まとめ220328

2022年3月28日

鈴木創士 殿

創士に公開で手紙を書け、と佐藤薫から。あいつはもう最初の手紙を書いているらしい。おれはまだそれを読んでおらず、まさに今、おれからの最初の手紙を書きはじめている。レーベルのサイトを介したやり取りが、しばらく続くらしい。おれは今、いまさら鈴木に対して公開の場でなにを言えばいいのか、と途方に暮れている。まあいい、佐藤くんの掌の上でしばらく踊ってみるか。いかにも彼らしいというか、ミュージシャンにふさわしい発想だと思うので。音楽はこんなふうにしかはじまらんではないか。彼もおまえもミュージシャンなんだし、おれにもそうなれ、と言われたような気がしてちょっと嬉しい。もう40年以上前だが、ちょっとだけ歌手だったしな、おれも。

しかしおれは今やミュージシャンではないし、踊ってみるかと書いたものの、むろんダンサーでもない。おれはたんなる口舌の徒である。人前で話したり、顔の見えない人たちに向かって書くことを生業としている。そして長い間、そのことの意味をどこかから問い詰められていた気がしている。そのなかで他人から言われてもっとも嬉しかった言葉は、言葉が踊ってますね、ブルースしてますね、といった類のものだった。そのようなものでありたい、といつもどこかで意識していたのだろう。アーチストへのコンプレックス? いや違うな。音や身体による「表現」を特別視して、言葉を軽んじるような物言いには憐れみすら感じる。そんな姿勢では、自分の「作品」を「いいね!」稼ぎに貶めてしまうぞ、と。おれたち──とあえて記す──は「インフルエンサー」なのか?

創士くんよ、きみは小説家でもあるからよく知っていると思う。最初の一文はむつかしい。白紙の頁にどんな言葉を置く? なにをどう言ってもいい、そんな条件でいったいなにをどう書けというのか、と途方に暮れた経験がきっとあると思う。ステージの上でも同じだろう。最初にどの音をどう出す? 文学作品を書いたことのないおれでも、書き出しはいつもむつかしい。テーマというか、流れというか、全体として「言いたい」ことのイメージがすでにあっても、最初の一行はつねにむつかしい。世界をゼロから作るようなことを強いられるのだから。そんなことはできない相談と分かっていながら、そのようであると思い知らされた経験を胸のどこかに刻んでいる者として、「おれたち」とおれは記す。

最初のフレーズは、白い紙の上に書かれようが、無音の空間に放たれようが、現実世界においてはノイズだ。うるさくなくても騒音。まだ「意味」が分からんので。そのことを、おれは子どものころ、テレビでセロニアス・モンクを見て/聴いて思い知らされたように思う。たしか初来日のときで、佐良直美が司会をしていた。そのころのおれは、従姉妹の家で聞いた彼女のピアノとショパンのレコードにうっとりして通いはじめたピアノ教室を、あまりのスパルタに嫌気がさしてやめてしばらく経っていた。モンクのピアノは、こんな音、こんな弾き方があるのか、という衝撃だった。彼がソロで弾く「煙が目にしみる」が、おれの音楽経験を白紙に戻してしまった。まさに、ありえない! という感覚。リズムはずれているし、和音は和音なのかすらよく分からんし、なにより、手のひらがぺったんこ。指を立てろと散々矯正されてきた身としては、初心者の手の構えと指の動き。意味が分からないということ自体が意味をもって迫ってきた。ジャズというものに興味をそそられて、その後オスカー・ピーターソンのコンサートに行ったりもしたのだが、これがジャズならショパンでいいや、と思った記憶あり。

おれにクラシック・ピアノの経験がなかったら、モンクのピアノはノイズには聞こえなかったろう。はじまりのフレーズは「私」の経験を、経験したことの「ある」と「ない」がすれ違う陥没地帯に落とし込む。この手紙もそうだ。佐藤薫を含み、おれたちがすでにおれたちでなかったら、こんな企画は成立しなかった。けれども、いわゆる「素地」がすでにあったから、おれはまたしても、「いまさら」という白い紙の前に座らされている。はじまりはむつかしい、とはじめに言っておきたかった。文法学者なら「時制(テンス)」と呼ぶシステムの一つとしての「現在」の手前で、その「現在」を構成するはずの色々な「アスペクト(局面)」が行き交っている。『騒音書簡』ははじまり「つつある」、「まもなく」はじまる、「すでに」はじまっている、「やがて」過去になる。とすればこの陥没地帯にこそグルーヴはある。ということでこれがはじまり、第1回の手紙だよ。

市田良彦





2022年4月29日

親愛なる市田君

君の言うように「最初の一文はむつかしい」。それどころか、それを書いた後、振り返ると最初の一文は透明になっている。消えている。「最初の一文」としてそれを書いたのか確信が持てない。セロニアス・モンクの天才的な「びっこリズム」、あのノイズのようにはかっこよくできない。俺の場合、最初に画した文章全体の構想はほとんどズタズタになってしまう。「最初の一文」は「よそ」からやってくるからだ。君が言うように、書く場合だけでなく、演奏もそれに似ている。

フォノンの小磯幸恵から市田良彦と往復書簡をやれと言われたとき、君と議論を戦わせる光景が頭をよぎった。君は哲学者だから、哲学者と戦うのも悪くないと思ったが、今更の感もある(でも今がピカピカのサラになるかもな)。さっきまでアルトーの「アンドレ・ブルトンへの手紙」の翻訳ゲラを見直していたけど、アルトーのようにはとてもじゃないがやれない。つまり我々の「騒音書簡」は往復書簡でありながら、「最初の一文」にとどまり続けるかもしれない。これは漠然とした不安だろうか。佐藤薫がそれを画策したのか。ともあれ、ノイズは音楽になるのかという問い自体が無駄になるわけだ。あえてそう言っておきたい。俺は偽の古典主義者なんだ。

ところで、「空耳を潰す」という妙な言葉があるが、それはわざと聞こえないふりをすることらしい。EP-4の復活ライブ、二度目の代官山 Unit だったと思うが、リハの途中で佐藤薫がある録音を聞かせて俺にこう言った、「何分何秒目のこの音出して!」。イヤホンで何回か聴いた。えっ、聞こえないけど! 空耳をつぶしているわけじゃなかった。人間の耳はある数値の周波帯しか聞き取ることができないが、その範囲はイルカや鯨よりも狭い。しかしそういう問題ではない。ある低音(高音?)の音だけがどうしても聞き取れないのだ。耳鳴りのせいで耳が壊れたのか。爆音で片耳が聞こえなくなる人がいるが、それならわかりやすい。鼓膜が破れたのだろう。しかし俺の場合は、他の音は聞き取ることができるので、周波帯に極小の穴があいたとしか考えられない。それは音の穴なのか。これだってさまよえる「最初の一文」ではないか。

地球上には完全に無音の空間はないし、それを経験することはできない。物音ひとつしない夜の砂漠にいても自分の血が流れる音や心臓の鼓動が聞こえるからだ。生きている身体は音に満ちていて、完璧な静寂は身体の向こうにしかない。生命はうっとうしいだけでなく、騒々しい。だが鳥の囀りを聞いて、どうして自分が静寂のなかにいると感じるのだろう。完璧なかたちは無理でも、日常生活でも断片的な無音を聞いているということがあるのかもしれない。

音楽のテクスチャーにも幾つも穴があいているが、俺たちはいつも耳の穴から漏れる無音を聞くともなく聞いているに違いない。つまり書かれていない「最初の一文」を。君が言うように、現在を構成しかけのアスペクトは「ある」と「ない」のノイズ=無音からなっている。そうはいっても、ジョン・ケージ論者たちが言うように、たぶん「沈黙を聴く」とかそういうことではない。澄ました顔であの類いのことを言われるとイライラする。音には穴があり、音はその穴と対になっている。間断なく続く耳鳴りも、ノイズも、この穴を通って外に漏れ出ているのかもしれない。穴があることによる音と無音。君の言う「陥没地帯」だ。あるいは欠落による音楽的持続と沈黙。シュトックハウゼンならそこに音楽の構造と時間の問題を持ち出すのだろうが、たぶん的はずれだと思う。

それにしてもパンク時代の君のプロフィール写真は笑えるね。若者やな。

鈴木創士





2022年5月28日

鈴木創士兄、

おかしなことになっている。佐藤薫の仕掛けがさっそく効果を発揮している。貴兄からの2通目の手紙を読みながら、そう思わずにいられなかった。我々はそれぞれのn通目の手紙をφononのサイト上ではじめて読み、それぞれのn +1通目の手紙を互いに向けて書くことになっている。往復書簡であるにもかかわらず、二人の間を行き交う「ピンポン玉」がないのである。通常の往復書簡であれば、読者は「ピンポン玉」に二人の関係の実質とその変化を読み取り、そこに第三者として割って入ることができる。感想を持つだけでも、それを口にすれば関係への立派な介入だろう。そんな変化する一つの「実質」が構成されないようにする仕掛けを、我々のプロデューサーは騒音書簡に仕込んだ。

貴兄からの1通目の手紙を読み、僕はそれへの返信を、「問い」を投げるかたちで書いた。1通目にあった「ように」ってなによ。「ように」ってどういうことよ。それを問うことが返信としての僕の2通目の手紙だった。たった今、貴兄はもうその問いに対する返答を書いているはずだ。今日は貴兄のライブ本番の日だから、書き終えた手紙を一足先にもうサイト管理者に送っているかもしれない(今日は5月28日で原稿の締切は月末)。とにかく僕はまだその返答を読んでいない。ところが僕のすでに読んでいる/読んだ上でこの3通目を書かなくてはいけない貴兄からの手紙には、またしても、僕の目には肝心と見える箇所に「ように」とある。「アルトーのようにはとてもじゃないがやれない」。普段なら分かった気になってそのまま先に読み進めたろうこの一文に、僕の目は釘付けになる。前の手紙で「ように」ってなによ、と質問していたから。この「アルトーのように」ってどういうことよ、と僕はあらためて問わざるをえない。貴兄からの3通目、そこに答えが書いてあるはずの手紙を読まずに、僕は僕の3通目を書かなくてはいけない。貴兄の2通目は貴兄自身の1通目に僕のなかで送り返され、僕は自分の2通目に対する自分の反応込みで貴兄への3通目を書かなくてはいけない。僕にとって「ように」はまたなのだ。

フィードバックとはこういうことか。裸のラリーズを思い出さずにはいられない。前に進むことと後ろに帰ることを執拗に交差させる水谷孝のギターを。やりすぎの残響と異なる拍子の共存で、前に進みながら後ろに帰ることをこちらに強制する彼のいくつか(?)の曲を。それらは、この音はずっと昔から響いていたと思わせるほど、こちらを前に連れ戻す。いつはじまったか、いつ終わるか、という問いを無効にする。最近のEP-4の演奏(unit-Pではない)もその点では同じだ。

「アルトーのようにはとてもじゃないがやれない」と書いたすぐ後に、貴兄は続けた。「つまり、我々の騒音書簡は(…)『最初の一文』にとどまり続けるかもしれない」。この「つまり」に対し、僕は今、騒音書簡の仕掛けにより違和感を持たされている。つまり、我々の「はじまり」がフィードバック効果によりもう消されてしまった、いや「最初の一文」なんか実はない、と感じている。「アルトーのように」がどういうことかはさておき、貴兄の書く「つまり」から判断される「アルトーのように」我々は現にやっているではないか、むしろ「アルトーのよう」であるよう強いられているではないか、と。僕の「つまり」と貴兄の「つまり」はこの瞬間、反対を向いている。我々の間に一つのピンポン玉がない(二つある?)ゆえの事態だろう。

「きみは哲学者だから」と貴兄は言ってくれたが、その規定を受け入れるには僕は「哲学」に対し皮肉すぎる感情を抱いている。そんなもの、もう終わっているではないか。哲学はもう実在していない。ひょっとすると実在したことがなかったかもしれない、とさえ思っている。これはもちろん、他人の受け売りなのだが、僕はその他人──ミシェル・フーコーという──の診断に深く同意する。同意して、彼のように「言われたこと」を「記述する」ことだけをしていたいと思っている。「言われたこと」は「出された音」であってもいい。つまり、と貴兄にならって言えば、「言われた」内容、なにが「言われた」かにはあまり興味がなく(それは言った本人に聞け)、「言われたこと」/「出された音」を「物」扱いして、「物」としての効果を再現してみたい、と。2通目の手紙ではその効果が、「ように」ってなに?と問うことであり、この3通目では、手紙という二つの「物」の「間」──これも「物」の一つだろう──を「記述」してみたいと思った。

市田良彦





2022年6月28日

親愛なる市田君、

君が言うように哲学は存在しなかったかもしれないから、君は哲学者になったんだろ? なるほど哲学も文学もどうでもいいと僕も思っている。フーコーの有名な言葉、「別の仕方で思考すること」ができるなら……。だが今更「思考」なんて言っている奴のなかには(我々のことだけど)、破綻した哲学者と破綻した作家がいるだけだ。我々はそれを恥じたりしない。別の仕方でやることができれば、別の仕方で生きて考えることができれば、ほんとうにそれができるなら、思考のなかに「音楽」や素数の不可能な分布やフォトンが生じることを君もよく知っているだろ。

それは素晴らしい経験であるし、裏返しになった「政治的」光景だ。そのために、それが何らかの幾何学的射影であっても、この眺望、この観念にはあらゆるノイズの介入が必要なんだ。ノイズがなければうまくいかない。我々はキチガイではないが、まあ、この環境でまともでいることはできない。ちなみにノイズは「ピンポン球」ではないし、対位法ではない。聾のベートーヴェンだって、聾だからこそそのことを知っていた。晩年のベートーヴェンはある意味で凄腕だよ。聞くことが問題であっても、耳に聞こえている必要はない。森田潤が音楽造作の切片をさらにノイズと別のリズムで徹底的にお釈迦にして鼓膜の向こうへ飛ばしてしまうあのやり方を僕はとてもよく理解できる。たいしたもんだよ。森田氏は「上手く破綻している」んだ。言っとくけど、あそこにも「ピンポン球」はあり得ない。諦めたほうがいい。佐藤薫を含めて動かない「アスリート」である俺たちは卓球が得意じゃない。俺は全ての「卓球」を否定してもいいと思っている。全く違うことが生じているんだ。

たしかにこの書簡はスパイラル状になっているので、そろそろ俺も混乱してきた。この手紙の君の前回分だけを読み返せばいいのだけれど、他の手紙もつい見てしまう。読み返してしまう。するともうだめだ。三回目、四回目ですでに混乱しているのだから、先が思いやられる。誰が書いているのか。イタリアの画家ボッティチェリに倣って「私はこの手紙を混乱の中で書いた」とでも言っておけばいいのか。私は混乱を愛している、愛さざるを得ない、と。幻の「はじめの一文」にとどまることも、「はじめの一文」が消えてしまったことも、もう大差はない。我々はDNAに舞い戻ったのさ。DNAの二重螺旋は永久に交わらないけど、しかし二つの染色体の遺伝的な形質的特質は負の性向においてなぜか奇跡的に交わることがある。愛が生まれる。ピンポン球はいらないわけ。

「ように」の話を蒸し返すのは面白くないだろうけど、「嗅ぎ分ける」と書く場合、僕は「死にかけの犬のように嗅ぎ分ける」と直喩で書きたくなる。犬を登場させることは文の全体にとって違う効果を与える。死にかけの犬という実在(名前?)が加わる、ただそれだけのことにすぎないけど……。中世フランチェスコ派の神学者オッカムが禁じたことだが、俺はむやみに実体を増やしていることになるわけだ。手紙も実体だし、ピンポン球がなくても、実体は増える一方だ。これも佐藤の陰謀の一環だから仕方がない。その絵画的音楽的拡がりや増殖の中にどのようにこの身体があるのか、あり得るのか、書き手の身体的リズムの違いが、段差が、小さな事象を生み出すこともある。どう説明すればいいんだろうね。難しいな。「ように」が介在しようとしまいと、ひとつの「経験」が生起すればいい。偶然であれ必然的であれ、音楽がどんな音色を、どんな「ノイズ」を選択するのかと同じことだよ。何でもいいわけではない。これでは答えになってないな。

鈴木創士






2022年7月30日

鈴木創士へ、

なるべく毎回、宛名の書き方を変えようと思っているのだが、ついに呼び捨てか? いや、そういうわけではない。今回の手紙は「鈴木創士」と名乗っている作家・音楽家に宛てているつもりである。同じように、今回の手紙は流れ弾を「佐藤薫」にも被弾させようと思う。君たちの7月2日のライブは、考えてみれば僕にとっては、二人が同じステージに立つのを見るはじめての機会であった。40数年前に見たEP-4の舞台に、「鈴木創士」はすでにいなかった。

「佐藤薫」は、ヴォイスとして出演するかぎり、マイク片手に座っていてほしくなかった。「佐藤薫」にはトルソとして、舞台中央に突っ立っていてもらいたかった。Velvet Undergroundにおける「ニコ」のように(「ように」をめぐる考察は続いている…)。楽器奏者は美神に仕える従者であってほしかった。君たちのステージは40年前よりはるかにExploding Plastic Inevitableの一環であったわけで、舞台にいない僕はまるでウォーホールになったかの気分であった(ヴェルヴェッツのこの連続ライブについて初耳の方はぜひYouTubeで検索して視聴ください)。音的にも絵的にも、ベースを含む電子音群の厚い層──マーラーやベルリオーズばり──が「真ん中」を形成し、その「下」でユンが気持ちよさそうにポコポコとアナログに太鼓を鳴らしている。トランペットとギターは「上」から介入して、全体を柔らかいベッドにして飛び跳ねたりベッドそのものを裂いたりする。「真ん中」が「上」と「下」を遊ばせる。「上」と「下」から「真ん中」にしてもらっている。ウォーホール(影のプロデューサーだ!)として言わせてもらえば、この構図にヴォイスの位置はない。だから「佐藤薫」は座っていたのだろうが、しかしそれは裏を返せば、突っ立って全体の「外」に出てしまえば構図を鮮明にする役を果たすことができた、ということでもある。現代のMelody Laughter(これも初耳の方はYouTubeで聴いてください)「として/のように」、僕は君たちのステージを聴いた。今この瞬間も聴いている。

そう、これは僕の妄想である。しかし聞き手に妄想を綴らせることもまた、音楽の効用ではないのか。これは前回の手紙で紹介した『鑑識レコード倶楽部』の著者に対する僕からの返答でもある。マグナス・ミルズも実は僕が今ここでしているようにしてあの小説を書いたはずだ。音楽と音楽について語ることの間の断層を、一つの妄想に仕立てて実在させたはずだ。鈴木創士の『離人小説集』を見よ。彼はそこで何人もの作家になりきっている。なりきることで、なることなどできない事実にようやく形を与えている。内田百閒の「よう」で「ある」鈴木創士とはこれいかに。文との関係における作家の固有名とは??

妄想という分かりやすく強い言葉を使ったが、僕は実のところ、自分の「市田良彦=アンディ・ウォーホール」という恥知らずの等式を妄想とは思っていない。実際、演奏中の君たちもまたここでの僕のようにしていたはずだ。すなわち「言葉」を聞いて「言葉」を返す、ただそれだけのことを。返す「言葉」がただ「正しい」反応、期待される返事であるなら、バンド演奏など成立しない。出される音がつねに一定「間違っている」から、会話としての演奏は続き、演奏しながらイライラしたり、調子にノリすぎたりする──まさに妄想に閉じこもる──こともあっただろう? 観客をもう一人のバンドメンバーとして巻き込まずして、彼に妄想を抱かせずして、どこがライブよ。生物学の教えるところでは遺伝とは情報伝達であるそうだが、だとすれば「正しい」情報、ノイズを含まない情報しか伝達しないときには、子が親の完全コピーとして生まれるという気持ちの悪い事態にしかならないだろう。これもまたある科学史家の言葉を受け売りすれば、「正常」な人間は「正常にされた怪物」にすぎないそうな。その人いわく、生物はみな「間違える能力」を持っている。バンドのライブは、事後に持たれる感想も含め、それを実証している。

けれどもまた、そこが僕をいつも苛立たせるところなのだが、こういう「誤謬(エラー)の哲学」は結局のところ、「正常化」の包括的正当化にしかならず、妄想であれノイズであれ偶然であれ、それが「真」として炸裂する瞬間のことを捉え損なっている。言語と音楽はいずれもエラー含みの生命活動であるには違いないのだが、そのように見切ってしまえば、「EP-4=Velvet Underground」を幻視する「市田良彦=アンディ・ウォーホール」にはなんの面白みもない。「私は狂っている」と自白した人間は病院を退院させられる。それが分かっているならあなたはもう狂っていませんよ、と言われて。言語と音楽の間には越えられない壁があるから、越えること、妄想することに意味がある。バンド活動を続けること、言葉を綴ることに固有の「技術(パフォーマンス)」が生まれる。

君たちのEP-4に「真」なるノイズを炸裂させるためには、次はフィルターをかけない生声を登場させたまえ、と影のプロデューサーは言っている。そうだ、7月2日に生のアノニモ夫人(アルバムを聴いていない人はすぐに買ってください)にお会いできたことはこの上ない光栄でありました。

市田良彦






2022年8月29日

良彦さま

前回の手紙の君の意見に賛成だ。この前のEP-4 unitP+佐藤薫+山本精一の大阪ライブだが、佐藤薫には、シンセは横に置いて、ど真ん中のスタンドマイクの前に立っていてもらいたかった。昔のように。だけど何も昔のようにやりたいわけじゃない。我々は盆栽バンドではない。観賞用ではないし、黙って自分を愛でておけばいい対象にもなれるはずがない。盆栽にはないバンドの幾何学がある。君の言う通りだ(まあ、スタンドマイクについては、今度直接本人にそっと言うつもりでいる)。EP-4 unitPに佐藤が加わったのはこれで三回目くらいだったと思うが、特に今回、僕は初期のEP-4のライブを思い出していた。佐久間コウというオリジナル・メンバーが一緒に演奏したからだけじゃない(ユンはその頃いなかった)。音の面だけじゃない。別のことがある。演奏中に擦り切れた風景が現れた。分厚い雲、ヒステリックな隙間、暗い電球、一瞬の退屈、飛んだヒューズ、ノイズのなかの怒号(これは空耳だ)、ぱらぱらとしたダンス……。まあ、いいだろう。

で、EP-4にとっての「アンディ・ウォーホル」、つまり君のことだが、ウォーホルはそもそもヴェルベット・アンダーグラウンドにとっても、自分の分身イーディ・セジウィックにとっても、徹底的な「マゾヒスト」だった。自分で自分を一生懸命いじめ抜いていた。「毛皮のヴィーナス」という曲をルー・リードが書いたとき、念頭にあったのはウォーホルのことだったと僕は思っているが、それ以上の事態がウォーホル本人のなかでずっと起きていたんだ。君に即して言えば、君のサディズムは内側に向かうしかないことになる。イーディについては、彼女は歌もうたえないし楽器もできないから、ファクトリーで踊る以外に何もできなかったが、ほとんどヴェルベット・アンダーグラウンドのメンバーみたいなものだった。たしかにウォーホールはプロデューサーだった。だがプロデューサーといっても、彼はミイラを取りに行ったミイラだった。前に『分身入門』という本に書いたが、要するに「ヴェルベット・アンダーグラウンド共同体」というものがあったんだ。それが日本にまで及んでいたとしても、不思議じゃない。演奏面についていえば、誰もが微妙に演奏に加わらない。知らん顔で別のことを始める。別の音を聞いているようにして演奏に加わり、加わっている風でそれを否定して知らん顔をする。この点は「共同体」にとって重要だ。ある意味で高度な技術だよ。unitPのメンバーにはそれができる。僕は彼らを見て惚れぼれするとともに、彼らには感謝の念しかない。君がヴェルベット・アンダーグラウンドと言うとき、たぶんあの「共同体から離脱する共同体」を同時に考えているのだろうが、僕はそのことを君の本『ランシエール』から学んだ。余談だが、先日、神戸でunitPを演ったんだが、打ち込みデータの入ったホソイヒサトのコンピュータが本番一時間前に完全にお釈迦になった。データが全部飛んだ。というわけで、安井麻人のデータは残っていたものの、イヌイジュンのドラムが数曲加わったこともあって、ほとんど生演奏に近かったが、以上の点が変わることはなかった。

君がヴェルベット・アンダーグラウンドを引き合いにするとき、裸のラリーズが亡霊のように後ろに控えているように思う。ラリーズという存在はずっと好きだったが、初期結成メンバーである写真家のNさんやラリーズ関係者で僕の古い友人だったK君は知り合いなので、言いにくいところがある。その代わりといっては何だが、水谷孝のエピソードをひとつ。

大昔、銀座のイエナ書店に年上の友人と一緒に向かっていたときのことだ。イエナは洋書専門だったが、ろくに外国語もできないし金もない俺たちは外国雑誌や写真集や画集を立ち見するためだった。俺たちはぶらぶら歩いていた。前からやって来たサングラスの男とすれ違った(彼はたぶんイエナを出たばかりだった)。
僕が言った、
「いまの澁澤龍彦でしょ?」
「違うよ、ラリーズの水谷君だよ」
真夏の吸血鬼……。
そういえば、澁澤龍彦はあのくそ暑かった夏の盛りに革ジャンと革パンをはいたりしないはずだ。

鈴木創士







2022年9月29日

Cher Sô-si,

裸のラリーズなぁ。水谷さんが亡くなり色々と再発されているし、なにか書いておくべきタイミングなんだろうと思う。しかし、これは直接言ったかと思うが、水谷孝と裸のラリーズについて今なにかを、つまりタイミングを測って、書くことには強い抵抗がある。けれどもオフィシャル三作とOZ Daysが再発されて数ヶ月経ったし、少しはタイミングをずらしたかなと思い、きみの挑発(?)に乗ってみようかと思う。まず、抵抗ってなに? ということだが、それはことがまさに再発であることに関わる。アングラだったということだろ? 陽の当たらない「闇」に沈んでたってことだろ? 俺はなによりそれを認めたくない。お前もアングラでいろ、世の中に出てくるな、と言われているような気になる。不遜な同一視をまた──ウォーホールに続き──やっていると思われるだろうが、それくらい俺の中では「裸のラリーズ」は続いていた、ということ。たとえばまさにたった今、俺は数年間温め、さらに一年弱かけ、ある「本」を脱稿したところだ。その間、ラリーズの「音」はいつも耳の底にあった。あのフィードバック、構成、轟音と静けさに、俺はどこかでならおうとしていた。だから再発と聞いても今さらなのよ。タイミングでなにか書いたりしたら、まだ世に出ていない俺の新作まで、自分でアングラ扱いするような気がした。水谷さんはそんなことをしたか? 作品を出して演奏を続けて、おしまいだったろう? しかしまあ、追悼の意味で少しは思い出話をしてみようか。

OZ Daysを数年ぶりで聴いて思い出した。そういえば、これは俺が70年代末頃に、アレルギー反応を起こすぐらい嫌いになった類の音楽だった。「音」のせいではない。京大西部講堂のせいだ。水谷さんの京都時代の仲間に同志社出身の「小松ちゃん」という人がいた(故人)。同志社時代はたしか劇団を主宰していたのではなかったか。個人的な付き合いがあったわけではないのだが、彼は当時、西部講堂を代表する人格だったと言ってよく、その「小松ちゃん」が代表する西部講堂的なもの、ひいては京大と同志社の「全共闘」生き残り組の「カルチャー」ときっぱり縁を切りたい、と思ったわけ。そうなった事情はどこかで書いたことがあるし、「小松ちゃん」のせいでもなく、要するにローカルな「政治」絡みの話であるから、ここではどうでもいい。とにかく、とある事件のようなもののせいで、20代前半だった俺は、10代の頃から馴染んでいた京都ローカルのアングラ的なもの一切に嫌悪感を抱くようになった。「裸のラリーズ」はそれを「音」において、あるいは「音」により、代表していた。二回しか生で聴いたことがなかったのにな。でもOZ Daysのような音イメージとして、バンド周辺の逸話が醸すアウラとともに、はっきり記憶に刻まれている。

ところがよ、90年代前半をフランスで過ごして帰ってきてみると、アングラを旨としレコードなんか出さないはずのラリーズが、三枚もアルバムを出している。そしてその中の一枚、77年のライブは、もう昔となんの関係もない! 聴いてみようと思ったのは、三年半の外国暮らしでこちらも昔日の「垢」のようなものが取れ、純粋な好奇心からであったと思う。水谷孝は彼なりに模索を続け、変化し、昔の「音」を自ら突き抜けていたのだ、と、67年からの演奏がまとめて聴ける三枚は俺に知らしめた。彼はもう「西部講堂」の人間ではない! その後、いわゆるD音源なるものが出回りはじめると、その思いはますます強くなった。2006-7年頃だったか、俺が当時編集委員の一人だったフランスの雑誌でノイズ・ミュージックの特集をやろうということになった。その筋の好き者であった数人の間で色々情報交換をすると、彼らは「裸のラリーズ」──仏名Les Ralliez Dénudés──の名前は知っている。ノイズ・電子音楽のアンソロジー(An Anthology of Noise & Electronic Music)に77Liveから一曲が収録されていたかららしい。それで随分と音源をCDに焼いて送った。彼らは狂喜していたよ。あちこち配ったそうな。当時すでに数巻出ていたそのアンソロジーと彼らとの議論のおかげもあり、俺はデルタ・ブルースとシュトックハウゼンを繋ぐトンデモな「歴史」を特集に書くことができた。それが雛形になって、日本語でも久しぶりに本が書けた。以降、俺の中では裸のラリーズと水谷孝の名前は、「音」だけでなく「活動/仕事」の名前でもある。いつの間にか「圏」──文化圏であれ思想圏であれ世代であれなんであれ──を飛び出すこと! 轟音グルーヴは壁を壊す。

亡くなった大里俊晴(元「ガセネタ」)と話したことがある。どうして「音」はだんだん大きくなりたがるんだろうね。彼とは俺が件の日本語の音楽論っぽい本を書いた後、一緒に仕事をするはずだったが、本の完成を待たずに彼は病に斃れた。大きい音でもラリーズは「ノイズ」じゃないよ、と大里くんは強調していた。ライブハウスでバイトしてたとき、ラリーズの裏方をやったそうなんだが、ものすごく高価なシールドを使っていて驚いたとか。「ノイズ」を極限まで排除するためのシールド。なにをコントロールしたかったんだろうね。

市田良彦





2022年10月30日

Mon cher ami,

友人同士の手紙のやりとりというのは、そもそも変な感じがするし、恣意的にやればやるほど、やりにくいところがあるのもわかってきた。まあ、嫌いな奴との往復書簡というのも考えにくいが、僕と君があらためて逸脱気味に何を想い、書いているのかちょっと漠然としてくることもある。書いているのは別の奴ではないけれど、君と会っても、電話で話しても、示し合わせたわけではないのに、お互い事務的事項以外にこの往復書簡について何も話さないというのは、我ながらなかなか興味深いと感じる。何しろここで事は螺旋状に起きているのだから、いつも明後日にいるような所在ない感じがしないでもないが、「書く」ことの新しい形式を経験している感じがする、とまで言えば大げさかな。もしかしたらこの企画は実にいいものかもしれないと考えたりもできるが、これに佐藤がからんでいるのだから、余計に事態はややこしくなっている。

君も知ってのとおり、僕は裸のラリーズの水谷孝氏について書く予定があって、ここであれこれ意見を言っちゃうと原稿が書けなくなりそうなのでやめておくが、京大西部講堂をとりまく状況に対する君の反発はなんとなくわかっていたよ。リスナーとしての君とラリーズの抜きさしならぬ、しかし独特の関係と非関係は君の『ランシエール』を読んだときにかなりはっきりとわかった。あれを読んだとき、僕の知っている限りでの君のかつての印象までもが思い起こされ、ふむ、なるほどね、そういうことなのね、と思ったのだから、僕は良い読者だったということになる。「“全共闘” 生き残り組の “カルチャー” ときっぱり縁を切りたい」と君が思ったいきさつは詳しく知らなかったが、君は京大西部講堂に関わっていたのだから、たとえそれが具体的に「ローカルな政治」に発していたとしても、ローカルな問題とは必ずしも言い切れないところがあると僕は思う。そもそもかく言う「カルチャー」自体が曲者だからだ。それに60年代、70年代のカルチャー政治に反作用するように、「あのフィードバック、構成、轟音と静けさ」のなかでラリーズが変化したのだということ、これまた必ずしもローカル性を示すものではないよな。おっと、ラリーズのことはこの辺でやめておく。

いつだったか、あまり誰も西部講堂のことを気にしなくなった時節、西部講堂はどうなるのか、と問いかけた僕に君がこう答えたのを覚えているよね。「西部講堂か? 最後にラリーズのライブをやって、その後は燃やしてしまえばいい」! つまり60年代70年代アングラは燃やしてしまえばいい! 当時の政治とその他のものとの関わりは、非常に複雑な問題を孕んでいるようにみんな言っていたけれど、案外そうではなかったのかもしれない。例えば、今思い出したから言うが、ブリジット・フォンテーヌは「ウッドストック」的なものは全部ダメみたいに当時からきっぱり言っていたけれど、すでにその頃からそのような微妙なニュアンスを嗅ぎ分けて、同族に対する違和をはっきり感じていた人は少なからずいたことになる(新宿フーテン族のなかにはヒッピーだけじゃなく、日本型ビートニクもいた)。

何を隠そう、僕もそうだった。見るべきもの、感じるべきもの、体験すべきもの、行くべきところ、それに仕方なく行ってしまうところはたぶん連中と大差なく、同じようなものだったが、ガキだった僕は何度「つまらない、こんなのは違う」と思ったことか! そのことしか考えていなかった時期もあるくらいだ。それはほとんどかつての僕の行動規範だった。この書簡で自分のことを「偽の古典主義者」などと言ったのは、この感触と無関係ではなかったというか、まさにそれに端を発している! 人間がまるくなって、今じゃそのことを忘れてしまいがちだけれど、一見するとそれなりにアングラの知人ばかりなのに、自分はアングラではないということ……。

今更ながらだけれど、西部講堂がかつて面白い場所だったことは認めるよ。まだ若かった僕は一人の観客でしかなかったのだから、それなりに気楽なものだった。三高時代からのあの古い瓦屋根、とつぜん屋根に描かれたオリオンの三つ星、ステージで何が行われていたにしろ、前の土の広場に雨が降ると、汚い水溜りができていた……。ヘルメットの学生たちもいたが、僕は年上の彼らを無視した。あの治外法権の場所でヘルメットをかぶる必要はなかった。

何が起きていたのか細かいことはほとんど忘れてしまったが、今でも覚えているのは、土方巽の舞踏、村八分、ラリーズ、二人だけのストラングラーズ、トーキング・ヘッズ、ケネス・アンガー映画祭、フランク・ザッパ……。近いところでは日本赤軍関係のイベントもあったが、まあ、それはいいだろう。

鈴木創士





2022年11月29日

Sô-siくん、

「ラリーズのコンサートをやって西部講堂を燃やす」。あの放言は俺としてはものごとの「終わり」という問題に関わっていた。この「騒音書簡」の最初のほうで書き、ある意味ずっとそのフィードバックのなかで君とのやり取りを続けてきた「はじまり」という主題とは対極の位置にある問いである。はじまってしまったものをどう終わらせるか。現役で西部講堂の運営に関わっている人たちには申し訳ないし、間接的にしかあそこに関わったことのない俺が言うのも口幅ったいが、あのとき俺はたしかに「西部講堂」はもう積極的に幕引きを図るべきだと思っていた。自ら幕を下ろす、それだけが西部講堂を「西部講堂」足らしめるのではないか、と。つまり「西部講堂」は俺の幻想の中にある何かの別名にすぎない。

その何かはけっして「全共闘カルチャー」ではない。そんなカルチャーは俺の中でさえとうに終わっていた。「小松ちゃん」の盟友であったT氏主催の大駱駝艦舞踏公演を事前に恫喝をかけて潰したときに。公演は場所を移して行われ、T氏も白塗り姿で登場したらしいが、俺としては「ザマよ、これで西部講堂を守った」という気分であった。その「守った西部講堂」で行われる最終公演が「ラリーズのコンサート」であり、そこにはもう1人出演者がいるはずであった。田中泯である。彼は西部講堂で踊ったことはなかったのだが、かつて京大の正門前にほぼ全裸で登場して踊った田中泯を、炎と煙に包まれる講堂の屋根に上らせ、ギターの轟音に包んで踊らせ二つの「裸」を合体させることが、あの放言の正確な中身である。美しいではないか、「裸のラリーズ」と「裸の田中泯」が数十年の時を越えて一つになれば! そういうつもりであった。

この話は泯さん本人にもしたことがある。彼は乗ってくれた。江戸火消しの末裔たちに頼んで消火も万全という態勢を整えればできるんじゃないか、と。さすが! と思い、実現するなら全力で、つまり自分が主催者になって全責任を引き受けるつもりで、京都残留の知人たちに話したら一笑に付された。まあそうだよな、曲がりなりにも西部講堂は続いているんだから、と俺もほどなくその話を忘れた。ようやく世間というものに気づいた感じ。どうもこういうズレかたを俺はいつもしている。

しかし何の「終わり」だったのだろう。今もってよく分からない。「はじまり」の難しさと呼応していることだけはたしかだろう。音楽を、小説を、どうはじめ、どう終わらせるのか。物書きの端くれの実感としては、うまく終わったと思えるときにようやく、はじまりはあれでよかったのだと安心できる。「西部講堂」のうまい終わらせ方を夢想してしまった俺は、俺にとっての一つのはじまりとしての「西部講堂」に、「よし」と言いたかったのであろう。ある意味すでに終わっていなければ、はじまりは「ない」。終わりがはじまりをあらしめる。

また哲学者ぶって高踏な一般論に逃げやがって、と君にも読者にも眉を顰めさせるかもしれないが、今回この話をしておこうという気になったのには卑近なきっかけもある。まもなく出版されるからもう書いていいと思うが、俺は今、岡崎次郎の『マルクスに凭(もた)れて』という古い本(1983年刊)の再版計画に足を突っ込んでいる。君は知っていたようだが、ここの読者はほぼ知らんと思うので少しだけ紹介しておくと、夫人と一緒にこの世から姿を消した『資本論』翻訳者である。海に身を投げて自死したはずなのだが、遺体が発見されていないため高校の同窓会名簿に「旅行中」といまだに (?) 記されている人である。その再版本に「あとがき」を書かねばならず、人生の終わらせ方について何をどう言えばいいかと頭を悩まされている。それであの放言にまで連想が飛んでしまった。そして思った。そんな美しいものじゃないぞ、「終わり」は。ならば「はじまり」もまた。彼にはあの終わらせ方を上質の悲劇と思わせる世間的には気の毒と言うほかない事情もあったのだが(知らない方は彼の名前をググってください)、この遺書たる自伝を虚心坦懐な目で読むと、「気の毒」の裏から爆笑ものの「トンデモ」な実情が見えてくる。なに、彼は「マルクス主義」で1980年代初頭までに少なくとも2億円ぐらい稼いでいたのである。給料とは別にである。ほとんど残っていないと記されたその金はどこに消えた? 革命運動に注ぎ込むなんてことをしていなかったことだけはたしかである。健康診断を受けて梅毒に罹っていないことが判明してホッとした、なんて記述もあるところからも真相は推して知るべしだろう。自伝出版後の調査によると、夫人との死出の旅も、東京から本州西端を回って大阪まですべてタクシー移動。なんじゃい、この「自死」は。暢気なニヒリストに笑われている気分である。「はじまり」のためにうまい「終わり」を考える気など完全に失せてしまった。

幸い「騒音書簡」については終わらせ方を悩む必要がない。それは佐藤薫に丸投げしている。ひとつよろしく。

市田良彦





2022年12月31日

市田お兄さん

終わりはなかなか来ないようだ。サド侯爵の言い方を借りれば、共和主義者たらんとせば、終わりまであと一歩だ。今日は大晦日だし、世界の終わりが元旦の時報とともにやって来るならすっきりするだろうが、そうはならないことは誰もが知っている。終わりは来ない。客観性がもめている。誰が何を望もうと、それが主観の望むところであるとしても、そんなことは何の役にも立たない。でも世間並に年齢のこともあるし、僕は不老不死などごめんこうむりたい。不老不死を求める仙人や権力者、はたまたそれを夢見る科学も馬鹿だと前々から思っていた。永久に生き続けるなんて、永遠に終わらないなんて、苦痛であるに決まっている。これはごく一般的な考え方である。

君も知ってのとおり、今年、三回目のコロナ・ワクチンで持病の心臓病がひどく悪化した。それまではそれなりに悪いままではあったが、現状維持していたのだから、ワクチンのせいとしか考えられない。春から夏にかけてはひどい状態で、これはいつもと違うぞと直感した。死の気配だ。そいつが漂い始めた。来たな、と思ったし、事務的なことはある程度かたづけておこうと本気で考えた。急死後緊急連絡先とかね。死ぬのは怖くない。自分ではそう思っている。今回は、もうそろそろいいや、と思った。ほんとうだ。ある種のすがすがしささえ感じた。ところが終わりは来なかった。らしい。心臓はかろうじて持ち直したようだ。教訓としては、身体が思考や意識、等々、その他の余計なものとは無関係に生きていることは間違いないといえる。「ウィーンの危機」のさなかにカール・クラウスは、「物質によって生きているものは、物質より前に死ぬ。言語のなかで生きているものは、言語とともに生きる」と言っていたが、そういう高尚なことではない。

始めたものを終わらせることができないことがあるらしい。すでに終わったことを知らなかっただけなのか。勝手に始まったとしても、始まりはいたるところにあるじゃないか。始まりっぱなし、始まりだらけだ。やめてくれ! 始まりがあれば、とりあえず終わりがあるはずなのだが、それともこれは一種の度し難い観念論にとらわれているということなのか。だけどうまい「終わり方」というのは主体の問題をはらんでいるらしい。死ぬのはいつも他人ばかり、ということじゃない。死ぬのは自分ひとりだ。だけど誰にとっての上手な終わり方なのか。人生訓について喋りたいわけじゃない。『資本論』の翻訳者、君の前回書簡の岡崎次郎についての話は面白かったが、考えさせられるものを含んでいた。印税で二億円稼いだ「呑気なニヒリスト」は最後は心中でけりをつけたのだから、僕としては、彼はまだ「旅行中」なのではないかとも思った。

ずいぶん前、大里俊晴の『ガセネタの荒野』という本の書評したことがある。当時その本から引用した大里君の素敵な文章を再び引用したくなったので、ここに引用する。若い読者のために言っておくと、故・大里俊晴は『マイナー音楽のために』という該博でパラノイアックな本も書いた立派な音楽学者だったが、ガセネタというバンドのメンバーでもあった。山崎春美たちとやっていたバンドです。

「僕らの演奏にはエンディングしかなかった。エンディング。(……)終わること。終わり続けること。そして、僕らは、エンディングに突入してから、終わることが出来なかった。エンディングとは、終わりであり、始まりであり、中間であり、また終わりでもあった。僕は、もう終わりだ、いま終わりだ、と思いながら演奏した。だが、終わることが出来なかった。終わりはやってこなかった。どうやって終わるのだろう。どうやったら終わることが出来るのだろう。僕は、いつもそう思いながら演奏した。エンディング。僕らは、いつまでも終わり続けていた。」

終わり続けること……。しんどいことだ。美しくない、と身のほど知らずの文句を言う人がいるかもしれない。でも、それもありかもね。

鈴木創士