2022年6月25日
So-siどの、
『カラマーゾフの兄弟』の代わりに、最近の小説を一つ読んでみた。君から文学者──「文学的な人」ぐらいの意味か──として認めてもらえたからというばかりではなく、誕生日プレゼントに「騒音書簡」の読者からもらったので。文学オンチ、比喩アレルギーのお前にはちょうどよかろう、と。『鑑識レコード倶楽部』という。ぜひ読まれたし(今度のライブに持っていくよ)。まさに我々の寓話だ。読後、少なくとも俺はコロッケにものまねされた岩崎宏美のような気分である。著者マグナス・ミルズのことはまったく知らないが、カリカチュアされる栄誉を味わっている。「音楽を語る」ことのカリカチュア。
3通目の手紙を送ってから、我々の間には手紙の交換以外にもう一つ出来事があった。君たちのライブである。久しぶりに聴いた。轟音にさらされて久しぶりにアレルギーが出た。ようやく消えかかっているところなので、来週のライブがちょっと心配ではある。とにかく今回の返信は、君からの手紙と先日のライブと予期せぬ読書経験の三つに対し、同時に反応してみたい。
これが君の言う「破綻」なのであろう。それを強いるものなどなにもなく、俺はただ往復書簡という規範を守って前の手紙に反応しているだけでよいのに、勝手に他の因子をこの場に引き入れている。他の因子は偶然ですらない。無視してもよいのだから。往復書簡というこの場の形式は、君にとっての「古典主義」のようなものかもしれない。それがなければ「破綻」が不可能なもの。先日のライブもその意味では立派に「古典主義」的であった。君は他のメンバー、特に俗に言うリズム隊の3人にうまく「破綻」させてもらっていた。その全体への森田潤の介入も、40年以上かけて成立した「EP-4サウンド古典主義」をうまく「破綻」させていた。
しかしちょっと待ってほしい。今回の「破綻」がなければ、俺があの場で思い起こさずにいられなかった、つまり俺の頭のなかで同時に鳴っていた昔日のEP-4の音は「古典」にさえならなかったではないか。君たちは何十年もバンド活動をしていなかったのだから。あの音はこの世から消えていたのだから。ライブから帰って、思わず聴き直してみた(今ではAppleのサブスクで聴ける──佐藤薫はそのことを知らなかったが)。「破綻」のありようを確かめたかったわけだ。その結果として言う。俺は偽であれほんものであれ「古典主義者」にはなれんな。
というのも、俺にはセロニアス・モンクが「破綻」しているとは思えんのよ。というか、前にも書いたが俺にとって「はじまり」をなすあの音を、「破綻」ではないものとして受容できるよう、俺は修行してきたのではないかと先日のライブを聞いてあらためて思ったのよ。一人であの音を出すことは難しくても、バンドならそれが可能で、それを希求する者たちの系譜が確実にあり、君たちもそこに連なろうとしているのではないか。いや、妄想的に言う。連なることを目指してほしい。« Sister Ray »のヴェルヴェッツ、 何作かのミンガス、« Les Stances à Sophie »のアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、« Last Date »のドルフィー(一曲目はモンクのカバーだ)等々、いくつものバンドが先人として頭に浮かぶ。それは俺の密かな言い方では、バンド音楽を「盆栽」にしないことに賭けてきた者たちの系譜で、君がひょっとしてノイズ・バンドなどという有難いのかそうでないのかよく分からんカテゴライズを受け入れてやろうとしている音もそこに連なるのかも──電子音を使ってな──とあの夜思った。日本にはジャズでもロックでもうまいバンドはいくらでもいる。けれどもいくらそれに感心しても、感心しているその瞬間、俺は盆栽を愛でる気分になっている自分に気づいて嫌になる。森の野生を忘れてしまったのか、と。どんなバンドの音も必ず音楽史のそれなりの総括と縮図になる。そのようにしかバンドは聴くことができない。そこに「古典主義」もその「破綻」もない、と俺には思える。盆栽か森か──比喩である。
俺があの夜耳にし、次のライブでも聴きたいと思っている演奏はもちろん幻だ。その幻の音を『鑑識レコード倶楽部』は、人前ではかけられずに終わる無タイトルのデモ盤として登場させた。この倶楽部は「コメントなし評価なし」にレコードを聴くという盟約に結ばれた者たちの集まりで、自分語りとセットでしか音楽を聴かない「告白レコード倶楽部」と対立している。「鑑識」派からは、沈黙の掟に耐えきれず、周辺的蘊蓄なら喋ってもよしとする「認識レコード倶楽部」という分派が生まれた。今回の手紙で書いたことも「鑑識派」と「告白派」と「認識派」の混淆でしかない、と俺は知っている。次のライブを楽しみにしてるよ。幻の電子版モンクを聴かせてくれ。
3通目の手紙を送ってから、我々の間には手紙の交換以外にもう一つ出来事があった。君たちのライブである。久しぶりに聴いた。轟音にさらされて久しぶりにアレルギーが出た。ようやく消えかかっているところなので、来週のライブがちょっと心配ではある。とにかく今回の返信は、君からの手紙と先日のライブと予期せぬ読書経験の三つに対し、同時に反応してみたい。
これが君の言う「破綻」なのであろう。それを強いるものなどなにもなく、俺はただ往復書簡という規範を守って前の手紙に反応しているだけでよいのに、勝手に他の因子をこの場に引き入れている。他の因子は偶然ですらない。無視してもよいのだから。往復書簡というこの場の形式は、君にとっての「古典主義」のようなものかもしれない。それがなければ「破綻」が不可能なもの。先日のライブもその意味では立派に「古典主義」的であった。君は他のメンバー、特に俗に言うリズム隊の3人にうまく「破綻」させてもらっていた。その全体への森田潤の介入も、40年以上かけて成立した「EP-4サウンド古典主義」をうまく「破綻」させていた。
しかしちょっと待ってほしい。今回の「破綻」がなければ、俺があの場で思い起こさずにいられなかった、つまり俺の頭のなかで同時に鳴っていた昔日のEP-4の音は「古典」にさえならなかったではないか。君たちは何十年もバンド活動をしていなかったのだから。あの音はこの世から消えていたのだから。ライブから帰って、思わず聴き直してみた(今ではAppleのサブスクで聴ける──佐藤薫はそのことを知らなかったが)。「破綻」のありようを確かめたかったわけだ。その結果として言う。俺は偽であれほんものであれ「古典主義者」にはなれんな。
というのも、俺にはセロニアス・モンクが「破綻」しているとは思えんのよ。というか、前にも書いたが俺にとって「はじまり」をなすあの音を、「破綻」ではないものとして受容できるよう、俺は修行してきたのではないかと先日のライブを聞いてあらためて思ったのよ。一人であの音を出すことは難しくても、バンドならそれが可能で、それを希求する者たちの系譜が確実にあり、君たちもそこに連なろうとしているのではないか。いや、妄想的に言う。連なることを目指してほしい。« Sister Ray »のヴェルヴェッツ、 何作かのミンガス、« Les Stances à Sophie »のアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、« Last Date »のドルフィー(一曲目はモンクのカバーだ)等々、いくつものバンドが先人として頭に浮かぶ。それは俺の密かな言い方では、バンド音楽を「盆栽」にしないことに賭けてきた者たちの系譜で、君がひょっとしてノイズ・バンドなどという有難いのかそうでないのかよく分からんカテゴライズを受け入れてやろうとしている音もそこに連なるのかも──電子音を使ってな──とあの夜思った。日本にはジャズでもロックでもうまいバンドはいくらでもいる。けれどもいくらそれに感心しても、感心しているその瞬間、俺は盆栽を愛でる気分になっている自分に気づいて嫌になる。森の野生を忘れてしまったのか、と。どんなバンドの音も必ず音楽史のそれなりの総括と縮図になる。そのようにしかバンドは聴くことができない。そこに「古典主義」もその「破綻」もない、と俺には思える。盆栽か森か──比喩である。
俺があの夜耳にし、次のライブでも聴きたいと思っている演奏はもちろん幻だ。その幻の音を『鑑識レコード倶楽部』は、人前ではかけられずに終わる無タイトルのデモ盤として登場させた。この倶楽部は「コメントなし評価なし」にレコードを聴くという盟約に結ばれた者たちの集まりで、自分語りとセットでしか音楽を聴かない「告白レコード倶楽部」と対立している。「鑑識」派からは、沈黙の掟に耐えきれず、周辺的蘊蓄なら喋ってもよしとする「認識レコード倶楽部」という分派が生まれた。今回の手紙で書いたことも「鑑識派」と「告白派」と「認識派」の混淆でしかない、と俺は知っている。次のライブを楽しみにしてるよ。幻の電子版モンクを聴かせてくれ。
市田良彦
市田 良彦(いちだ よしひこ)
思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など
【Monologue】手のひらのアレルギーに加えて、またちょっと怪我をした。今度は足。