致してしまう。僕はカール・クラウスやギー・ドゥボールをわりと読んだほうだろうが、蛇足ながら、これを聞きながら思いついたことを言えば、彼らの主題のひとつもそれだと言えないこともない。「心理地理学」は自身のなかで都市を壊してつくりかえてしまうことでもある。ウィーンとパリは古代ギリシアやペルシャの都市の風貌を帯びはじめる。人間はいながらにしてすでに消えている。人間的なものが無駄だったことがわかる。心理地理学の「心理」は別の非心理的漂流の動機を形成するし、そう言ってよければ、彼らがそれを革命的思想に結びつけたかったことは理解できる。そんなわけで、クセナキスは僕を飽きさせない。君と同じように、今の僕にとって、環境音楽を聞くと、退屈だし「時間の無駄」に感じてしまう。一番悪い意味で、時間の喪失だ。クセナキスに環境音楽的なところはない。それがないのは、バッハ、ヴェーベルン、そしてヴァレーズ、クセナキス……。
バッハの「構成」はどうだろう。その点で近いのはクセナキスというより、むしろヴェーベルンだ。たとえ十二音であっても対位法のようなものが僕には聞こえる。まあ、ヴェーベルンはここではいいとして、バッハにおいては、非常に厳密に作り出されているのは、「構成」ではなく、「構造」であるように思える。ミサや声楽曲には、元のテクストがあるのだから、意味としては「構成」らしきものがあるが、カトリック的な(バッハはプロテスタントだったが、ニーチェが言うように、プロテスタント音楽というものはない)『ヨハネ』も『マタイ』の場合も、それは全体としてであって、それぞれの楽曲における、『ペルセポリス』のような音楽自体の構成ではないように思われる。では、バッハの「構造」とは何だろう。いまだによくわからない。ピタゴラス的空間を含めた、バッハ独自の「空間」があるのだろうか。神的にしろ、そうでないにしろ、そこに音楽的時間が流れることはできるのだろうか。しかしこの構造において、縦の線(縦の構造)と横の線(横の構成)は交わるように作られていながら、それぞれが独立しているし、交差はめったに起こらない。ポリフォニーなどということが言いたいのではない。森田潤の『GATHERING 100 REQUIEMS』を聞くと、モーツァルトでさえ、そんなものはもう全部ほとんど意味がないことがわかる。
君の今とつながる『ペルセポリス』。面白いことに、まさに『帝国は滅ぶ』じゃないか! だけど森田潤とのあのアルバムは、森田潤と僕が棲み分けを意識したわけではない。作曲も編集も森田潤によるものだが、僕はキーボードも弾いている。それに匿名的ラップとなった「帝国は滅ぶ」の言葉は、ああいう風になった時点で、森田自身が書いたとも言えるわけだし……。
鈴木創士
鈴木 創士(すずき そうし)
作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など
【Monologue】年末からひどい風邪をひいていてなかなか治らないと思っていたら、ぎっくり腰になりました。