2025年5月31日
市田良彦さま
君と僕は以前から友人関係にあるし、お互い言葉を交わすのははじめてではなかったのだから、この書簡の最初のページがどのあたりから始まっていたのか正確にはわからない。我々はすでにかなり長生きしたのであるし、お互いにとってそれぞれ過ぎ去った膨大な時間があるわけだが、このお互いの時間には周知のとおりさまざまな流れまたは断絶があって、たとえそれを共有したとしても、それがどのようにこの書簡に反映されたのかいまの時点で知ることはない。僕は相変わらず「無知」のなかにいる。これが僕の日常だ。僕なりの日常があり、日常のなかにどっぷり浸かってはいるが、当然のことながら、日常を忌避したいと感じるときがしょっちゅうある。だから始まったものは、ともあれ終わらせねばならないのだ。あの奇妙な観念論に句読点を打つこと。この始まりはノイズのようなものだったにしても、この「無知」、あるいは「なくてよいもの」は、我々の「経験」としてさえもそれなりの注意力をともなって盲目的な力を我々の「知」に強要した。そんな断続状態と中絶状態はむしろ僕には「真理」に近いと思えるときがある。我々は少なくともみんな真理に対して神経症を患っている。そうであれば、僕はそのことによって、この「無知」のなかに何かを確認できたのだろうか。たぶん。
最近、グールドによる「シェーンベルク」とモートン・フェルドマンの「ロスコ」を聞いていたのだが、なぜかいつもと違う音の印象があった。音楽を聴く気がしないときがあるが、ここのところ、なおさら音楽を楽に聴くことができた。その印象はむしろ爽やかなものであったし、気分は悪くなかった。現代音楽には終わりがないんじゃないかと思わせる楽曲が多くあるが、というかそれが常なのだが、「シェーンベルク」も「ロスコ」もずいぶん短く感じたのだ。楽曲はすぐに終わってしまう。部屋のスピーカーで爆音で聴いても、寝床に横になってiphoneの小さな音で聞いてもそんな感じがした。音楽が終わることはないのに、楽曲が終わる。自分が起承転結のどこに位置しているのかわからないのに、というか起承転結はないのに、まさに別の何かが起こっている。いくつもの終わりがあり、事は短くなり、何かが加速されている。「老人性加速」! 笑ってしまうが、それはボードレールの言う「痴呆の翼の影」の一種なのか。はたまた僕は物事を続けるということに痺れを切らしているのか、それとも、過ぎ去ろうが過ぎ去るまいが、「時間」の流れだと思っていたものがただの「加速」だったのか。まあ、自分でもよくわからないというのが本当のところだ。ひとつの言葉にすぎない「時間」ではなく、時間がそこに属する空間自体が加速されているのだろうか。この空間のなかで、聞こえているものが聴き取られることはないが、期せずして楽曲が断ち切られる。音楽がとりあえず終わる、ノイズを後に残して。最初に歌があったのだとしても、しかしそうであればあるほど、どんな音楽も雑音でしかない。すでに僕はCDのなかの楽曲のすき間に耳を塞いだ小人となって入り込んでいる。リリパット効果。大人になるとその現象というか錯視はなくなってしまったが、子供の頃から、現時点で見ているものがリアルに突然小さくなる現象があった。目の前にある風景の尺度が変わってしまうというか、見えているものすべてが小さくなり、それによって世界が遠ざかったように感じた。視界はしかも不思議な静寂に包まれていた。とても残念なことに、青年期を過ぎると、この錯視は起こらなくなってしまったが、視覚とは別に、音の縮約、削減現象というものがいま起きているのかもしれない。それによって「老人性加速」が起こる。
だが、やはり終わったと確信できるものはない。終わりはそのようなものとして訪れない。いろんなことが終わり、別様に続いていく。原則として言えば、できるなら僕は持続を拒否したい。持続の琴線を断ち切りたいといつも感じてきた。ずっとここに居続けてはいるが、うまくいく場合は、持続を、空間的でもある無意味な静寂が凌駕してくれることもあるだろう。そしてこの静寂は、最初の頃の書簡で言ったような「耳鳴り」に満たされている。つまりそれが「音楽」だったのかもしれない。君は「休止」と言った。いい言葉だ。ずっと休んでいたいが、完全にそうすることは至難の業だ。物質的なことを考慮に入れないとしても、いろんな条件がそうはさせない。形而上学的努力がいる。ランボーは「停滞」と言った。何度も言うが、停滞は出発を予表しているのだ。
夏は来ぬ狂い死もなかりけり明るい仏間にひぐらしが飛ぶ
じゃ、また。
最近、グールドによる「シェーンベルク」とモートン・フェルドマンの「ロスコ」を聞いていたのだが、なぜかいつもと違う音の印象があった。音楽を聴く気がしないときがあるが、ここのところ、なおさら音楽を楽に聴くことができた。その印象はむしろ爽やかなものであったし、気分は悪くなかった。現代音楽には終わりがないんじゃないかと思わせる楽曲が多くあるが、というかそれが常なのだが、「シェーンベルク」も「ロスコ」もずいぶん短く感じたのだ。楽曲はすぐに終わってしまう。部屋のスピーカーで爆音で聴いても、寝床に横になってiphoneの小さな音で聞いてもそんな感じがした。音楽が終わることはないのに、楽曲が終わる。自分が起承転結のどこに位置しているのかわからないのに、というか起承転結はないのに、まさに別の何かが起こっている。いくつもの終わりがあり、事は短くなり、何かが加速されている。「老人性加速」! 笑ってしまうが、それはボードレールの言う「痴呆の翼の影」の一種なのか。はたまた僕は物事を続けるということに痺れを切らしているのか、それとも、過ぎ去ろうが過ぎ去るまいが、「時間」の流れだと思っていたものがただの「加速」だったのか。まあ、自分でもよくわからないというのが本当のところだ。ひとつの言葉にすぎない「時間」ではなく、時間がそこに属する空間自体が加速されているのだろうか。この空間のなかで、聞こえているものが聴き取られることはないが、期せずして楽曲が断ち切られる。音楽がとりあえず終わる、ノイズを後に残して。最初に歌があったのだとしても、しかしそうであればあるほど、どんな音楽も雑音でしかない。すでに僕はCDのなかの楽曲のすき間に耳を塞いだ小人となって入り込んでいる。リリパット効果。大人になるとその現象というか錯視はなくなってしまったが、子供の頃から、現時点で見ているものがリアルに突然小さくなる現象があった。目の前にある風景の尺度が変わってしまうというか、見えているものすべてが小さくなり、それによって世界が遠ざかったように感じた。視界はしかも不思議な静寂に包まれていた。とても残念なことに、青年期を過ぎると、この錯視は起こらなくなってしまったが、視覚とは別に、音の縮約、削減現象というものがいま起きているのかもしれない。それによって「老人性加速」が起こる。
だが、やはり終わったと確信できるものはない。終わりはそのようなものとして訪れない。いろんなことが終わり、別様に続いていく。原則として言えば、できるなら僕は持続を拒否したい。持続の琴線を断ち切りたいといつも感じてきた。ずっとここに居続けてはいるが、うまくいく場合は、持続を、空間的でもある無意味な静寂が凌駕してくれることもあるだろう。そしてこの静寂は、最初の頃の書簡で言ったような「耳鳴り」に満たされている。つまりそれが「音楽」だったのかもしれない。君は「休止」と言った。いい言葉だ。ずっと休んでいたいが、完全にそうすることは至難の業だ。物質的なことを考慮に入れないとしても、いろんな条件がそうはさせない。形而上学的努力がいる。ランボーは「停滞」と言った。何度も言うが、停滞は出発を予表しているのだ。
夏は来ぬ狂い死もなかりけり明るい仏間にひぐらしが飛ぶ
じゃ、また。
鈴木創士
鈴木 創士(すずき そうし)
作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)、『冒険者たち 特権的文学のすすめ』(水声社)他、翻訳監修など
【Monologue】ジャン・ジュネ『ヘリオガバルス』、宇野邦一+鈴木創士訳、河出書房新社が出ました。