東⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯⚡️通⚡️信 003

伊東さん、大変です。 行き先を事前に定めず、進む方角だけを大雑把に決めておいて、あとは流れに身を任せながら折を見て状況判断をしていく。そんな動き方を始めてみたところ毎日がなかなかに目まぐるしく、日常生活がかなりしっちゃかめっちゃかな感じになってまいりました。個々の事案からまた別の事案が葉脈状に派生し、それぞれが同時進行的に伸縮を繰り返しているような、でも鉢への水やりは欠かすことができないみたいな。とはいえ、二週間に一回くらいのペースで更新しよう!というこの連載唯一の暗黙の了解を、言い出しっぺの自分が早速反故にしているのだからどうしようもありませんね。反省します。 言い訳ついでにもう一つ。「無理が通れば道理が引っ込む」を地で行くことばかりを日々目の当たりにしてしまうと、どうしたって気が滅入ります。メディア上では「国家」や「戦争」といった大きすぎる主語が置かれた論調がますます幅を利かせるようになり、まるでこの世には勝者と敗者、加害者と被害者といった具合に、二極化され単純化された人間しか存在しないかのような物言いさえ罷り通ってしまっています。僕たちが房総半島に通い始めてから得た視点や知見からまったく乖離している「その世界」の出来事を、一言で言えば「馬鹿らしい」と思っているのですけれども、一体全体僕たちは連日何を見せられ続けているんだと、なかなか思考が追いつかないところもあって。 こういった傾向は七夕の翌日に起きた事件によって今後ますます強まっていくのでしょうが、自らを国民政党であると言って憚らない政党が被害者役を演じるという安っぽい(が法外な予算を持つ)芝居が始まるなんてことは全く予想だにしなかったことでした。そして、その演出をそのまま受け入れてしまう人びとがより一層「主流」からはみ出すことを恐れるような、そんな状況がすでに形作られてしまったように感じています。上から目線で引かれた線からはみ出さないように生きたところで、出口を示すピクトグラムさえ存在しない空間においては、下々の者こそがいずれババをつかまされるのは明白なのに。 前回の伊東さんからの返信の中で「最前線(=フロントライン)」というキーワードが示されました。僕たちが鋸南町に通い始めてから、合言葉のように割と頻繁に使うようになった言葉ですよね。かつて伊東さんは代々木のOFF SITE (註1) で、僕は渋谷のUPLINK FACTORY (註2)で、殊に音楽という現場に現れてくる何かを見届けるためにそれぞれの現場に関わっていたようなところがあったということは、長い付き合いの中でお互いに口には出さずとも感覚的に共有できていると思っています。
Iさんの山の深部へと向かうトラックの荷台から撮影。鋸南町に通い始めて、人と自然の領域が重なる最前線をもっとも感じた風景の一つ。
現場が表現の最前線であるという意識を持つ僕たちが鋸南町の山間の地域を訪ねた時、自然との距離を測りながら獣害対策に取り組んでいる高齢の農家さんたちの姿を目撃し、その彼らの現場に自分たちとは異なる文化圏の最前線を感じ、共感を覚え、自分たちが携えている文脈との接続の可能性を仄めかす何かを掴んだような、そんな気にさせられたわけです。現時点ではどうしても回りくどくて漠然とした物言いになってしまい、なかなかもどかしいですが。 余談ですが、僕は鋸南町や他の山間の地域へと足を運ぶようになってからスマホに「YAMAP」というアプリを入れたのですが、そのプロダクトマネージャーを務めているのが昔OFF SITEやFACTORYで演奏をしていた土岐拓未くんその人だということを最近知って普通にびっくりしました。彼は何といっても「ゴルジェ」の人なわけですから、そのブレのなさに驚かされます。 今となっては、OFF SITEには発明家的な発想を持った人びとが集っていたのだな、とも思いますね。なにしろ伊東さん自身がオプトロンという装置の発明者なんですから、その親玉的な存在であったともいえますが。BorisのWataさんがオプトロンを演奏する動画をインスタにアップしたら、Borisのファンがオプトロンの存在を初めて知って騒ぐ──みたいなことが今でも起こるんですから面白いですよね。 OFF SITEに出入りしていた面々に限っていえば各自のその後の展開や活動場所もバラバラですし、僕はやっぱり「こうでなければならない」という根拠なき自主規制的な感覚とは無縁の、各自が気ままにやっている感じが面白いと思っているのですが、その奔放にもみえてしまう越境的な在り方こそが、思索の其処彼処に引かれている境界線というものを逆説的に浮かび上がらせてみせたりもするわけで。僕らが通っている山の持ち主であるIさんは山全体をデザインするように日常的に壮大な実験をされている方だということが段々わかってきましたが、物作りが好きな発明家気質の方でもありますし、僕は伊東さんとKさんのコラボレーションがいつか実現するのではないかと密かに期待していたりもします。 と、昔話はこの辺にしておき(この話の続きにご興味ある方は、番外をご覧ください)、ここらで僕たちが鋸南町を初めて訪れた日のことを振り返りたいところなのですが、すでに文字数が大変なことに…。 僕たちの話に興味を持ってくれて一緒に鋸南町へ来てくれる仲間も増えつつあります。都内と鋸南町での二拠点生活を望んでいたもっくんの前に空き家を提供してくださる方が現れたりと、嬉しい展開も起こり始めています。僕個人の動きの中でも、他の地域で興味深い試みを実践している人びととの出会いがここ最近だけでもいくつかありました。
今年5月、鋸南町のFさんの畑にて。ライブイベント「게 N गो (ゲンゴ)」のレギュラー出演者であるSYNくんとその仲間たちも合流し、レザーアーティスト/俳優/映像作家/美術家/ミュージシャンといった面々が一丸となり高齢の農家さんの作業をお手伝い。
既にそこにあるものを使って新しい組み合わせを考えて、自分たちにフィットするものへと作り直そうとする動きは、それぞれの規模は小さくとも、むしろ都市部の外ですでに活発化しているように感じますね。新しい場作りのヒントはむしろ東京の外にあったんだな、僕は東京に長く閉じこもり過ぎていたんだなとつくづく思い知らされています。 次回はそんなことについても触れられたらと思います。 お返事お待ちしております。 倉持

アート倉持

アート倉持

1975年大阪生まれ。1999年より東京を拠点にライブイベントや作品展示などの企画を行っている。漫画誌アックス(青林工藝舎)にてエッセイ『ル・デルニエ・クリの人びと』を連載中。zine『異聞新報』を不定期刊行中。バンド『黒パイプ』でボーカルを担当。セッションユニット『OFFSEASON』や『everest c.c.』ではギターを弾く。稀にDJも行う。

 
註1:『OFF SITE (オフサイト)』
東京・代々木にて、藤本ゆかりと伊東篤宏によって2000年から2005年まで運営されていたギャラリー/フリースペース。二階建ての民家の内装を改装し、一階ギャラリーでは主に作品展示やコンサートシリーズが開催され、環境的理由から、多分、世界で最も小さい音のライヴを毎週末繰り広げていた。カフェとショップの機能を備えた二階ではライヴ出演アーティスト同士や観客が交流する場にもなっていた。 「OFF SITEはどのような領域の最前線だったんでしょうかね。僕はOFF SITEの存在を、UPLINK FACTORYのエレベーター前の踊り場にあったチラシ置き場で情報を見て初めて認識しました。それはヘルマン・ニッチの名前を見つけて「むむっ」と思って手にしたチラシでしたが、そのニッチも今年の春に亡くなってしまいました。当時伊東さんは30代半ば。僕は20代半ば。2000年の話ですからね、我々は確実に歳を取ってますよ。OFF SITEは近隣への配慮から大音量が出せなかったという環境的な理由により、ベテランのみならずニューカマーまでもが極めて小さな音で演奏を試みる場として即興演奏/実験音楽/サウンドアートの文脈上で知れ渡ることとなり、やがて音/音楽の聴取という行為自体を突き詰めて考える場へと転じていったようなところがありましたよね。グラスの中の氷の音さえアーティストのパフォーマンスに干渉してしまうような、ピリッとした空気感がいつもありましたね。でも僕はOFF SITEのことを特定の音楽ジャンルに紐づけて考えたことはあまりなく、未知のサウンドスケープの生成や、音を用いた行為が空間に干渉する様をライブで目撃する場所として認識していたようなところがあります。OFF SITEで初めて人前で演奏したのだという川口貴大くんが今も継続している空間ありきの表現を例に挙げれば、それはあながち誤った見立てではないように思いますが。当時OFF SITEとFACTORYの両方に出入りしていたアーティストはたくさんいましたし、アーティストたちは状況や環境に応じて表現を変化させていた、そういう印象を持っています」(倉持)
註2:『UPLINK FACTORY (アップリンクファクトリー)』
東京・渋谷にて映画配給会社アップリンクが運営していた上映/イベントのためのスペース。倉持は1999年10月から2020年5月までイベント企画を専任した。2006年の移転時の事業拡大に伴い(3つの映画館にカフェとギャラリーが併設された)、名称が「アップリンク渋谷」に統合される。2021年閉店。 「OFF SITEが存在した2000年からの5年間、その同時期に僕がFACTORYで取り組んでいたことは、先代プロデューサーの中里丈人さん(a.k.a DUB SONIC)が演者側にも回りながら実践されていた、東京発の独立系音楽を現場レベルで過激にミックスしていくという作業の引き継ぎ、そしてその発展といったところでしょうか。とはいえ僕は丈さんと働いた時期が全く重なっておらず、自分の思い込みや妄想をバネにして独自にその路線を進めていたようなところがあります。自分が何かを間違えた時には丈さんにしっかり“可愛がって”いただきましたけどね」