異言としての音楽、あるいは生成AI時代のアントナン・アルトー

異言としての音楽、あるいは生成AI時代のアントナン・アルトー

市田良彦

異言をさしあたり心理学的意味に理解してみよう。神か悪魔に憑依された者が突然話し出す、その者が知らないはずの外国語。あるいは、狂った人間が発する誰にも未知の言語。しかし、そんな言語はほんとうにあるのか? 意味不明の喉の震えなり肺の音を聞いたとして、それが言語であるとどうして分かるのか。感じられるのか。裏を返せば、森の葉音はなぜ言語として聞こえないのか。


o pedana
na komev
tau dedana
tau komev
……


様々な作品に挿入されるアルトーの異言は紛れもない「フランス語」である。彼がフランス人であることは知っているもののフランス語を解さない外国人には、« caca »(うんこ)と « dedana »の間に言語的に有意な差異はない。二つの語は無差異に「フランス語」だ。フランス人にとっても、彼の異言はフランス語の文に挿入されるから、さらにフランス語式の母音と子音の組み合わせとして読める/聞こえるから、フランス語内部の異言である。よって「フランス語」である。誰にとっても日本語ではない。あらゆる言語にそれに属す異言の可能性はある。ならば異言はあらゆる語がもつ別のことを言う可能性、別のことを現に言っている蓋然性ではないのか。「言語がある」こと自体に由来する一つの本性。言語は必然的に有限である。言えることにはかぎりがある。しかし言語が言う物とことがらのほうは無限にある。同じ語、同じ表現がいつか別のことを言ってしまう事態に立ちいたるのは、むしろ必然であるだろう。言語が物/ことと同じだけ無限であるなら、言語はそもそも不要であるだろう。そのとき語は物/ことに付された番号のようなものにすぎず、物/ことがすでに代理人なしに自らを語っているのと同じである。

とすれば語はそれ自体に、意味の空虚を含んでいることになる。いやむしろこう言うべきか。語は二つの物/ことの間にある隙間こそを指示する。意味する。例えば、レーモン・ルーセルがある小さな物語の最初と最後に置いた、« lettres du blanc »という語。これは「白墨で書かれた文字」なのか、それとも「白人の手紙」なのか。いや、« lettres du blanc »という語は、それ自体で二つの意味の間の空隙であり、意味の「ほつれ/かぎ裂き」(ダメージジーンズを想像されたし)の定在にほかならない。言い換えれば、« lettres du blanc »はそれ自体ですでに一種の異言、音だけあって意味のない語を構成している。あらゆる語は« lettres du blanc »のようでありうる。それ自体に空虚を含んでいて、その空虚のおかげで語として存在している。

アルトーにとってそのことは最初、彼の詩を破綻に陥らせる恐ろしい事実であった。


ご存知のように私の詩はバラバラでまとまりがないし、形のうえでいろいろ欠陥があります。(…)私の思考を破壊する何かがあるのです。私が何であるにせよとにかく何かであることを阻みはしないけれども、言ってみれば私を宙ぶらりんにしておくような何かがあるのです。そいつはこそこそと人目をはばかる代物で、私から私が見出した語を奪い去り、私の精神的緊張をゆるめ、私の思考の一塊を形成する実質を次々に破壊してしまう。(ジャック・リヴィエール宛書簡、1924年1月29日、強調原文)


私がどんな語を見出したところで、「そいつ」、その「何か」は、私からその語を奪い去っていく。語に私が指定したのとは別のことを言わせ、私の思考を滅茶苦茶にする。「そいつ」は語の中に忍び込んだ──アルトーが他所で使っている表現では──「完全な不在」、「真の減衰」、「完璧な虚無」だ。私がいったい何を言いたかったのか、そいつが私に、したがってもはや誰にも、わからなくする。ルーセルにとってもアルトーにとっても、語はすべて密かな同音異義語であったわけである。そしてアルトーは、その語の「別の意味」がとどのつまり空虚、不在、虚無であることを完全に理解していた。彼はそいつを我が敵と見定め、以降、そいつと戦うために詩作から劇作へと作品形式を移していった。そいつに向かって言葉を動員し、投げつけ、そいつを飼い慣らすべく舞台に上げ、「そいつ」自体を作品にしようとした。〈残酷の演劇〉である。そいつが私に何をしたか、きみたちに何をしかねないか、とくとご覧あれ。それができたあかつきにようやく、私はそいつに勝利したことになるだろう。私は異言を操る人間であらねばならない。そのうえでこの未知の言語を読者・観客に理解させるもう一つの言語として「作品」を作らねばならない。

してみると、アルトーが音楽に行き着くのは自然な流れであったろう。


na dedanu
na komev
tau komev
na come
copsi tra
……


たんなる音としか聞こえない異言は、それでも人の口で分節された以上、まず、唇を楽器とする音楽である。そもそも音楽は太古の昔より、人間に言葉を与え給うた神への返礼であった。それが神に届くのは、神は言葉と同時に竪琴も人間に与えたからである。神は音楽を言葉として聞く術を最初から知っていた。森の葉音にすら神は言葉を忍ばせて人間に読み取らせようとしたのだから、自分の与えた竪琴の調べを理解できないわけがない。異言もその一種である音楽は、〈神の言葉〉の半身だ。だとすれば異言、言語的にはノイズであるこの音楽は、互いの分身である音楽と言語をそれ自体のうちに宿している。意味と無意味、「ある」と「ない」の境界線を踏み越えている。正常な文の中に挿入されることで、文の下にある空虚を読ませ、聞かせる。音楽へと溶解する言語、言語から立ち上がる音楽を見えるようにする。とにかく、両サイドから文に挟まれた異言は、言語内に口を開けた言語外的なものへの出口だ。本来あらゆる語がそんな出口であるはずなのに、数々の掟──「神の裁き」だ──がそれを塞いでしまっている。我々に「無」という「別の意味」を聞こえなくしている。そのことを知ったアルトーは文に異言を差し込み、その出口を、裁く神のもとへ攻め込む入り口に変える。神の領域と人間の棲家の閾にする。そこを通して言葉を、返礼としてではなく槍として──「うんこcaca」としてか──神に差し向けようとする。叛乱を組織しようとする。人間に「意味」を読み取らせようとしてきた神に、ただの「物」としての身体の奥底から出てきた言葉を物体としてぶつけるのだ。言葉が「唇を通る」とは、彼にとってはそういうことである。私が「馬」と口にすれば、それは私が背にまたがり奴のところへ攻め入る馬である。異言が門を開いてくれている。

鈴木創士によれば、アルトーはエドガー・ヴァレーズと組んだオペラを構想したことがあったようだ (「騒音書簡」17葉参照)。本作はそれが現代であればどのようなものでありえたかを、彼が森田とともに作品化したものである。アルトーの異言はそのままオペラの歌詞として置かれている。まっとうな彼の文とともに。そして森田と鈴木による音楽が、さらにその周りを囲っている。この三重構造が作品の縦の骨格である。アルトーを模し、再現する彼らなりの仕方である。しかし、まずオペラであるということが作品を決定づけてもいる。時間に沿って横に展開するドラマトゥルギーをもった音楽として聞けるのである。全九曲を三幕からなる一つの舞台へと編んだむしろ伝統的なドラマ音楽として。プレリュードを持ち、終わりはまさにコーダの響き。無音を背景にはじまり、消えて終わるという音楽的「自然」を聴く耳に納得させる。この骨格にはいささかの破綻もない。そのことが主題たる異言の異言性を際立たせるよう仕組まれている。何も考えずに聴いても、ひとまず楽しい。

はじまりはアルトーの地声による宣言である。「私は昨日知った」。何をか? それを告げるかと思いきや、楽器群の騒々しい乱打が即座に響き渡り、さらに、それを告げる前に、「私」がそれを知った理由がアルトーの口から明かされる。我々が「黴菌」と呼び忌み嫌ってきたものこそ神であるから(parce que)、私はそれを知った。神が「それ」なのではない。まして「それ」は神が私に告げる意味内容やメッセージでもない。神が黴菌であるから、私は何ごとかを知ったのである。この何ごとかを解くのがこのドラマである、と第一曲は宣言する。幕開けである。続く第二曲は「知る」ことが私にとって戦いであり、その武器が「うんこ」であるという告知である。私は私の「うんこ」をもって戦う、とスリップノット風デスメタルに乗せて語られる。戦いは死を賭したものとなろう。ここまでが第一幕。第二幕は、プレリュードにすでに登場していた意味不明の異言が、「おまえ」と呼びかけられる神のいない「俺の肉体」から発せられたものであった、と明かされてはじまる(第三曲)。この「肉体」は「おまえ」のせいでかくも痩せ衰えてしまった。チェンバロのぎこちない独奏がそう呟く。俺にはもう、俺にも意味のわからない言葉しか残っていない。戦いの序盤は「私」の敗北を予感させる。そして私は援軍を求めてチベットに行く(第四曲──アルトーは実際そこに行くと言ったことがある)。僧侶たちの声明に耳を傾ける。彼らの「ジャズ」は私の助けになってくれるのか? しかし、そんな希望は砕かれたと第五曲が教える。俺はもう俺の異言をただ「叫ぶ」しかないのだ、とここでの「私」は絶望している。自分に向かって語っている。助けを求めることはもう「禁止」だ。しかしその私は絶望しているだけではない(第六曲)。異言はそれ自体、上海かウィーンの舞踏会で踊る私のハミングにもなりえるだろう。音楽は伴奏でもあったではないか。やさしい友にもなりえたではないか。世界に「もう天体はない」としても彼がいる。新しい発見である。そしてセリフだけからなる第七曲をもって第二幕は幕を降ろす。音楽という友を得た私は「悪魔の世界は不在である」と気づく。天体がなければ、神が堕して悪魔になって住むはずのこの世界そのものがないではないか。「現実の構築」は私がやればよい。それだけのことであった……。

第三幕はまさに戦いの終わりだ。第八曲は森田がモーツァルトに捧げた「100のレクイエム」 (「騒音書簡」市田25葉参照)の別バージョン。すべての死者たちが、涙を流す「悲しみの聖母(ラクリモーサ)」を歌っている。戦いは幕間ですでに終わっていたのである。「俺」と「おまえ」のいずれが勝ったのだ? そこにアルトーの言葉は異言すらなく、答えはわからない。彼が結局何を「昨日知った」のかも。ただ、彼が死者たちとともに、神を産んだ女を歌っていることだけがわかる。何しろこの死者たちは我々全員なのだから。これが勝利宣言なのか敗北宣言なのか、もう知ろうとするなと歌っているかのようである。どちらでも変わりない、と。そして最後の第九曲。アルトーがヴァレーズとともに作ろうとしたオペラの想定音楽パートである。セリフも歌もなく、やはり何も語られない。タイトルは「神の裁きにけりをつけるためにPart2」。最初に戻っているのである。異言をどこかに置き去りにして。すなわち無に返して。してみれば、こう思うほかないだろう。異言はただ言葉のはじまりにして終わりであった。言葉がそこから出てきてそこに帰還する空虚であった。終わりの音楽が「意味」しているのはそのことだけである。

森田によれば(テクニカル・ノート)、セリフのほとんどは生成AIによって音声化されているという。作品のすべてが機械の仕業であるかもしれない、とも作者たちは思わせたがっているのか。今日もはやアントナン・アルトーその人すら「俺の肉体」をもたない、と。そうだとしても、いやそうであれば、作品のほうは人間ですらない「物体」が吐き出した異言である。アルトーの狂気とは別のところに屹立している。「私」が観客についに教えなかった「何か」を語り続けている。「アルトーが我々の言語の土壌となる日が来るであろう」という予言は正しかったのだろうか。幕が降りた後の沈黙、それこそがここで構築された「現実」である無音状態は、なんと答えているのであろう。

■ CD作品『残酷の音楽』鈴木創士 + 森田潤(Les disques d’Ailleurs 001) 付録インサートより転載
Courtesy of Café Ailleurs 2024
『残酷の音楽』鈴木創士 + 森田潤