騒音書簡1-10

2022年12月31日

市田お兄さん

終わりはなかなか来ないようだ。サド侯爵の言い方を借りれば、共和主義者たらんとせば、終わりまであと一歩だ。今日は大晦日だし、世界の終わりが元旦の時報とともにやって来るならすっきりするだろうが、そうはならないことは誰もが知っている。終わりは来ない。客観性がもめている。誰が何を望もうと、それが主観の望むところであるとしても、そんなことは何の役にも立たない。でも世間並に年齢のこともあるし、僕は不老不死などごめんこうむりたい。不老不死を求める仙人や権力者、はたまたそれを夢見る科学も馬鹿だと前々から思っていた。永久に生き続けるなんて、永遠に終わらないなんて、苦痛であるに決まっている。これはごく一般的な考え方である。

君も知ってのとおり、今年、三回目のコロナ・ワクチンで持病の心臓病がひどく悪化した。それまではそれなりに悪いままではあったが、現状維持していたのだから、ワクチンのせいとしか考えられない。春から夏にかけてはひどい状態で、これはいつもと違うぞと直感した。死の気配だ。そいつが漂い始めた。来たな、と思ったし、事務的なことはある程度かたづけておこうと本気で考えた。急死後緊急連絡先とかね。死ぬのは怖くない。自分ではそう思っている。今回は、もうそろそろいいや、と思った。ほんとうだ。ある種のすがすがしささえ感じた。ところが終わりは来なかった。らしい。心臓はかろうじて持ち直したようだ。教訓としては、身体が思考や意識、等々、その他の余計なものとは無関係に生きていることは間違いないといえる。「ウィーンの危機」のさなかにカール・クラウスは、「物質によって生きているものは、物質より前に死ぬ。言語のなかで生きているものは、言語とともに生きる」と言っていたが、そういう高尚なことではない。

始めたものを終わらせることができないことがあるらしい。すでに終わったことを知らなかっただけなのか。勝手に始まったとしても、始まりはいたるところにあるじゃないか。始まりっぱなし、始まりだらけだ。やめてくれ! 始まりがあれば、とりあえず終わりがあるはずなのだが、それともこれは一種の度し難い観念論にとらわれているということなのか。だけどうまい「終わり方」というのは主体の問題をはらんでいるらしい。死ぬのはいつも他人ばかり、ということじゃない。死ぬのは自分ひとりだ。だけど誰にとっての上手な終わり方なのか。人生訓について喋りたいわけじゃない。『資本論』の翻訳者、君の前回書簡の岡崎次郎についての話は面白かったが、考えさせられるものを含んでいた。印税で二億円稼いだ「呑気なニヒリスト」は最後は心中でけりをつけたのだから、僕としては、彼はまだ「旅行中」なのではないかとも思った。

ずいぶん前、大里俊晴の『ガセネタの荒野』という本の書評したことがある。当時その本から引用した大里君の素敵な文章を再び引用したくなったので、ここに引用する。若い読者のために言っておくと、故・大里俊晴は『マイナー音楽のために』という該博でパラノイアックな本も書いた立派な音楽学者だったが、ガセネタというバンドのメンバーでもあった。山崎春美たちとやっていたバンドです。

「僕らの演奏にはエンディングしかなかった。エンディング。(……)終わること。終わり続けること。そして、僕らは、エンディングに突入してから、終わることが出来なかった。エンディングとは、終わりであり、始まりであり、中間であり、また終わりでもあった。僕は、もう終わりだ、いま終わりだ、と思いながら演奏した。だが、終わることが出来なかった。終わりはやってこなかった。どうやって終わるのだろう。どうやったら終わることが出来るのだろう。僕は、いつもそう思いながら演奏した。エンディング。僕らは、いつまでも終わり続けていた。」

終わり続けること……。しんどいことだ。美しくない、と身のほど知らずの文句を言う人がいるかもしれない。でも、それもありかもね。

鈴木創士