伊東さん、大変です。
行き先を事前に定めず、進む方角だけを大雑把に決めておいて、あとは流れに身を任せながら折を見て状況判断をしていく。そんな動き方を始めてみたところ毎日がなかなかに目まぐるしく、日常生活がかなりしっちゃかめっちゃかな感じになってまいりました。個々の事案からまた別の事案が葉脈状に派生し、それぞれが同時進行的に伸縮を繰り返しているような、でも鉢への水やりは欠かすことができないみたいな。とはいえ、二週間に一回くらいのペースで更新しよう!というこの連載唯一の暗黙の了解を、言い出しっぺの自分が早速反故にしているのだからどうしようもありませんね。反省します。
言い訳ついでにもう一つ。「無理が通れば道理が引っ込む」を地で行くことばかりを日々目の当たりにしてしまうと、どうしたって気が滅入ります。メディア上では「国家」や「戦争」といった大きすぎる主語が置かれた論調がますます幅を利かせるようになり、まるでこの世には勝者と敗者、加害者と被害者といった具合に、二極化され単純化された人間しか存在しないかのような物言いさえ罷り通ってしまっています。僕たちが房総半島に通い始めてから得た視点や知見からまったく乖離している「その世界」の出来事を、一言で言えば「馬鹿らしい」と思っているのですけれども、一体全体僕たちは連日何を見せられ続けているんだと、なかなか思考が追いつかないところもあって。
こういった傾向は七夕の翌日に起きた事件によって今後ますます強まっていくのでしょうが、自らを国民政党であると言って憚らない政党が被害者役を演じるという安っぽい(が法外な予算を持つ)芝居が始まるなんてことは全く予想だにしなかったことでした。そして、その演出をそのまま受け入れてしまう人びとがより一層「主流」からはみ出すことを恐れるような、そんな状況がすでに形作られてしまったように感じています。上から目線で引かれた線からはみ出さないように生きたところで、出口を示すピクトグラムさえ存在しない空間においては、下々の者こそがいずれババをつかまされるのは明白なのに。
前回の伊東さんからの返信の中で「最前線(=フロントライン)」というキーワードが示されました。僕たちが鋸南町に通い始めてから、合言葉のように割と頻繁に使うようになった言葉ですよね。かつて伊東さんは代々木のOFF SITE (註1) で、僕は渋谷のUPLINK FACTORY (註2)で、殊に音楽という現場に現れてくる何かを見届けるためにそれぞれの現場に関わっていたようなところがあったということは、長い付き合いの中でお互いに口には出さずとも感覚的に共有できていると思っています。



アート倉持
1975年大阪生まれ。1999年より東京を拠点にライブイベントや作品展示などの企画を行っている。漫画誌アックス(青林工藝舎)にてエッセイ『ル・デルニエ・クリの人びと』を連載中。zine『異聞新報』を不定期刊行中。バンド『黒パイプ』でボーカルを担当。セッションユニット『OFFSEASON』や『everest c.c.』ではギターを弾く。稀にDJも行う。註1:『OFF SITE (オフサイト)』
東京・代々木にて、藤本ゆかりと伊東篤宏によって2000年から2005年まで運営されていたギャラリー/フリースペース。二階建ての民家の内装を改装し、一階ギャラリーでは主に作品展示やコンサートシリーズが開催され、環境的理由から、多分、世界で最も小さい音のライヴを毎週末繰り広げていた。カフェとショップの機能を備えた二階ではライヴ出演アーティスト同士や観客が交流する場にもなっていた。
「OFF SITEはどのような領域の最前線だったんでしょうかね。僕はOFF SITEの存在を、UPLINK FACTORYのエレベーター前の踊り場にあったチラシ置き場で情報を見て初めて認識しました。それはヘルマン・ニッチの名前を見つけて「むむっ」と思って手にしたチラシでしたが、そのニッチも今年の春に亡くなってしまいました。当時伊東さんは30代半ば。僕は20代半ば。2000年の話ですからね、我々は確実に歳を取ってますよ。OFF SITEは近隣への配慮から大音量が出せなかったという環境的な理由により、ベテランのみならずニューカマーまでもが極めて小さな音で演奏を試みる場として即興演奏/実験音楽/サウンドアートの文脈上で知れ渡ることとなり、やがて音/音楽の聴取という行為自体を突き詰めて考える場へと転じていったようなところがありましたよね。グラスの中の氷の音さえアーティストのパフォーマンスに干渉してしまうような、ピリッとした空気感がいつもありましたね。でも僕はOFF SITEのことを特定の音楽ジャンルに紐づけて考えたことはあまりなく、未知のサウンドスケープの生成や、音を用いた行為が空間に干渉する様をライブで目撃する場所として認識していたようなところがあります。OFF SITEで初めて人前で演奏したのだという川口貴大くんが今も継続している空間ありきの表現を例に挙げれば、それはあながち誤った見立てではないように思いますが。当時OFF SITEとFACTORYの両方に出入りしていたアーティストはたくさんいましたし、アーティストたちは状況や環境に応じて表現を変化させていた、そういう印象を持っています」(倉持)
註2:『UPLINK FACTORY (アップリンクファクトリー)』
東京・渋谷にて映画配給会社アップリンクが運営していた上映/イベントのためのスペース。倉持は1999年10月から2020年5月までイベント企画を専任した。2006年の移転時の事業拡大に伴い(3つの映画館にカフェとギャラリーが併設された)、名称が「アップリンク渋谷」に統合される。2021年閉店。
「OFF SITEが存在した2000年からの5年間、その同時期に僕がFACTORYで取り組んでいたことは、先代プロデューサーの中里丈人さん(a.k.a DUB SONIC)が演者側にも回りながら実践されていた、東京発の独立系音楽を現場レベルで過激にミックスしていくという作業の引き継ぎ、そしてその発展といったところでしょうか。とはいえ僕は丈さんと働いた時期が全く重なっておらず、自分の思い込みや妄想をバネにして独自にその路線を進めていたようなところがあります。自分が何かを間違えた時には丈さんにしっかり“可愛がって”いただきましたけどね」

