2022年9月29日
Cher Sô-si,
裸のラリーズなぁ。水谷さんが亡くなり色々と再発されているし、なにか書いておくべきタイミングなんだろうと思う。しかし、これは直接言ったかと思うが、水谷孝と裸のラリーズについて今なにかを、つまりタイミングを測って、書くことには強い抵抗がある。けれどもオフィシャル三作とOZ Daysが再発されて数ヶ月経ったし、少しはタイミングをずらしたかなと思い、きみの挑発(?)に乗ってみようかと思う。まず、抵抗ってなに? ということだが、それはことがまさに再発であることに関わる。アングラだったということだろ? 陽の当たらない「闇」に沈んでたってことだろ? 俺はなによりそれを認めたくない。お前もアングラでいろ、世の中に出てくるな、と言われているような気になる。不遜な同一視をまた──ウォーホールに続き──やっていると思われるだろうが、それくらい俺の中では「裸のラリーズ」は続いていた、ということ。たとえばまさにたった今、俺は数年間温め、さらに一年弱かけ、ある「本」を脱稿したところだ。その間、ラリーズの「音」はいつも耳の底にあった。あのフィードバック、構成、轟音と静けさに、俺はどこかでならおうとしていた。だから再発と聞いても今さらなのよ。タイミングでなにか書いたりしたら、まだ世に出ていない俺の新作まで、自分でアングラ扱いするような気がした。水谷さんはそんなことをしたか? 作品を出して演奏を続けて、おしまいだったろう? しかしまあ、追悼の意味で少しは思い出話をしてみようか。
OZ Daysを数年ぶりで聴いて思い出した。そういえば、これは俺が70年代末頃に、アレルギー反応を起こすぐらい嫌いになった類の音楽だった。「音」のせいではない。京大西部講堂のせいだ。水谷さんの京都時代の仲間に同志社出身の「小松ちゃん」という人がいた(故人)。同志社時代はたしか劇団を主宰していたのではなかったか。個人的な付き合いがあったわけではないのだが、彼は当時、西部講堂を代表する人格だったと言ってよく、その「小松ちゃん」が代表する西部講堂的なもの、ひいては京大と同志社の「全共闘」生き残り組の「カルチャー」ときっぱり縁を切りたい、と思ったわけ。そうなった事情はどこかで書いたことがあるし、「小松ちゃん」のせいでもなく、要するにローカルな「政治」絡みの話であるから、ここではどうでもいい。とにかく、とある事件のようなもののせいで、20代前半だった俺は、10代の頃から馴染んでいた京都ローカルのアングラ的なもの一切に嫌悪感を抱くようになった。「裸のラリーズ」はそれを「音」において、あるいは「音」により、代表していた。二回しか生で聴いたことがなかったのにな。でもOZ Daysのような音イメージとして、バンド周辺の逸話が醸すアウラとともに、はっきり記憶に刻まれている。
ところがよ、90年代前半をフランスで過ごして帰ってきてみると、アングラを旨としレコードなんか出さないはずのラリーズが、三枚もアルバムを出している。そしてその中の一枚、77年のライブは、もう昔となんの関係もない! 聴いてみようと思ったのは、三年半の外国暮らしでこちらも昔日の「垢」のようなものが取れ、純粋な好奇心からであったと思う。水谷孝は彼なりに模索を続け、変化し、昔の「音」を自ら突き抜けていたのだ、と、67年からの演奏がまとめて聴ける三枚は俺に知らしめた。彼はもう「西部講堂」の人間ではない! その後、いわゆるD音源なるものが出回りはじめると、その思いはますます強くなった。2006-7年頃だったか、俺が当時編集委員の一人だったフランスの雑誌でノイズ・ミュージックの特集をやろうということになった。その筋の好き者であった数人の間で色々情報交換をすると、彼らは「裸のラリーズ」──仏名Les Ralliez Dénudés──の名前は知っている。ノイズ・電子音楽のアンソロジー(An Anthology of Noise & Electronic Music)に77Liveから一曲が収録されていたかららしい。それで随分と音源をCDに焼いて送った。彼らは狂喜していたよ。あちこち配ったそうな。当時すでに数巻出ていたそのアンソロジーと彼らとの議論のおかげもあり、俺はデルタ・ブルースとシュトックハウゼンを繋ぐトンデモな「歴史」を特集に書くことができた。それが雛形になって、日本語でも久しぶりに本が書けた。以降、俺の中では裸のラリーズと水谷孝の名前は、「音」だけでなく「活動/仕事」の名前でもある。いつの間にか「圏」──文化圏であれ思想圏であれ世代であれなんであれ──を飛び出すこと! 轟音グルーヴは壁を壊す。
亡くなった大里俊晴(元「ガセネタ」)と話したことがある。どうして「音」はだんだん大きくなりたがるんだろうね。彼とは俺が件の日本語の音楽論っぽい本を書いた後、一緒に仕事をするはずだったが、本の完成を待たずに彼は病に斃れた。大きい音でもラリーズは「ノイズ」じゃないよ、と大里くんは強調していた。ライブハウスでバイトしてたとき、ラリーズの裏方をやったそうなんだが、ものすごく高価なシールドを使っていて驚いたとか。「ノイズ」を極限まで排除するためのシールド。なにをコントロールしたかったんだろうね。
OZ Daysを数年ぶりで聴いて思い出した。そういえば、これは俺が70年代末頃に、アレルギー反応を起こすぐらい嫌いになった類の音楽だった。「音」のせいではない。京大西部講堂のせいだ。水谷さんの京都時代の仲間に同志社出身の「小松ちゃん」という人がいた(故人)。同志社時代はたしか劇団を主宰していたのではなかったか。個人的な付き合いがあったわけではないのだが、彼は当時、西部講堂を代表する人格だったと言ってよく、その「小松ちゃん」が代表する西部講堂的なもの、ひいては京大と同志社の「全共闘」生き残り組の「カルチャー」ときっぱり縁を切りたい、と思ったわけ。そうなった事情はどこかで書いたことがあるし、「小松ちゃん」のせいでもなく、要するにローカルな「政治」絡みの話であるから、ここではどうでもいい。とにかく、とある事件のようなもののせいで、20代前半だった俺は、10代の頃から馴染んでいた京都ローカルのアングラ的なもの一切に嫌悪感を抱くようになった。「裸のラリーズ」はそれを「音」において、あるいは「音」により、代表していた。二回しか生で聴いたことがなかったのにな。でもOZ Daysのような音イメージとして、バンド周辺の逸話が醸すアウラとともに、はっきり記憶に刻まれている。
ところがよ、90年代前半をフランスで過ごして帰ってきてみると、アングラを旨としレコードなんか出さないはずのラリーズが、三枚もアルバムを出している。そしてその中の一枚、77年のライブは、もう昔となんの関係もない! 聴いてみようと思ったのは、三年半の外国暮らしでこちらも昔日の「垢」のようなものが取れ、純粋な好奇心からであったと思う。水谷孝は彼なりに模索を続け、変化し、昔の「音」を自ら突き抜けていたのだ、と、67年からの演奏がまとめて聴ける三枚は俺に知らしめた。彼はもう「西部講堂」の人間ではない! その後、いわゆるD音源なるものが出回りはじめると、その思いはますます強くなった。2006-7年頃だったか、俺が当時編集委員の一人だったフランスの雑誌でノイズ・ミュージックの特集をやろうということになった。その筋の好き者であった数人の間で色々情報交換をすると、彼らは「裸のラリーズ」──仏名Les Ralliez Dénudés──の名前は知っている。ノイズ・電子音楽のアンソロジー(An Anthology of Noise & Electronic Music)に77Liveから一曲が収録されていたかららしい。それで随分と音源をCDに焼いて送った。彼らは狂喜していたよ。あちこち配ったそうな。当時すでに数巻出ていたそのアンソロジーと彼らとの議論のおかげもあり、俺はデルタ・ブルースとシュトックハウゼンを繋ぐトンデモな「歴史」を特集に書くことができた。それが雛形になって、日本語でも久しぶりに本が書けた。以降、俺の中では裸のラリーズと水谷孝の名前は、「音」だけでなく「活動/仕事」の名前でもある。いつの間にか「圏」──文化圏であれ思想圏であれ世代であれなんであれ──を飛び出すこと! 轟音グルーヴは壁を壊す。
亡くなった大里俊晴(元「ガセネタ」)と話したことがある。どうして「音」はだんだん大きくなりたがるんだろうね。彼とは俺が件の日本語の音楽論っぽい本を書いた後、一緒に仕事をするはずだったが、本の完成を待たずに彼は病に斃れた。大きい音でもラリーズは「ノイズ」じゃないよ、と大里くんは強調していた。ライブハウスでバイトしてたとき、ラリーズの裏方をやったそうなんだが、ものすごく高価なシールドを使っていて驚いたとか。「ノイズ」を極限まで排除するためのシールド。なにをコントロールしたかったんだろうね。