まとめ220328

2022年3月28日

鈴木創士 殿

創士に公開で手紙を書け、と佐藤薫から。あいつはもう最初の手紙を書いているらしい。おれはまだそれを読んでおらず、まさに今、おれからの最初の手紙を書きはじめている。レーベルのサイトを介したやり取りが、しばらく続くらしい。おれは今、いまさら鈴木に対して公開の場でなにを言えばいいのか、と途方に暮れている。まあいい、佐藤くんの掌の上でしばらく踊ってみるか。いかにも彼らしいというか、ミュージシャンにふさわしい発想だと思うので。音楽はこんなふうにしかはじまらんではないか。彼もおまえもミュージシャンなんだし、おれにもそうなれ、と言われたような気がしてちょっと嬉しい。もう40年以上前だが、ちょっとだけ歌手だったしな、おれも。

しかしおれは今やミュージシャンではないし、踊ってみるかと書いたものの、むろんダンサーでもない。おれはたんなる口舌の徒である。人前で話したり、顔の見えない人たちに向かって書くことを生業としている。そして長い間、そのことの意味をどこかから問い詰められていた気がしている。そのなかで他人から言われてもっとも嬉しかった言葉は、言葉が踊ってますね、ブルースしてますね、といった類のものだった。そのようなものでありたい、といつもどこかで意識していたのだろう。アーチストへのコンプレックス? いや違うな。音や身体による「表現」を特別視して、言葉を軽んじるような物言いには憐れみすら感じる。そんな姿勢では、自分の「作品」を「いいね!」稼ぎに貶めてしまうぞ、と。おれたち──とあえて記す──は「インフルエンサー」なのか?

創士くんよ、きみは小説家でもあるからよく知っていると思う。最初の一文はむつかしい。白紙の頁にどんな言葉を置く? なにをどう言ってもいい、そんな条件でいったいなにをどう書けというのか、と途方に暮れた経験がきっとあると思う。ステージの上でも同じだろう。最初にどの音をどう出す? 文学作品を書いたことのないおれでも、書き出しはいつもむつかしい。テーマというか、流れというか、全体として「言いたい」ことのイメージがすでにあっても、最初の一行はつねにむつかしい。世界をゼロから作るようなことを強いられるのだから。そんなことはできない相談と分かっていながら、そのようであると思い知らされた経験を胸のどこかに刻んでいる者として、「おれたち」とおれは記す。

最初のフレーズは、白い紙の上に書かれようが、無音の空間に放たれようが、現実世界においてはノイズだ。うるさくなくても騒音。まだ「意味」が分からんので。そのことを、おれは子どものころ、テレビでセロニアス・モンクを見て/聴いて思い知らされたように思う。たしか初来日のときで、佐良直美が司会をしていた。そのころのおれは、従姉妹の家で聞いた彼女のピアノとショパンのレコードにうっとりして通いはじめたピアノ教室を、あまりのスパルタに嫌気がさしてやめてしばらく経っていた。モンクのピアノは、こんな音、こんな弾き方があるのか、という衝撃だった。彼がソロで弾く「煙が目にしみる」が、おれの音楽経験を白紙に戻してしまった。まさに、ありえない! という感覚。リズムはずれているし、和音は和音なのかすらよく分からんし、なにより、手のひらがぺったんこ。指を立てろと散々矯正されてきた身としては、初心者の手の構えと指の動き。意味が分からないということ自体が意味をもって迫ってきた。ジャズというものに興味をそそられて、その後オスカー・ピーターソンのコンサートに行ったりもしたのだが、これがジャズならショパンでいいや、と思った記憶あり。

おれにクラシック・ピアノの経験がなかったら、モンクのピアノはノイズには聞こえなかったろう。はじまりのフレーズは「私」の経験を、経験したことの「ある」と「ない」がすれ違う陥没地帯に落とし込む。この手紙もそうだ。佐藤薫を含み、おれたちがすでにおれたちでなかったら、こんな企画は成立しなかった。けれども、いわゆる「素地」がすでにあったから、おれはまたしても、「いまさら」という白い紙の前に座らされている。はじまりはむつかしい、とはじめに言っておきたかった。文法学者なら「時制(テンス)」と呼ぶシステムの一つとしての「現在」の手前で、その「現在」を構成するはずの色々な「アスペクト(局面)」が行き交っている。『騒音書簡』ははじまり「つつある」、「まもなく」はじまる、「すでに」はじまっている、「やがて」過去になる。とすればこの陥没地帯にこそグルーヴはある。ということでこれがはじまり、第1回の手紙だよ。

市田良彦





2022年4月29日

親愛なる市田君

君の言うように「最初の一文はむつかしい」。それどころか、それを書いた後、振り返ると最初の一文は透明になっている。消えている。「最初の一文」としてそれを書いたのか確信が持てない。セロニアス・モンクの天才的な「びっこリズム」、あのノイズのようにはかっこよくできない。俺の場合、最初に画した文章全体の構想はほとんどズタズタになってしまう。「最初の一文」は「よそ」からやってくるからだ。君が言うように、書く場合だけでなく、演奏もそれに似ている。

フォノンの小磯幸恵から市田良彦と往復書簡をやれと言われたとき、君と議論を戦わせる光景が頭をよぎった。君は哲学者だから、哲学者と戦うのも悪くないと思ったが、今更の感もある(でも今がピカピカのサラになるかもな)。さっきまでアルトーの「アンドレ・ブルトンへの手紙」の翻訳ゲラを見直していたけど、アルトーのようにはとてもじゃないがやれない。つまり我々の「騒音書簡」は往復書簡でありながら、「最初の一文」にとどまり続けるかもしれない。これは漠然とした不安だろうか。佐藤薫がそれを画策したのか。ともあれ、ノイズは音楽になるのかという問い自体が無駄になるわけだ。あえてそう言っておきたい。俺は偽の古典主義者なんだ。

ところで、「空耳を潰す」という妙な言葉があるが、それはわざと聞こえないふりをすることらしい。EP-4の復活ライブ、二度目の代官山 Unit だったと思うが、リハの途中で佐藤薫がある録音を聞かせて俺にこう言った、「何分何秒目のこの音出して!」。イヤホンで何回か聴いた。えっ、聞こえないけど! 空耳をつぶしているわけじゃなかった。人間の耳はある数値の周波帯しか聞き取ることができないが、その範囲はイルカや鯨よりも狭い。しかしそういう問題ではない。ある低音(高音?)の音だけがどうしても聞き取れないのだ。耳鳴りのせいで耳が壊れたのか。爆音で片耳が聞こえなくなる人がいるが、それならわかりやすい。鼓膜が破れたのだろう。しかし俺の場合は、他の音は聞き取ることができるので、周波帯に極小の穴があいたとしか考えられない。それは音の穴なのか。これだってさまよえる「最初の一文」ではないか。

地球上には完全に無音の空間はないし、それを経験することはできない。物音ひとつしない夜の砂漠にいても自分の血が流れる音や心臓の鼓動が聞こえるからだ。生きている身体は音に満ちていて、完璧な静寂は身体の向こうにしかない。生命はうっとうしいだけでなく、騒々しい。だが鳥の囀りを聞いて、どうして自分が静寂のなかにいると感じるのだろう。完璧なかたちは無理でも、日常生活でも断片的な無音を聞いているということがあるのかもしれない。

音楽のテクスチャーにも幾つも穴があいているが、俺たちはいつも耳の穴から漏れる無音を聞くともなく聞いているに違いない。つまり書かれていない「最初の一文」を。君が言うように、現在を構成しかけのアスペクトは「ある」と「ない」のノイズ=無音からなっている。そうはいっても、ジョン・ケージ論者たちが言うように、たぶん「沈黙を聴く」とかそういうことではない。澄ました顔であの類いのことを言われるとイライラする。音には穴があり、音はその穴と対になっている。間断なく続く耳鳴りも、ノイズも、この穴を通って外に漏れ出ているのかもしれない。穴があることによる音と無音。君の言う「陥没地帯」だ。あるいは欠落による音楽的持続と沈黙。シュトックハウゼンならそこに音楽の構造と時間の問題を持ち出すのだろうが、たぶん的はずれだと思う。

それにしてもパンク時代の君のプロフィール写真は笑えるね。若者やな。

鈴木創士





2022年5月28日

鈴木創士兄、

おかしなことになっている。佐藤薫の仕掛けがさっそく効果を発揮している。貴兄からの2通目の手紙を読みながら、そう思わずにいられなかった。我々はそれぞれのn通目の手紙をφononのサイト上ではじめて読み、それぞれのn +1通目の手紙を互いに向けて書くことになっている。往復書簡であるにもかかわらず、二人の間を行き交う「ピンポン玉」がないのである。通常の往復書簡であれば、読者は「ピンポン玉」に二人の関係の実質とその変化を読み取り、そこに第三者として割って入ることができる。感想を持つだけでも、それを口にすれば関係への立派な介入だろう。そんな変化する一つの「実質」が構成されないようにする仕掛けを、我々のプロデューサーは騒音書簡に仕込んだ。

貴兄からの1通目の手紙を読み、僕はそれへの返信を、「問い」を投げるかたちで書いた。1通目にあった「ように」ってなによ。「ように」ってどういうことよ。それを問うことが返信としての僕の2通目の手紙だった。たった今、貴兄はもうその問いに対する返答を書いているはずだ。今日は貴兄のライブ本番の日だから、書き終えた手紙を一足先にもうサイト管理者に送っているかもしれない(今日は5月28日で原稿の締切は月末)。とにかく僕はまだその返答を読んでいない。ところが僕のすでに読んでいる/読んだ上でこの3通目を書かなくてはいけない貴兄からの手紙には、またしても、僕の目には肝心と見える箇所に「ように」とある。「アルトーのようにはとてもじゃないがやれない」。普段なら分かった気になってそのまま先に読み進めたろうこの一文に、僕の目は釘付けになる。前の手紙で「ように」ってなによ、と質問していたから。この「アルトーのように」ってどういうことよ、と僕はあらためて問わざるをえない。貴兄からの3通目、そこに答えが書いてあるはずの手紙を読まずに、僕は僕の3通目を書かなくてはいけない。貴兄の2通目は貴兄自身の1通目に僕のなかで送り返され、僕は自分の2通目に対する自分の反応込みで貴兄への3通目を書かなくてはいけない。僕にとって「ように」はまたなのだ。

フィードバックとはこういうことか。裸のラリーズを思い出さずにはいられない。前に進むことと後ろに帰ることを執拗に交差させる水谷孝のギターを。やりすぎの残響と異なる拍子の共存で、前に進みながら後ろに帰ることをこちらに強制する彼のいくつか(?)の曲を。それらは、この音はずっと昔から響いていたと思わせるほど、こちらを前に連れ戻す。いつはじまったか、いつ終わるか、という問いを無効にする。最近のEP-4の演奏(unit-Pではない)もその点では同じだ。

「アルトーのようにはとてもじゃないがやれない」と書いたすぐ後に、貴兄は続けた。「つまり、我々の騒音書簡は(…)『最初の一文』にとどまり続けるかもしれない」。この「つまり」に対し、僕は今、騒音書簡の仕掛けにより違和感を持たされている。つまり、我々の「はじまり」がフィードバック効果によりもう消されてしまった、いや「最初の一文」なんか実はない、と感じている。「アルトーのように」がどういうことかはさておき、貴兄の書く「つまり」から判断される「アルトーのように」我々は現にやっているではないか、むしろ「アルトーのよう」であるよう強いられているではないか、と。僕の「つまり」と貴兄の「つまり」はこの瞬間、反対を向いている。我々の間に一つのピンポン玉がない(二つある?)ゆえの事態だろう。

「きみは哲学者だから」と貴兄は言ってくれたが、その規定を受け入れるには僕は「哲学」に対し皮肉すぎる感情を抱いている。そんなもの、もう終わっているではないか。哲学はもう実在していない。ひょっとすると実在したことがなかったかもしれない、とさえ思っている。これはもちろん、他人の受け売りなのだが、僕はその他人──ミシェル・フーコーという──の診断に深く同意する。同意して、彼のように「言われたこと」を「記述する」ことだけをしていたいと思っている。「言われたこと」は「出された音」であってもいい。つまり、と貴兄にならって言えば、「言われた」内容、なにが「言われた」かにはあまり興味がなく(それは言った本人に聞け)、「言われたこと」/「出された音」を「物」扱いして、「物」としての効果を再現してみたい、と。2通目の手紙ではその効果が、「ように」ってなに?と問うことであり、この3通目では、手紙という二つの「物」の「間」──これも「物」の一つだろう──を「記述」してみたいと思った。

市田良彦





2022年6月28日

親愛なる市田君、

君が言うように哲学は存在しなかったかもしれないから、君は哲学者になったんだろ? なるほど哲学も文学もどうでもいいと僕も思っている。フーコーの有名な言葉、「別の仕方で思考すること」ができるなら……。だが今更「思考」なんて言っている奴のなかには(我々のことだけど)、破綻した哲学者と破綻した作家がいるだけだ。我々はそれを恥じたりしない。別の仕方でやることができれば、別の仕方で生きて考えることができれば、ほんとうにそれができるなら、思考のなかに「音楽」や素数の不可能な分布やフォトンが生じることを君もよく知っているだろ。

それは素晴らしい経験であるし、裏返しになった「政治的」光景だ。そのために、それが何らかの幾何学的射影であっても、この眺望、この観念にはあらゆるノイズの介入が必要なんだ。ノイズがなければうまくいかない。我々はキチガイではないが、まあ、この環境でまともでいることはできない。ちなみにノイズは「ピンポン球」ではないし、対位法ではない。聾のベートーヴェンだって、聾だからこそそのことを知っていた。晩年のベートーヴェンはある意味で凄腕だよ。聞くことが問題であっても、耳に聞こえている必要はない。森田潤が音楽造作の切片をさらにノイズと別のリズムで徹底的にお釈迦にして鼓膜の向こうへ飛ばしてしまうあのやり方を僕はとてもよく理解できる。たいしたもんだよ。森田氏は「上手く破綻している」んだ。言っとくけど、あそこにも「ピンポン球」はあり得ない。諦めたほうがいい。佐藤薫を含めて動かない「アスリート」である俺たちは卓球が得意じゃない。俺は全ての「卓球」を否定してもいいと思っている。全く違うことが生じているんだ。

たしかにこの書簡はスパイラル状になっているので、そろそろ俺も混乱してきた。この手紙の君の前回分だけを読み返せばいいのだけれど、他の手紙もつい見てしまう。読み返してしまう。するともうだめだ。三回目、四回目ですでに混乱しているのだから、先が思いやられる。誰が書いているのか。イタリアの画家ボッティチェリに倣って「私はこの手紙を混乱の中で書いた」とでも言っておけばいいのか。私は混乱を愛している、愛さざるを得ない、と。幻の「はじめの一文」にとどまることも、「はじめの一文」が消えてしまったことも、もう大差はない。我々はDNAに舞い戻ったのさ。DNAの二重螺旋は永久に交わらないけど、しかし二つの染色体の遺伝的な形質的特質は負の性向においてなぜか奇跡的に交わることがある。愛が生まれる。ピンポン球はいらないわけ。

「ように」の話を蒸し返すのは面白くないだろうけど、「嗅ぎ分ける」と書く場合、僕は「死にかけの犬のように嗅ぎ分ける」と直喩で書きたくなる。犬を登場させることは文の全体にとって違う効果を与える。死にかけの犬という実在(名前?)が加わる、ただそれだけのことにすぎないけど……。中世フランチェスコ派の神学者オッカムが禁じたことだが、俺はむやみに実体を増やしていることになるわけだ。手紙も実体だし、ピンポン球がなくても、実体は増える一方だ。これも佐藤の陰謀の一環だから仕方がない。その絵画的音楽的拡がりや増殖の中にどのようにこの身体があるのか、あり得るのか、書き手の身体的リズムの違いが、段差が、小さな事象を生み出すこともある。どう説明すればいいんだろうね。難しいな。「ように」が介在しようとしまいと、ひとつの「経験」が生起すればいい。偶然であれ必然的であれ、音楽がどんな音色を、どんな「ノイズ」を選択するのかと同じことだよ。何でもいいわけではない。これでは答えになってないな。

鈴木創士


2022年7月30日

鈴木創士へ、

なるべく毎回、宛名の書き方を変えようと思っているのだが、ついに呼び捨てか? いや、そういうわけではない。今回の手紙は「鈴木創士」と名乗っている作家・音楽家に宛てているつもりである。同じように、今回の手紙は流れ弾を「佐藤薫」にも被弾させようと思う。君たちの7月2日のライブは、考えてみれば僕にとっては、二人が同じステージに立つのを見るはじめての機会であった。40数年前に見たEP-4の舞台に、「鈴木創士」はすでにいなかった。

「佐藤薫」は、ヴォイスとして出演するかぎり、マイク片手に座っていてほしくなかった。「佐藤薫」にはトルソとして、舞台中央に突っ立っていてもらいたかった。Velvet Undergroundにおける「ニコ」のように(「ように」をめぐる考察は続いている…)。楽器奏者は美神に仕える従者であってほしかった。君たちのステージは40年前よりはるかにExploding Plastic Inevitableの一環であったわけで、舞台にいない僕はまるでウォーホールになったかの気分であった(ヴェルヴェッツのこの連続ライブについて初耳の方はぜひYouTubeで検索して視聴ください)。音的にも絵的にも、ベースを含む電子音群の厚い層──マーラーやベルリオーズばり──が「真ん中」を形成し、その「下」でユンが気持ちよさそうにポコポコとアナログに太鼓を鳴らしている。トランペットとギターは「上」から介入して、全体を柔らかいベッドにして飛び跳ねたりベッドそのものを裂いたりする。「真ん中」が「上」と「下」を遊ばせる。「上」と「下」から「真ん中」にしてもらっている。ウォーホール(影のプロデューサーだ!)として言わせてもらえば、この構図にヴォイスの位置はない。だから「佐藤薫」は座っていたのだろうが、しかしそれは裏を返せば、突っ立って全体の「外」に出てしまえば構図を鮮明にする役を果たすことができた、ということでもある。現代のMelody Laughter(これも初耳の方はYouTubeで聴いてください)「として/のように」、僕は君たちのステージを聴いた。今この瞬間も聴いている。

そう、これは僕の妄想である。しかし聞き手に妄想を綴らせることもまた、音楽の効用ではないのか。これは前回の手紙で紹介した『鑑識レコード倶楽部』の著者に対する僕からの返答でもある。マグナス・ミルズも実は僕が今ここでしているようにしてあの小説を書いたはずだ。音楽と音楽について語ることの間の断層を、一つの妄想に仕立てて実在させたはずだ。鈴木創士の『離人小説集』を見よ。彼はそこで何人もの作家になりきっている。なりきることで、なることなどできない事実にようやく形を与えている。内田百閒の「よう」で「ある」鈴木創士とはこれいかに。文との関係における作家の固有名とは??

妄想という分かりやすく強い言葉を使ったが、僕は実のところ、自分の「市田良彦=アンディ・ウォーホール」という恥知らずの等式を妄想とは思っていない。実際、演奏中の君たちもまたここでの僕のようにしていたはずだ。すなわち「言葉」を聞いて「言葉」を返す、ただそれだけのことを。返す「言葉」がただ「正しい」反応、期待される返事であるなら、バンド演奏など成立しない。出される音がつねに一定「間違っている」から、会話としての演奏は続き、演奏しながらイライラしたり、調子にノリすぎたりする──まさに妄想に閉じこもる──こともあっただろう? 観客をもう一人のバンドメンバーとして巻き込まずして、彼に妄想を抱かせずして、どこがライブよ。生物学の教えるところでは遺伝とは情報伝達であるそうだが、だとすれば「正しい」情報、ノイズを含まない情報しか伝達しないときには、子が親の完全コピーとして生まれるという気持ちの悪い事態にしかならないだろう。これもまたある科学史家の言葉を受け売りすれば、「正常」な人間は「正常にされた怪物」にすぎないそうな。その人いわく、生物はみな「間違える能力」を持っている。バンドのライブは、事後に持たれる感想も含め、それを実証している。

けれどもまた、そこが僕をいつも苛立たせるところなのだが、こういう「誤謬(エラー)の哲学」は結局のところ、「正常化」の包括的正当化にしかならず、妄想であれノイズであれ偶然であれ、それが「真」として炸裂する瞬間のことを捉え損なっている。言語と音楽はいずれもエラー含みの生命活動であるには違いないのだが、そのように見切ってしまえば、「EP-4=Velvet Underground」を幻視する「市田良彦=アンディ・ウォーホール」にはなんの面白みもない。「私は狂っている」と自白した人間は病院を退院させられる。それが分かっているならあなたはもう狂っていませんよ、と言われて。言語と音楽の間には越えられない壁があるから、越えること、妄想することに意味がある。バンド活動を続けること、言葉を綴ることに固有の「技術(パフォーマンス)」が生まれる。

君たちのEP-4に「真」なるノイズを炸裂させるためには、次はフィルターをかけない生声を登場させたまえ、と影のプロデューサーは言っている。そうだ、7月2日に生のアノニモ夫人(アルバムを聴いていない人はすぐに買ってください)にお会いできたことはこの上ない光栄でありました。

市田良彦