2022年11月29日
Sô-siくん、
「ラリーズのコンサートをやって西部講堂を燃やす」。あの放言は俺としてはものごとの「終わり」という問題に関わっていた。この「騒音書簡」の最初のほうで書き、ある意味ずっとそのフィードバックのなかで君とのやり取りを続けてきた「はじまり」という主題とは対極の位置にある問いである。はじまってしまったものをどう終わらせるか。現役で西部講堂の運営に関わっている人たちには申し訳ないし、間接的にしかあそこに関わったことのない俺が言うのも口幅ったいが、あのとき俺はたしかに「西部講堂」はもう積極的に幕引きを図るべきだと思っていた。自ら幕を下ろす、それだけが西部講堂を「西部講堂」足らしめるのではないか、と。つまり「西部講堂」は俺の幻想の中にある何かの別名にすぎない。
その何かはけっして「全共闘カルチャー」ではない。そんなカルチャーは俺の中でさえとうに終わっていた。「小松ちゃん」の盟友であったT氏主催の大駱駝艦舞踏公演を事前に恫喝をかけて潰したときに。公演は場所を移して行われ、T氏も白塗り姿で登場したらしいが、俺としては「ザマよ、これで西部講堂を守った」という気分であった。その「守った西部講堂」で行われる最終公演が「ラリーズのコンサート」であり、そこにはもう1人出演者がいるはずであった。田中泯である。彼は西部講堂で踊ったことはなかったのだが、かつて京大の正門前にほぼ全裸で登場して踊った田中泯を、炎と煙に包まれる講堂の屋根に上らせ、ギターの轟音に包んで踊らせ二つの「裸」を合体させることが、あの放言の正確な中身である。美しいではないか、「裸のラリーズ」と「裸の田中泯」が数十年の時を越えて一つになれば! そういうつもりであった。
この話は泯さん本人にもしたことがある。彼は乗ってくれた。江戸火消しの末裔たちに頼んで消火も万全という態勢を整えればできるんじゃないか、と。さすが! と思い、実現するなら全力で、つまり自分が主催者になって全責任を引き受けるつもりで、京都残留の知人たちに話したら一笑に付された。まあそうだよな、曲がりなりにも西部講堂は続いているんだから、と俺もほどなくその話を忘れた。ようやく世間というものに気づいた感じ。どうもこういうズレかたを俺はいつもしている。
しかし何の「終わり」だったのだろう。今もってよく分からない。「はじまり」の難しさと呼応していることだけはたしかだろう。音楽を、小説を、どうはじめ、どう終わらせるのか。物書きの端くれの実感としては、うまく終わったと思えるときにようやく、はじまりはあれでよかったのだと安心できる。「西部講堂」のうまい終わらせ方を夢想してしまった俺は、俺にとっての一つのはじまりとしての「西部講堂」に、「よし」と言いたかったのであろう。ある意味すでに終わっていなければ、はじまりは「ない」。終わりがはじまりをあらしめる。
また哲学者ぶって高踏な一般論に逃げやがって、と君にも読者にも眉を顰めさせるかもしれないが、今回この話をしておこうという気になったのには卑近なきっかけもある。まもなく出版されるからもう書いていいと思うが、俺は今、岡崎次郎の『マルクスに凭(もた)れて』という古い本(1983年刊)の再版計画に足を突っ込んでいる。君は知っていたようだが、ここの読者はほぼ知らんと思うので少しだけ紹介しておくと、夫人と一緒にこの世から姿を消した『資本論』翻訳者である。海に身を投げて自死したはずなのだが、遺体が発見されていないため高校の同窓会名簿に「旅行中」といまだに (?) 記されている人である。その再版本に「あとがき」を書かねばならず、人生の終わらせ方について何をどう言えばいいかと頭を悩まされている。それであの放言にまで連想が飛んでしまった。そして思った。そんな美しいものじゃないぞ、「終わり」は。ならば「はじまり」もまた。彼にはあの終わらせ方を上質の悲劇と思わせる世間的には気の毒と言うほかない事情もあったのだが(知らない方は彼の名前をググってください)、この遺書たる自伝を虚心坦懐な目で読むと、「気の毒」の裏から爆笑ものの「トンデモ」な実情が見えてくる。なに、彼は「マルクス主義」で1980年代初頭までに少なくとも2億円ぐらい稼いでいたのである。給料とは別にである。ほとんど残っていないと記されたその金はどこに消えた? 革命運動に注ぎ込むなんてことをしていなかったことだけはたしかである。健康診断を受けて梅毒に罹っていないことが判明してホッとした、なんて記述もあるところからも真相は推して知るべしだろう。自伝出版後の調査によると、夫人との死出の旅も、東京から本州西端を回って大阪まですべてタクシー移動。なんじゃい、この「自死」は。暢気なニヒリストに笑われている気分である。「はじまり」のためにうまい「終わり」を考える気など完全に失せてしまった。
幸い「騒音書簡」については終わらせ方を悩む必要がない。それは佐藤薫に丸投げしている。ひとつよろしく。
その何かはけっして「全共闘カルチャー」ではない。そんなカルチャーは俺の中でさえとうに終わっていた。「小松ちゃん」の盟友であったT氏主催の大駱駝艦舞踏公演を事前に恫喝をかけて潰したときに。公演は場所を移して行われ、T氏も白塗り姿で登場したらしいが、俺としては「ザマよ、これで西部講堂を守った」という気分であった。その「守った西部講堂」で行われる最終公演が「ラリーズのコンサート」であり、そこにはもう1人出演者がいるはずであった。田中泯である。彼は西部講堂で踊ったことはなかったのだが、かつて京大の正門前にほぼ全裸で登場して踊った田中泯を、炎と煙に包まれる講堂の屋根に上らせ、ギターの轟音に包んで踊らせ二つの「裸」を合体させることが、あの放言の正確な中身である。美しいではないか、「裸のラリーズ」と「裸の田中泯」が数十年の時を越えて一つになれば! そういうつもりであった。
この話は泯さん本人にもしたことがある。彼は乗ってくれた。江戸火消しの末裔たちに頼んで消火も万全という態勢を整えればできるんじゃないか、と。さすが! と思い、実現するなら全力で、つまり自分が主催者になって全責任を引き受けるつもりで、京都残留の知人たちに話したら一笑に付された。まあそうだよな、曲がりなりにも西部講堂は続いているんだから、と俺もほどなくその話を忘れた。ようやく世間というものに気づいた感じ。どうもこういうズレかたを俺はいつもしている。
しかし何の「終わり」だったのだろう。今もってよく分からない。「はじまり」の難しさと呼応していることだけはたしかだろう。音楽を、小説を、どうはじめ、どう終わらせるのか。物書きの端くれの実感としては、うまく終わったと思えるときにようやく、はじまりはあれでよかったのだと安心できる。「西部講堂」のうまい終わらせ方を夢想してしまった俺は、俺にとっての一つのはじまりとしての「西部講堂」に、「よし」と言いたかったのであろう。ある意味すでに終わっていなければ、はじまりは「ない」。終わりがはじまりをあらしめる。
また哲学者ぶって高踏な一般論に逃げやがって、と君にも読者にも眉を顰めさせるかもしれないが、今回この話をしておこうという気になったのには卑近なきっかけもある。まもなく出版されるからもう書いていいと思うが、俺は今、岡崎次郎の『マルクスに凭(もた)れて』という古い本(1983年刊)の再版計画に足を突っ込んでいる。君は知っていたようだが、ここの読者はほぼ知らんと思うので少しだけ紹介しておくと、夫人と一緒にこの世から姿を消した『資本論』翻訳者である。海に身を投げて自死したはずなのだが、遺体が発見されていないため高校の同窓会名簿に「旅行中」といまだに (?) 記されている人である。その再版本に「あとがき」を書かねばならず、人生の終わらせ方について何をどう言えばいいかと頭を悩まされている。それであの放言にまで連想が飛んでしまった。そして思った。そんな美しいものじゃないぞ、「終わり」は。ならば「はじまり」もまた。彼にはあの終わらせ方を上質の悲劇と思わせる世間的には気の毒と言うほかない事情もあったのだが(知らない方は彼の名前をググってください)、この遺書たる自伝を虚心坦懐な目で読むと、「気の毒」の裏から爆笑ものの「トンデモ」な実情が見えてくる。なに、彼は「マルクス主義」で1980年代初頭までに少なくとも2億円ぐらい稼いでいたのである。給料とは別にである。ほとんど残っていないと記されたその金はどこに消えた? 革命運動に注ぎ込むなんてことをしていなかったことだけはたしかである。健康診断を受けて梅毒に罹っていないことが判明してホッとした、なんて記述もあるところからも真相は推して知るべしだろう。自伝出版後の調査によると、夫人との死出の旅も、東京から本州西端を回って大阪まですべてタクシー移動。なんじゃい、この「自死」は。暢気なニヒリストに笑われている気分である。「はじまり」のためにうまい「終わり」を考える気など完全に失せてしまった。
幸い「騒音書簡」については終わらせ方を悩む必要がない。それは佐藤薫に丸投げしている。ひとつよろしく。