まとめ220321

2022年3月21日

市田良彦さま

ひどい空音に襲来されていた時期がある。空襲警報が鳴り響いた。カチカチ山が騒音に包まれ、ケツに火がついたみたいだった。まことの耳鳴りだったが、それは空耳と区別がつかないていのものだと感じた。頭がおかしくなったと思い、その騒音のなかに電波メッセージを聞き取ろうと躍起になった。ある意味、僕が言葉に取り憑かれているのは自分でわかっているが、そういうことではない。これはチャンスだ、やっと僥倖が訪れた、と考えた。意味のある言葉がノイズのなかから浮き上がるのを待った。君もそうだと思うが、僕はそれまで狂気の発作に見舞われたことはなかった。これでやっとひとかどの人間になれる! ホワイトノイズのテレビ画面に未来画像が一瞬映るかもしれない。以前からそんな映像を見てみたかった。やったね! ……だがいくら集中して耳を傾けようと、神の託宣も悪霊の囁きもない。今にも開かれようとしていた人生の局面が消えてしまったようで落胆した。ただ延々と雑音が続くだけだったのだ。

もちろん音楽を聞いているときもこれは止まない。ワーグナーを聞こうと、シェーンベルクやヴェーベルンでさえ騒音は共演していた。この場合は静かに共演していたといっていい。逆に騒音がましになり、打ち消され、それなりに聞こえなくなるのは、お察しのとおり、パンクや、ノイズミュージック、フリージャズ、シュトックハウゼンかクセナキスくらいだった。ただ単に音量と密度の問題だ。何を聞き取ろうとするのか、リスナーの心づもり、姿勢の問題かもしれない。だがいずれにしてもノイズとのバランスはとれない。

寝ているときはさらに悲惨だった。あたりが静まり返ると、耳のなかは川流れの音と蟬の啼き声で満たされた。蟬の声も凄まじい。電気的でもあるし、コロイド状であると言ってもいい。むろん眠りを妨げる。不眠症なのでさらに眠られない。身体の片隅が身体の一体性を絶えず妨害し続ける。そいつは身体のなかを遠慮なく流れ続けた。だが川が流れ込み、その流れが終わる大海はからだのなかに見出すことができない。耳から耳。ただそれだけ。頭のなかでよけいに増幅が起きる。

不眠のノイズを聞きながらジョイスの奇書『フィネガンズ・ウェイク』の冒頭を思い出した。《riverrun》。川流れ。川走り。冒頭の一文を意味だけ訳すとこうなる。「川流れは、イヴとアダムの教会を越え、海岸を迂回し湾のカーブに沿って、車の行き交う快適な村を通り、ホース城とその近郊まで我々を連れてゆく」。これでは忠実な訳とは言えない。柳瀬尚紀ならこう訳す。「川走(せんそう)、イブとアダム礼盃亭(れいはいてい)()ぎ、く()岸辺(きしべ)から()(きょく)する(わん)へ、(こん)()()せぬ(めぐ)(みち)媚行(びこう)し、(めぐ)(もど)るは栄地(えいち)四囲委蛇(しいいい)たるホウス(じょう)とその周円(しゅうえん)」。これはもうほとんどノイズだ! 『フィネガンズ・ウェイク』の「英語ではない英語」を最後まで読んだ人が世界に何人いるのか知らないが、この本がたとえノイズとミュージックコンクレートのつぎはぎだとしても、このノイズが読者をどこかへ連れて行ってくれることは確かだろう。しかし僕の川流れはどこへも連れて行ってはくれない。『フィネガンズ・ウェイク』のように企まれた謎が介在する余地がない。ミステリーがない。ただ音が、ノイズが、走って音を追いかけ、増幅し、あるときはものすごい塊になるだけ。これが「音楽」につながるのかどうか結論が出せない。余興みたいなものだと言われればそうだが、四六時中なのだから迷惑な話だ。耳鳴りは今でも治っていないが、軽度にはなった。半端な騒音ではなかったので、ああ、ただの耳の病気か機能的問題だと気づくのに十年以上という歳月を要することとなった。どうせ無駄だと思ったし、医者には行っていない。
続きはまた。では。

鈴木創士





2022年4月29日

So-siくん、

そう来たか、ジェイムズ・ジョイスか。ノイズ・ミュージックはさしあたり『フィネガンズ・ウェイク』の「ような」ものか。最後までそうであるかはさておき。前々から小説家としてのきみにいつか聞いてみたいと思っていたことがあった。いちおう文章を書く人間としてのおれには「できない」と思うことを、きみはときどきやる。小説と論文の違いの問題ではない。きみはとても論理的な文章も書くし、おれは小説のようであろうと意識して文章を書いたこともある。けれどきみはおれが自分には「できない」と自覚していることを、平気でなのか、そこになにかを賭けてなのか、すすんでやる。それが「ような」とか「ように」と書くことだ。おれはそれを意図して避けてきたように思う。

きみがそう書いているのを目にするたびに思い出す。「手術台の上でのミシンとコウモリ傘の出会いのように」。「ような」とか「ように」ときみが書いているのを見ると、オレはまだシュール・レアリストだぞ、と、きみが宣言している「ように」聞こえるんだ。アンドレ・ブルトンを引き継ぐ覚悟には敬服する。ブルトンが良い悪いではなく、自分の「作品」をどこにどう置くかをきちんと知っているということに脱帽する。おれに対し、ああおれはいつの頃からかシュール・レアリズムからも、さらに「文学」からも遠ざかろうとしてきたんだな、と思い起こさせてくることに感謝さえする。きみにも言ったことはあると思う。おれは今、ほとんどの小説が読めないんだ。入っていけない。

それは多分、「ような」/「ように」が言語以前にある──と想定される──心的経験なのか世界なのかを「隠喩」してしまうからだ。言葉はそれ自体でなにかしらの現実の隠喩なのか? それが「心の闇」であろうと、「いまどきのリアル」であろうと、「狂気」であろうと、言葉がその隠喩的表現であろうとしていると感じたとき、そんなものには興味がない、とその言葉に向かって言いたくなる。そんなもの、知ってるよ、いまさら言われなくても、と。歴史的蓄積のあるこれだけの情報社会(!)で、言葉で、それも喩えてみせる言葉でしか伝えられないものなんてあるのか。歴史を、年寄りを、なめんなよ。喩えなくていいから、情報だけくれ。

とはいえ、かく言うおれも、自分の書くものは「歌」の「よう」であってほしいと願っている。おれの文章は世界の隠喩でなくとも音楽だ! 踊りだ! と見栄を切りたい気分を、論文を書くときにも持っている。特に助詞の使い方と文末処理には「リズム」を賭けている。フランク・ザッパについて書いたときには、頭のなかでずっと彼の『黙ってギターを弾け』を流していた。CDを聴きながらではない。そんなことをすれば同調できない。おれは無音の状態でしか文章を書けない。たったいま頭のなかで流しているのは「ブラウン・シュガー」だ。もうコンサートで演奏しないというニュースを耳にしたから、おれがキースとミックの代わりに演ってやるぜ、ぐらいの心持ちでいる。

この差はなんなのだろう。きみの意見をぜひ聞かせてほしい。

「同調」と書いてしまったことに関連して、少し補足しておく。「ような」/「ように」を目にするたび、ほとんどの小説を読むたびに、おれは世界から遠ざけられた気分に陥る。隠喩は、隠喩されるものからは離れていることを前提にするからだろう。隠喩は世界との同調を妨げる。だから逆に、世界からいったん離れるために音楽に没入する時間もおれにはある。なに、ごくありきたりな効用さ。イヤホンをつければ外界から自分を一定遮断できる。そしてスピーカーから大音量でノイズミュージック──例えば先日の森田潤のライブアルバムな──を流せば、それが世界そのものになるから、つまり現実世界の隠喩たりうるほどリアルさを乗っ取ってくれるから、隠喩されたリアルな世界を一瞬忘れることができる。ああ、イランのペルセポリス神殿でクセナキスの「ペルセポリス」を聴きたかった! ベートーヴェンではもう隠喩にさえなれない。いっとき自分でマスタリングすることに凝った裸のラリーズの客録り音源も、おれにはもうだめ。いったいどうしてだろう。

市田良彦





2022年5月20日

親愛なる友、

君の質問に答えなければならないね。君が指摘する僕の文章、とにかくそれは「文学」だ。「……のように」だが、「直喩」でも「隠喩」でもいい、そいつは「現実」の裏をかき、その断片をかすめ取るためにあるんじゃないかと思ってきた。現実の網目の見えないタガを「外す」ためだ。蝙蝠傘もミシンも手術台も現実だけど、それは「ように」によってたしかに「世界から遠ざかる」。しかしまず言葉が言葉の「隠喩」なのだから、この隔たりによって逆に現実が遠く透けて見えることがある。僕はそれに賭けている。現実はデータによってできているわけではないし、現実との「同調」もまた「真理」にとって一つの「言葉」、つまり隠喩じゃないかな。小説にも色々あるが、現実の機微を捉えることはあると思う。

現実の裏をかく、いや、文学はやはりそれだけじゃない。つまり小説でも詩でもいいが、「文学」で何が問題となっているかといえば、実は「実在」が何であるかということだと僕は考えているんだ。僕にとって文学がそういうものでなければ、馬鹿の一つ覚えみたいにこんなに長い間「文学」に拘泥することはできなかった。今度の本『芸術破綻論』でもそのことに触れている、というかそのことしか問題にしていないとも言える。哲学者の君に即していえば、哲学だって「実在」が何であるかという問いは中心の近傍にあるだろうが、哲学もそのために「表現」するじゃないか。言葉の審級が異なるだけだ。

ボルヘスは(ちゃんと本を参照したわけでなく、記憶で引用するので不正確かも)、文学の歴史というのは幾つかの隠喩の抑揚から成り立っていると言うんだが、これにはさすがに僕にもいささか異論があって、じゃ、何のために「隠喩」があるんだという問いが頭をもたげてしまう。

そういう意味でそもそも「文学」は「破綻」していると僕は考えているんだ。「すぐれた」(!?) 文学はなおさらそうだ。そもそも「表現」は、表現主義は、最良の手段ではなく、破綻の一端だ。「文学」の本質は孤独ではなく破綻にある。だから「上手く」破綻できればどんなにいいだろうかとも思うんだ。でも正直に言えば、いかに現実から遠ざかるにしても、いろんな意味で「破綻した」人間である僕に残されたものは、そんな「文学」だけだったというのが実情であるのかもしれない。

だけど僕だって文学にうんざりすることがある。で、何で「音楽」をやっているのか? あえて言うなら、一つには音楽はこの問いを不問に付してくれる気がするときがあるからだ。それが幻想でしかないにしても。君が「音楽」を鳴り響かせながらリズミカルに文章を書いているのはよくわかるし、書き手としてさすがだと思う。でもそれだって「文学」だよ。最良の意味でね。マルクスにもアルチュセールにもそういうところがあった。ところで、君の名著『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』を僕は小説のように読んだよ。君の意に反するだろうが、哲学の門外漢である僕からすればこれは誉め言葉なんだ。だからといって君が「小説」を読む必要はないし、それでいいじゃないか(何なら『カラマーゾフの兄弟』でも読んでみるか?)。いずれにしろどれも面倒な実験だし、現実を書くこと、現実への接近の仕方は一つではないと思う。

一つ反論がある。僕は若いときさんざんブルトンを読んでたぶん思想的にも影響を受けたし、その点でブルトンに借りがあるが、今の僕はシュルレアリストではないな。正直言って、シュルレアリスムにもシュルレアリスムの「美学」にも飽きた。ブルトンに借りは返していないが、前回書いたように、僕は(偽の)古典主義者なんだ。

鈴木創士





2022年6月25日

So-siどの、

『カラマーゾフの兄弟』の代わりに、最近の小説を一つ読んでみた。君から文学者──「文学的な人」ぐらいの意味か──として認めてもらえたからというばかりではなく、誕生日プレゼントに「騒音書簡」の読者からもらったので。文学オンチ、比喩アレルギーのお前にはちょうどよかろう、と。『鑑識レコード倶楽部』という。ぜひ読まれたし(今度のライブに持っていくよ)。まさに我々の寓話だ。読後、少なくとも俺はコロッケにものまねされた岩崎宏美のような気分である。著者マグナス・ミルズのことはまったく知らないが、カリカチュアされる栄誉を味わっている。「音楽を語る」ことのカリカチュア。

3通目の手紙を送ってから、我々の間には手紙の交換以外にもう一つ出来事があった。君たちのライブである。久しぶりに聴いた。轟音にさらされて久しぶりにアレルギーが出た。ようやく消えかかっているところなので、来週のライブがちょっと心配ではある。とにかく今回の返信は、君からの手紙と先日のライブと予期せぬ読書経験の三つに対し、同時に反応してみたい。

これが君の言う「破綻」なのであろう。それを強いるものなどなにもなく、俺はただ往復書簡という規範を守って前の手紙に反応しているだけでよいのに、勝手に他の因子をこの場に引き入れている。他の因子は偶然ですらない。無視してもよいのだから。往復書簡というこの場の形式は、君にとっての「古典主義」のようなものかもしれない。それがなければ「破綻」が不可能なもの。先日のライブもその意味では立派に「古典主義」的であった。君は他のメンバー、特に俗に言うリズム隊の3人にうまく「破綻」させてもらっていた。その全体への森田潤の介入も、40年以上かけて成立した「EP-4サウンド古典主義」をうまく「破綻」させていた。

しかしちょっと待ってほしい。今回の「破綻」がなければ、俺があの場で思い起こさずにいられなかった、つまり俺の頭のなかで同時に鳴っていた昔日のEP-4の音は「古典」にさえならなかったではないか。君たちは何十年もバンド活動をしていなかったのだから。あの音はこの世から消えていたのだから。ライブから帰って、思わず聴き直してみた(今ではAppleのサブスクで聴ける──佐藤薫はそのことを知らなかったが)。「破綻」のありようを確かめたかったわけだ。その結果として言う。俺は偽であれほんものであれ「古典主義者」にはなれんな。

というのも、俺にはセロニアス・モンクが「破綻」しているとは思えんのよ。というか、前にも書いたが俺にとって「はじまり」をなすあの音を、「破綻」ではないものとして受容できるよう、俺は修行してきたのではないかと先日のライブを聞いてあらためて思ったのよ。一人であの音を出すことは難しくても、バンドならそれが可能で、それを希求する者たちの系譜が確実にあり、君たちもそこに連なろうとしているのではないか。いや、妄想的に言う。連なることを目指してほしい。« Sister Ray »のヴェルヴェッツ、 何作かのミンガス、« Les Stances à Sophie »のアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、« Last Date »のドルフィー(一曲目はモンクのカバーだ)等々、いくつものバンドが先人として頭に浮かぶ。それは俺の密かな言い方では、バンド音楽を「盆栽」にしないことに賭けてきた者たちの系譜で、君がひょっとしてノイズ・バンドなどという有難いのかそうでないのかよく分からんカテゴライズを受け入れてやろうとしている音もそこに連なるのかも──電子音を使ってな──とあの夜思った。日本にはジャズでもロックでもうまいバンドはいくらでもいる。けれどもいくらそれに感心しても、感心しているその瞬間、俺は盆栽を愛でる気分になっている自分に気づいて嫌になる。森の野生を忘れてしまったのか、と。どんなバンドの音も必ず音楽史のそれなりの総括と縮図になる。そのようにしかバンドは聴くことができない。そこに「古典主義」もその「破綻」もない、と俺には思える。盆栽か森か──比喩である。

俺があの夜耳にし、次のライブでも聴きたいと思っている演奏はもちろん幻だ。その幻の音を『鑑識レコード倶楽部』は、人前ではかけられずに終わる無タイトルのデモ盤として登場させた。この倶楽部は「コメントなし評価なし」にレコードを聴くという盟約に結ばれた者たちの集まりで、自分語りとセットでしか音楽を聴かない「告白レコード倶楽部」と対立している。「鑑識」派からは、沈黙の掟に耐えきれず、周辺的蘊蓄なら喋ってもよしとする「認識レコード倶楽部」という分派が生まれた。今回の手紙で書いたことも「鑑識派」と「告白派」と「認識派」の混淆でしかない、と俺は知っている。次のライブを楽しみにしてるよ。幻の電子版モンクを聴かせてくれ。

市田良彦





2022年7月28日

こんにちは

君と同じように「比喩」を嫌悪している作家マグナス・ミルズの『鑑識レコード倶楽部』を読ませてもらったよ。だけど俺にはこの比喩の拒否はこの作家特有のレトリックにしか見えなかったし(たとえそれが彼の長きにわたる経験に裏打ちされたものであるとしても)、この小説全体がそもそも何かの「比喩」のようではないかと感じた(それが小説というものの本性かもしれんが)。政治的寓意、集団的寓意という点では、俺の訳したベルナール・ラマルシュ=ヴァデルのフェイク・バロック小説『すべては壊れる』のほうが俺にはしっくりくる。この政治的集団的寓意は「死」に包囲され、現代の死体解剖所見となっているのだが、作家本人も頭をピストルでぶち抜いて自殺したのだからオチまでついている。まあ、自分が訳したのだから、単なる手前味噌なんでしょうが。

それはそうとして、音楽を聴くということについては、この小説が語るように、ノーコメント派(鑑識派)、告白派、認識派がいるというのは確かにそのとおりだろうし、なかなか言い得て妙だった。鑑識派の主眼は四の五の言わずに「聴く技を磨く」ことなのだから、究極的には聴くことから「思考」を追い出すことが求められることになりそうだ。「感情」については言うまでもない。この場合、「感覚」なるものはどのあたりにあるのだろう。しかしそこまでいけばこの試みは至難の技だ。モンクについて君が俺たちunitPに要求するように、「モンクのように」に試みるとして(これにかなり深い意味があることは俺にはわかるが、こんな要求は無謀だよ)、どうやって「思考」を追い払えばいいのだろう。

演奏しているときに何も考えないでいることは俺の課題なんだ。ただしあれこれ考えたほうがいいときもある。盆栽音楽については、凡庸な思考の臭いがぷんぷんするだけで、肝心の内容がそっちのけのものや、逆に内容盛り沢山でもミュージシャン臭で辟易するものがあるが、君が盆栽音楽を退けるのはうなずける。音楽は鑑賞するものじゃない。趣味でもない。告白派そして認識派には盆栽を愛でる傾向がある。

ところでこの本で一番はっとした箇所がある。パブの臨時女給でミュージシャンでもある、この小説の隠れた主人公ともいえるアリスが、鑑識派の「俺」に放った言葉だ。《「あんた、ここで何してるわけ」アリスは言った。「あんたそもそも、音楽なんて好きじゃないじゃない」》。お前そもそも、音楽なんてどうでもいいじゃないか! 音楽を聴くふりしているだけだろ! ああ、なるほどそういうことがあるな。アリスの言うとおりだ。彼女はミュージシャンなのだから、とだけ考えてはいけない。だけど俺は音楽が好きなのだろうか。まったく音楽を聴く気がしなかったり、受けつけないときもあるが、たぶん好きなのかな。君はどうなんだ。佐藤薫はどうなんだろう。こんな馬鹿げた質問を彼にしたことはないが、佐藤はオーケストラの指揮者のようなものだから、誰よりも音楽を注意深く聴いてきたことは確かだ。聴いてきた音楽の範囲もとても広い。それは俺が保証する。でも音楽を注聴することは音楽を愛することなのか。それとも佐藤の頭のなかでは、音楽ではなく、音が鳴っているだけなのか。音楽が好きというのは何のことなのか。

こんなことを思ったのは、もうひとつには、先日、氷川きよしをテレビで見たからだ。彼のビジュアル的変貌はとてもいい選択だったと思うが、その番組で氷川はジャズのスタンダードを歌おうとしていた。嫌悪していた演歌をずっと無理やり歌わされてきた腹いせはよくわかるが、歌ったジャズのスタンダードはひどいものだった。相変わらず彼の歌う節回しはジャズではなく、演歌のままだった、というようなことが言いたいのではない。でも俺にはわかったんだ、こいつは音楽が好きじゃないな、って。

鈴木創士





2022年8月28日

創士くん、

音楽が好きかって? 俺には音楽絡みというわけではないのだが、一つの規範がある。いつのまにか出来上がった作業仮説のようなものにすぎないけれど。それは〈好き-嫌い〉でものを語らないということだ。とりわけ、こだわりのある対象については。そのこだわりが〈好き-嫌い〉の判断を許さない。そんな判断は信用ならない、と我ながら思ってしまう。信用すればこだわりとの関係において結果的に損をする、と。

話は終わってしまうではないか、〈好き-嫌い〉を持ち出せば。それを聞かされたほうは、そうですか、と返すほかない。〈好き-嫌い〉は主張の根拠になりこそすれ、それ自体に根拠のない最後通牒のようなものだ。これが好きな私、嫌いな私を語っているのみ。マグナス・ミルズに戻って言えば、告白派の告白がそこへと帰っていく最後のセリフ。どうしてそんな「私」を信用できるのか、と思ってしまう。求められてもいない誓約をして後で困らないのか、とも。恋愛の場合には致し方ないだろう。恋愛には告白=誓約に続き、二人でする契約が待っているので。しかし、自分とは契約をする必要などない。〈好き〉は〈嫌い〉の反対ではなく、〈嫌い〉から差し込む影のようなものだろう。正常と異常の関係に等しい。いつか〈嫌い〉になるかもしれない、異常に、病気になるかもしれない状態の名前が、〈好き〉であり正常であるだろう。音楽と雑音の関係もこれに等しいと思っている。

だからまた、分かっているつもりではある。〈好き-嫌い〉をはっきり言ったほうがよい瞬間もある、と。根拠としてそれを持ち出すのではなく、まして最後通牒にするためにではなく、こだわりを自分vs自分、自分vs他者の関係において持続させるために。先回の手紙でライブ評まがいの感想を綴ったのはそのためだ。騒音書簡は俺にとっては、きみたちにとってのセッションやライブのようなもので、反応しなければ続かない。その反応は反応される側にとっては、いつでも告白だろう。自分語りだろう。「私」はこういうボールを投げる、さて「きみ」は? その交換の継続が演奏であり、往復 (?) 書簡だろう。しかし、言い訳でなく言うのだが、告白はいつもフィクションだ。嘘をつくわけではない。あくまでほんとうのことを言っている。けれども、告白することで、その告白文の主語でしかない「私」を、告白している生身の「私」と儀式的に一致させ、告白される者に例えば──まさしく例えばでしかない──「市田良彦」というペルソナを持続的に虚構させる。この人物はいつか狂って「私はナポレオンだ」とか言い出すかもしれないのに。それでも「きみ」が反応を返すためには、少なくとも返すまでは持続する虚構が必須であるだろう。先回の手紙で自分をアンディ・ウォーホールだと言ってみたのにはこういう機微があった、と告白しておく。告白も感想文も、主語が「私」であるかぎり、誠実であることとフィクションであることは矛盾しないどころか、両立させることが誠実性の証だ。

こだわりは、〈好き-嫌い〉でないとすれば〈意志〉か? これもYesかつNoだ。そのこだわりを持続させようと望んでいるという点ではYes。望んでいなければ、すでにこだわっていない。しかし、望みどおりにならないものがあるからこそ、こだわりではないのか。捨てようと思っても捨てられないことがこだわりであるだろう。だからこだわりは〈非意志〉でもある。〈好き〉と〈嫌い〉同様、〈意志〉と〈非意志〉も互いの影であるだろう。格別ややこしいことを言っているつもりはない。欲情の身体的表れは「私」の〈意志〉の現れか? 望んでもいないのに「ヤツ」が反応しているという「私」の〈非意志〉であるから、欲情は「私」の欲情ではないのか。

「演奏しているときにはなにも考えないでいる」ことが自分の「課題」だと、書いていたね。俺はそれを、考えることも考えないでいることも、〈非意志的な意志〉だというふうに受け取った。生物としての人間にそれ以外のことができるのか、と思う。「課題」に括弧と下線の両方を付して読みたい。そのうえで、俺がなるべく〈好き-嫌い〉について語らないことを規範にしているもう一つの理由も書いておきたい。YesかNoか、Aかnot Aか、はっきりさせろという脅迫への抵抗が第一の理由であったわけだが、もう一つ、それに相反するような理由もある。生物としての人間には〈意志〉と〈非意志〉など裏表にすぎない、という理屈は、どうしてもキリスト教の原罪遺伝説を思い起こさせる。この理屈は、罪を犯してしまうことが罰である──罪としての〈非意志〉的欲情は汝がかつて〈意志〉的に犯した罪への罰なり──という仕方で転用されたではないか。いくら懺悔してもだめ、最後の審判の日まで懺悔し続けよ。現代では、とにかく〈好き-嫌い〉については尊重し、法律違反かそうでないかだけを問題する、ということがほぼ規範になっている。二つがセットになって人間を阿呆にしている。それにだけは抵抗したいと思う。なにか言うべきことがあるとすれば、この規範に対する騒音でありたい、と。

市田良彦





2022年9月30日

市田君

前回の君の手紙に反論がある。好き嫌いで物事を判断することは馬鹿げているし、反動的で無益だということも重々承知している。だが僕は「文学」が好きかとも、「哲学」が好きかとも聞いていない。そうすぐに一般化しないでくれよ。書き手として、あいそよく、僕はフォノンのためにここで「騒音書簡」を書いていることをまったく意識しないでいることはできないのだから、当然、音楽の話になってしまう。でもローリング・ストーンズが好きか嫌いかじゃなくて、僕は「音楽」が好きかということについて話をしたんだ。音楽が好きか嫌いかということは、あっ、そう、では済まされないところがある。本質的なことなんだ。誰にとって? 僕にとって? ああ、そのとおり! マグナス・ミルズ『鑑識レコード倶楽部』はアイデア小説としては非凡だけど、僕にとってはそれだけという感じだった、つまりそんな意見など「あんたの好みの小説じゃないんだ、あ、そう」で済むところがあるが、「音楽」については同じとは言えない。君の言うのとは反対に、音楽について、好き嫌いはそう簡単には反転できないと思う。『鑑識レコード倶楽部』では、あのアリスの言葉はやはり僕にとって当意即妙なままだ。《「あんた、ここで何してるわけ」アリスは言った。「あんたそもそも、音楽なんて好きじゃないじゃない」》。

今はバンドの哲学や社会学について話をしているのではないし、自分対自分、自分対他者のことはさしあたりここでは置いておく。君が音楽を好きだとしても、それは僕に直接関わりがないだろう。だが嫌いだとすると、話は違ってくる。音楽が好きな思想家、嫌いな思想家や書き手は、少なからず名前を上げることもできるだろうし、音楽あるいは音楽的ということについて無感覚な思想家や書き手を僕は心底信用できないところがある。耳があるのに音楽が嫌い、嫌いだから音楽を死ぬまで聴きたくないということをうまく想像できない。「思考」そのものとの関係、あるいは五感全体の対比においてね。それに音楽を嫌いな人がそう簡単に好きになったり、音楽が好きな人が年を経て嫌いになることがあったりするのかな。そんな芸当は聞いたことも見たこともないよ。音楽を聴くことができないという状態と(それは僕にもしょっちゅうある)、音楽が嫌いというのは全く違うことなんだ。

君は僕の第一書簡の空耳の話にそれらしい反応を示さなかったが、また蒸し返すなら、聞こえないこと、実際には聞こえていないこと、あるいは空耳は、音の対極にあるのではないことは君も承知してくれると思う。今はまだうまく言えないが、空耳が聞こえていること、耳鳴りを聴くこと、それを意識せざるを得ないことは、音楽を聴くことと無関係ではあり得ないように思うんだ。しかも空耳はつねに「騒音」と対になっているし、それこそ反転可能だ。これらのこと自体が、ただ単に音を聞いているということにしても、あるいは無音を聴きとろうとする意志にしても、それらは「音楽」の範疇にあるということを示している。耳の聞こえない人だっているじゃないか、って? 生まれつきの聾者も何も聞こえないという感覚そのものによってある種の「音」を聞いているのだと思う。音楽を聴くことは、物質としての音-無音をひとつの身体的反応として享受することであり、身体は延長をもつのだから、この反応と無反応は身体の延長のなかにもあるからだ。しかしスピノザに反するようだが、これを延長における精神的反応だとしても何ら齟齬はない。音楽を聴いて、あるいは聞こえないことでそれを享受することは、そもそも身体的「矛盾」を、身体のなかにある種の乖離を引き起こすことだからだ。何が言いたいかといえば、音楽を聴くことは(身体的)空耳だということになる。

こんなことは全部個人的なことだろうか。たぶんそうかもしれないし、音と音楽をごっちゃにしていると反論されるかもしれないが、ノイズにおいても、それは僕にとって同じ原因結果を伴うものとしてある(これは君が言うようにキリスト教的だろうか)。ただの感想と受け取られても仕方ないが、ノイズを聴こうとする人、ノイズを聴くことのできる人は、音と音楽を分けて考えることができない。クセナキスを引き合いにするまでもなく、それが基本じゃないかな。もし音楽が嫌いな人であれば、このようなことは理解できないと思う。

最近読み返していたので余談を。中上健次という作家にとって「路地」は愛憎相半ばするものとして存在した。だが中上は明らかに路地に矛盾した観念的「愛着」を抱いていた。失われたにしろそうでないにしろ、なまの現実としても、一種のサーガとしても、路地が好きだった。中上ならそう答えることをためらわなかっただろう。路地からはいろんな音がする。ラジオ、テレビのニュースや相撲や軍歌、家の外に漏れてくる話し声、茶碗と箸がかちかちあたる音、女と子供の声、向こうから聞こえる小川や雨だれの音……。中上はそれらの音をアルバート・アイラーのテナー・サックスの攻撃性とその消えゆく余韻のなかにも聞き取った。音楽はそのような「存在」でもあるし、存在論的な次元を確固としてもつかもしれないが、存在を瓦解させるところもあって、その意味で中上の観念のなかの路地は僕の言う「音楽」に似ているかもしれない。まず最初に、そこにいた者、あるいはそれを聞いている者に、君が言うように、極めて実在的な「妄想」を要求するんだ。

君の言う、好き嫌いという「規範」への抵抗を揶揄したり、その邪魔をしたりするつもりはないが、君が答えなくても、君の答えを留保する必要はないと思う。じゃなければ、ショパンではなくモンクに衝撃を受けたという君の「告白」はあり得ないよ。

鈴木創士





2022年10月29日

鈴木創士殿、

何に対しどう反論されているのか、ちょっとよく分からんが、とりあえずいくつか応えてみる。それらはたぶん、相互に連関しているはずだ。

1) 『鑑識レコード倶楽部』におけるアリスの位置は、俺にとってははっきりしている。演者にとっての「音楽そのもの」だ。君が「好きなのか」と聞いたものを、演者の立場で代表している。そしてその含意もはっきりしている。「音楽そのもの」について「語りうる」のは実は演者のみ。ただし「語りえる」のは、アリスの言ったことだけ。「音楽」はある、これをあなたは「好き」か。それ以上のことを語ったとき、演者はすでに演者ではない。聴く立場に回って語っており、それはアリス以外の三派の言説のいずれかに回収される。つまり小説におけるアリスは、演者と聴者、音楽と言葉の非和解性、非対称性、絶対的な差異を小説のなかに導入する仕掛けだ。その昔、遠藤ミチロウが言ったことを俺は忘れられない。「客との非和解性を大事にしたい」。彼にとっては、いくらファンが求めても、自分は求められることを演るとはかぎらない、ということであった。俺にとっては、自分はもう客でいい、と思わせる言葉であった。俺は別の土俵に行く、と。文章を綴ることをその土俵にすると決めても、読者との非和解性は俺にとって「大事にしたい」ものの一つであり続けている。だがそれは、自分の音楽があるとか、俺の文章は俺の自己表現だ、という所有権の主張ではまったくない。むしろ逆。演者/書き手に回れば、音楽であれ言語であれ、それ「そのもの」から決定的に締め出されるという「経験」を味わうことになるという諦念の確認だ。「経験」は聴者と読者の特権であると思う。あくまで受動的な体験であるという意味において。能動的な立場に回った人間とは、「そのもの」の門前で「なかに入れてくれ」と祈り跪く「棄教者」の姿に俺のなかでは重なっている。自分の音楽を「楽しんでいます」などと言う音楽家を、俺は「口舌の徒」として信じることができない。俺は様々な「棄教者」のおかげで、「門のなか」が「ある」と信じることができる。

2) 聴く側には、好きな音楽と必ずしも好きではない音楽があるだけだ。嫌いな音楽は「音楽」ではない。俺が好きとか嫌いとか言いたくないのは、音楽の聴き手としてではなく、文章を書く人間としてだ。自分の文章に、そんなことを言わせたくない。それを言わせれば、俺は自分の文章まで評点しなければいけないだろう。もちろんそういうことを絶えずやりながら文章を書いているわけだが(特に外国語で書く場合)、それはまさに書き手としての問題であり、「客との非和解性」からして、ほっといてもらいたい部類のことがらである。あなたたちには言いたい放題言う権利がある、存分に語ってくれたまえ。しかしこちらとしては、手の内を明かすようなことは、やろうと思っても十分にはできない。私は言葉の門前で祈り跪く人間でしかないのだから。そう俺は「言う」。君の言う「音楽あるいは音楽的ということに無感覚な思想家や書き手」、あるいは「音楽が嫌い」な人間を、俺は音楽について好き嫌いだけ「言って」いればいい者と解する。俺としては、そういう人を信用するとか信用しないではなく、いい身分だよなあとしか思えない。

3) 君の「空耳」はミュージシャン、演者としてのものか? そうであるなら、俺には聞こえないと「言う」しかないが、俺にはなにか書いているとき、つねに、そこへ入れてもらおうとしている「門のなか」がある。そこから、俺は呼びかけられている。「空耳」のようなものだろう。その呼びかけに応えるべく、俺はいつも書いている。ただ俺はそれを「自分の身体」だとも「過去の経験」だとも「思わない」。最初の頃の手紙で書いたと思うが、俺には「言語以前の経験」が「ある」とは思えない。書く俺に呼びかけてくるのはむしろ、かつて受動的、身体的に「経験」することで、俺がそこから決定的に締め出されてしまった、「そと」にあるなにものか。前の手紙で少し書いたように、書き上げたばかりの本の最後のほうでは、俺はラリーズの音から呼びかけられていた。かつて書いた本の執筆時には、同じく最後のほうではザッパのギターから。ま、君が中上健次に見た「観念的『愛着』」かもしれんね。あるいは音楽と言葉は俺にとって互いにフィードバックしているのかもしれん。いつも。

4) 中上で思い出したが、彼は俺が自分の文学オンチに居直るきっかけになった作家の一人だ。彼のようには書けないと思ったからではない。ミチロウさんに対しては、あなたのようにはとうていなれませんと思ったけれど。中上が、上に書いた「手の内を明かす」ようなまねをやったからだ。よく覚えている。「路地」シリーズのどれかにたしか「夏芙蓉」という名前の花が出てくるのだが、彼はその花について、そんな花は実在しない、自分が作品全体を通じて「実在」させるんだ、とどこかで喋っていた。「夏芙蓉」は実在しない、「路地」も。そんな当たり前の「秘密」を明かし、それを文学はやるんだ、と見栄を切られてもなあ、と思った。ならば俺は、犯人のいない探偵小説を書くぜ、と思ったことをよく覚えている。一つのモデルはレーモン・ルーセル。

市田良彦






2022年11月28日

Ma vieille branche,

1)2)どうもお互いの返答はうまく噛み合っていないようだが、というかこんな風の吹きまわしになるのが佐藤薫の仕組んだ往復書簡なのだろう。それに僕の設問の立て方がまずかったのだろう。「好き」「嫌い」の話はもうどうでもいいさ。先に進めることにする。

「音楽」そのものを感覚するとき、僕はつねに「リスナー」であることを意識してしまう。聞いてしまうんだ。むしろその方がうまくいく。演奏しているときでさえも。即興ならなおさらだ。客はいないも同然だ。遠藤ミチロウの「客との非和解性を大事にしたい」というのはよくわかる。だが、あえて言うなら、そこには「バンドの政治性」と「音」そのものとの混同が見られるのではないかなあ。「バンドの政治」としてはその点でたしかに彼の姿勢は一貫していた。僕は遠藤ミチロウをストア派として讃える文章を書いたことがあるので、あまり言いたくないが、しかしザ・スターリンの「音」自体はどうなのか? 僕には非和解性には聞こえない。

パンクはほんとうに「客との非和解性」を求めていたのか。ピストルズは? PILは? ザ・スターリンは? ヴェルベット・アンダーグラウンドにはなるほど「政治性」にも「音」にも、当時としての非和解性があったと思う。それなら「音」それ自体を問題にするとして、例えばドイツ系のポスト・パンクや、スロッピング・グリッスル、サイキックTVのようなバンドは?……勿論、俺だって演者として「音楽を楽しんでいます」という感じなどない。物を書くということに関しても、いままで「読者との和解性」求めたことなどないことは君も承知しているはずだと思う。それで俺がどんな立派な境遇にいるかもw。だけど俺は門の中には入れないし、はっきり言って、その気もないんだ。いい歳をして、いつまでも門前の小僧のままだよ。

「演者」としては、もうすぐ森田潤と一緒にCDを出すから、聞いてみてくれ。でも僕自身いまやこのCDに対してもリスナーでしかないし、今となってはこの「演奏」に対してア・プリオリに一人の「リスナー」にすぎなかったとしか言いようがない。君の批評をぜひとも聞いてみたい。以前何度か爆音ノイズギターの山本精一と二人だけでやったとき、「音」に関して、「客との非和解性」どころか、我々は「嫌がらせの音楽」をやることを心がけた。まあ、そういう感じも僕にはあるんだ。

3)4)「空耳」は演者としてでもリスナーとしてでもない。完全な外部だ。文字通りの「空耳」なんだが、これも「言葉」との関わりにおいて、ある種の経験の「発生」ではないかと思ったんだ。「音」との関係においても。でも、僕の「経験」には生理的次元があるのだし、ちょっとわかりにくい話ではあるね。

中上健次についてだけど、君の手紙を読んでちょっと笑ってしまった。中上はインタビューとか対談とか講演ではいつも大風呂敷を広げて自作解説をやるが、いい加減なことをしゃべり散らすし、あのエンターテイナー振りはたいてい噴飯物だよ。僕はいつもそう思っていたし、真面目に受け取ったことはない。だから浅田彰や柄谷行人たちが中上を持ち上げていたブームの頃、僕は完全にしらけていた。作家本人の自作解説などまったく信用できない余計なものだ。だけど「小説」作品そのものとなると別なんだ。本人がいかに理路整然と自作を後から分析しようと、小説には別のものがすでに入り込んでしまっている。そのままの形では作家の意識に上らないものだけど、いわゆる無意識のことが言いたいのではない。書くというまさにその時点に到来する何かだ。その意味では中上健次は小説家なんだ。どんな作家もそれを意識するのはとても難しいし、自分で吟味できたとしてもそれは書いた後からでしかない。書いている時点でそんな芸当ができたのはプルーストやジュネしかいないと僕は思っている。

「犯人のいない探偵小説」で君はレーモン・ルーセルの名前を挙げているけど、もっとベタな意味で、夢野久作の『ドグラ・マグラ』は文字どおりそれじゃないかなあ……。僕は別のことを考えていたよ。「登場人物のいない小説」だ。実際、まったく人物が登場しない小説は技術的になかなか難しいだろうし、書いても誰も読んでくれないだろうが、ロベール・パンジェ(ヌーヴォー・ロマンの作家に分類されているけれど、他の作家たちとは決定的に違うところがある)はかなりそれに近い。つまり登場人物に人物それ自体としてほとんど意味がないんだ。ベケットの場合は、登場人物の語ることが無意味な一種の幽霊の声によるものであることによって、逆に大きな意味をもつ。それはそれで真似のできない芸当だ。ある意味では――まあ、異なる意味だけど――ボルヘスもそうかもしれないが、ちょっと違うか。

パリ・コミューン時代の若き詩人が吐き捨てるように言っていた、「そう、新しい時代はともかくきわめて厳しい」。俺たちの目の前で、すべての酒が流れた。悪酔いしたのだろうか。俺には目に浮かぶ、あの古い大通りを横切っている自分が。風は垂直に眠っていた。でもそれはいつのことだったんだ?

鈴木創士





2022年12月29日

鈴木創士兄、

困るなあ。僕は貴兄たちのアルバム──LAST CHANCE IN KOENJI──を批評するのに適任ではないと思うぞ。特に批評を貴兄が求めているのではない、ということは僕も分かっているつもりだが、何を書いたところで「騒音書簡」には読者がいる。顔も人数も分からない公衆という存在がいて、彼らには僕が何を書こうが書くまいが、それは批評になってしまう。書く側としては、作品を批評するにはある種の無関係が作品との間に必要であるのに、僕はどうしてもこの「騒音書簡」という〈デュオ〉における貴兄を、鈴木創士vs森田潤のそれに投影して聞いてしまう。そんなこと気にしなくていいじゃん、と読者も貴兄も思うだろうが、こちらにそれは無理。この無理を読者には分かってもらえないと思う。というか、この〈分かってもらえないかも〉という関係が、僕が何かを批評するには対象との間で必要なんだ。おれとおまえは関係ない、だからおまえについて何ごとかを書ける、それを他人に読ませることができる──そういう次第。以下はそれを踏まえて読んでいただきたい、皆様。

アルバムに即して具体的に言うと、森田潤を相手にする貴兄と、僕が「騒音書簡」で知っている貴兄がどうしても被ってしまう。貴兄は自分でも書いているように、よく「聞く人」だ。共同作業の現場で、とりあえず自己主張したいというような類の人ではない。相方(たち)との間には決して「非和解的関係」など設定しない。アルバムの貴兄は森田潤に反応し続けている。反応の中に、貴兄の言う「偽古典主義」──僕ならたんに「想起」(過去の音楽の)と言うが、とにかく「古典主義」を規範主義とは解さない──を織り交ぜ、森田の反応を待ちつつ全体に予期せぬ仕上がりを与えようとしている。

ところが森田については、彼の過去作をいくつか聞いてきたせいか、まったく違う感想を持ってしまう。自分と無関係に聞くこともできる。モジュラーシンセは玩具箱のようなもので、一人で実に多様な「合奏」をすることができるだろう。インド古典音楽を一人のモジュラーシンセ奏者が再現(?)したアルバムを聴いたことがあるが、ほんとうに何世紀も前のバンドのようであったし、森田が一人「フリージャズ」を試みてきたことは貴兄も知っての通り。けれども、しばらく前から、森田はそのことに不満を抱いているように僕は感じてきた。演奏において他者を必要としない、ということに。一人でやっていてはいつまでたってもこれは「おれの楽器」にならないではないかと思いはじめたのでは、と。言わばモジュラーシンセを真っ当な一つの楽器にすべく、彼は「反応」してくれる相手を求めはじめたのでないか、と邪推している。それ自体は肉声からもっとも遠い電子音の玩具箱を、肉声にする努力? アノニモ夫人との合作にはそれをはっきり感じた。その相手が今回は貴兄だったのかもしれない。一人で弾く貴兄のキーボードシンセは、モジュラーシンセの相手としてはアナログ楽器だ。一つの、一人の声。アルバムのはじめのほうは、どこが二人なの? 森田のソロアルバム? と聞こえていたが、だんだん〈デュオ〉に聞こえるようになって僕はなぜか安堵した。

ひょっとすると、これは僕の個人的音楽体験史に根差し過ぎた感想かもしれない。というのも、僕にとってパンクもポストパンクも、PILの「フラワーズ・オブ・ロマンス」ぐらいで終わってるのよ。その「あと=ポスト」はほとんど存在していない。基本的にボーカルと打楽器だけ、ギターもベースもなし(実際には色々音色は入っているのだが)で、ロックにできるという証拠に触れて、僕は僕の古典たる「歌」に回帰していったようなところがある。どんな楽器も音楽も「歌」として聴く、というか。以降、ボーカルを入れない、あるいは声を楽器の一つと見なすかのようなバンド──例えばCAN??──はどこか遠ざけてしまっている。萩原健一を超えるパンク歌手が現れないことがすごく不満である。ノイズミュージックには正直に言って、どこか肉声へのコンプレックスを感じてしまう。肉体に近づきたいなら歌えよ、みたいな。

貴兄たちの〈デュオ〉がこれからどうなっていくのか分からないが、貴兄のキーボードがPILの前記アルバム中の≪Francis Massacre≫におけるジョン・ライドンの歌のように聞こえるようになったとき、少なくとも貴兄は紛れもないもない「偽古典主義」者だと僕は納得するよ。まさにポストパンクの「マック・ザ・ナイフ」だったもんな、あれは。森田に手伝ってもらえ。

市田良彦