2023年7月29日
Cher Sô-si,
「言葉」は「作品の不在」と同時的なのだろうか、と君は書いた。少し腑分けが必要かと思う。まず「作品の不在」について。この表現を有名にしたのはフーコーの「狂気、作品の不在」という論文(1964年)だけれども、狂気とは「作品の不在」であるという挑発的な定式は実のところ、ブランショからの借用だ。そのままの定式が「語ることは見ることではない」という論文(1960年─『終わりなき対話』再録)の最後にある。誰かがこの事実を指摘しているのを見たことはないが、それは指摘したところでその先をどう続けてよいかよく分からないからだろう。まさに « So What? »だ。先駆を誇るつもりはまったくないけれども、僕としては問題は「狂気」と「不在」よりもまず「作品」の概念にあると思っている。いったいブランショは、また彼に倣ったフーコーは、「作品」なるものをどう捉えている?ブランショの諸々を参照すれば、出所ははっきりしている。ヘーゲルの『精神現象学』だ。その一節の「仕事」論を、そのまま文学「作品」をめぐる議論に転用している。この出自を踏まえて思いっきり単純化して言えば、「作品の不在」における「作品」とは、ゼロから出発して「すべて」を作ることであろう。キリスト教的匂いを拭いきれない言い換えをあえてすれば、神の業を反復すること。世界を創造し直すこと。もう少し宗教臭を抜いて言えば、あらゆる「はじまり」の「はじまり」。実際、小説の最初の一文、音楽作品の最初の一音はそんな「はじまり」であることを強いられていないか。これからはじまるのは一つの全体性をもった「作品」ですよ、その「前」には何もありませんよ、とそれは否応なしに告げてしまう。すると「作品の不在」としての「狂気」の意味もはっきりするように思える。すなわち、そんなことはできるわけがない、という明晰な〈不可能〉意識。ただし、意識だけしてあとは賢人よろしく沈黙を決め込む──不可能を理由に──のでは「狂気」とは言えまい。言葉を欠いた人は狂人ではない。「狂気」はあくまで言語的現象だ。狂人の狂人たる所以は、これは「作品」なんかじゃありません、事実です、世界そのものです、私がはじめたのではありません、これがものごとの「有る」ことそのものです、と言えることではあるまいか。ハイデッガー流に言えば、「有ること」と「有るもの」の差異が〈見えて〉いること。何か具体的に「有るもの」(ヘーゲル的には相対的なもの)のすぐ隣に「有ること」(同じく絶対的なもの)が「有る」かのように。二重焦点レンズを通して見ていると言えばよいか。まだ「ない」(見えない)はずの絶対的なものすらすでに「有る」(見えている)から、何も「はじまる」必要がない世界を狂人は生きている。世界の「はじまり」以前にして歴史の「終わり」の後の世界に彼は住んでいる。そこに「作品」を見るのは「理性的人間」の都合だ。こんな哲学的駄弁をここで弄するとは思わなかったが、「哲学者と論争したい」と言ったのは君であるから勘弁してほしい。大仰な言い方を重ねれば、狂人こそ真のへーゲリアン、真のハイデガリアンだ。ヘーゲルとハイデッガーの意に反するほどに真の。
次に「言葉」。上の話を踏まえて言えば、人間の「言葉」は音楽と分化する以前、「声」の段階ですでに「作品」を担っていたと思う。リグ・ヴェーダはその証かもしれない。その点で人間の「言葉」は動物のそれから区別されるはず。動物は情報を伝達しても、「作品」は作らない。人間にとっては言語と音楽のいずれにも先立って「作品」が、つまり「はじまり」の反復があった。語ることは死への抵抗だ、とこれもブランショが言っていたと記憶するが、語ることで「はじまり」に戻ろう、「すべて」を保存して死による忘却に抗おうという意味かもしれない。君の言う「声から出てくる体」というのも、僕には「生まれ直し」のように感じられる。とにかくそれは生理的現象には還元できず、「出てきた体」は〈言語=音楽〉的──ゆえに物質的──であると思う。以前の君の言葉にあった「我々の聴覚体系にすでに入り込んでいる」ものとは「作品」なのではないか。画家なら「我々の視覚体系にすでに入り込んでいる」イメージを私は再現しているのだと言うかもしれない。「はじまり」を反復するための媒体は何であってもよいわけだ。
だとすれば、ブランショとフーコーに抗って言いたいが、「作品」と「作品の不在」とは実際には大差ないのではないか。狂人が再現しているのはほかならぬ「はじまり」の「不在」なのだから。この「不在」を再現することで、彼は「はじまり」は無であると言い続けている、その意味で「はじまり」そのものを反復しているだけなのだから。先ほど哲学的駄弁と書いたが、あれは気取った韜晦ではなく、なかば本気の心情であった。いったい、こんな本質論議で個々の作品論、作家論なんてやれるのか。ブランショでは実際マラルメもヘルダーリンもカフカも似たような扱いになっているではないか。それでいいのか。だからフーコーは文学を見限ったのでは? とさえ思う。「狂気」を「ノイズ」に置き換えてみれば、この手の本質論議にどこまで今日性があるのかよく分かると思う。「ノイズは狂気の音楽」なんてのは安っぽいだろう? その点ではロマン主義的音楽美学にノイズの肯定を見ていたランシエールの歴史感覚のほうに、僕は与したい。
次に「言葉」。上の話を踏まえて言えば、人間の「言葉」は音楽と分化する以前、「声」の段階ですでに「作品」を担っていたと思う。リグ・ヴェーダはその証かもしれない。その点で人間の「言葉」は動物のそれから区別されるはず。動物は情報を伝達しても、「作品」は作らない。人間にとっては言語と音楽のいずれにも先立って「作品」が、つまり「はじまり」の反復があった。語ることは死への抵抗だ、とこれもブランショが言っていたと記憶するが、語ることで「はじまり」に戻ろう、「すべて」を保存して死による忘却に抗おうという意味かもしれない。君の言う「声から出てくる体」というのも、僕には「生まれ直し」のように感じられる。とにかくそれは生理的現象には還元できず、「出てきた体」は〈言語=音楽〉的──ゆえに物質的──であると思う。以前の君の言葉にあった「我々の聴覚体系にすでに入り込んでいる」ものとは「作品」なのではないか。画家なら「我々の視覚体系にすでに入り込んでいる」イメージを私は再現しているのだと言うかもしれない。「はじまり」を反復するための媒体は何であってもよいわけだ。
だとすれば、ブランショとフーコーに抗って言いたいが、「作品」と「作品の不在」とは実際には大差ないのではないか。狂人が再現しているのはほかならぬ「はじまり」の「不在」なのだから。この「不在」を再現することで、彼は「はじまり」は無であると言い続けている、その意味で「はじまり」そのものを反復しているだけなのだから。先ほど哲学的駄弁と書いたが、あれは気取った韜晦ではなく、なかば本気の心情であった。いったい、こんな本質論議で個々の作品論、作家論なんてやれるのか。ブランショでは実際マラルメもヘルダーリンもカフカも似たような扱いになっているではないか。それでいいのか。だからフーコーは文学を見限ったのでは? とさえ思う。「狂気」を「ノイズ」に置き換えてみれば、この手の本質論議にどこまで今日性があるのかよく分かると思う。「ノイズは狂気の音楽」なんてのは安っぽいだろう? その点ではロマン主義的音楽美学にノイズの肯定を見ていたランシエールの歴史感覚のほうに、僕は与したい。