まとめ220321

2022年3月21日

市田良彦さま

ひどい空音に襲来されていた時期がある。空襲警報が鳴り響いた。カチカチ山が騒音に包まれ、ケツに火がついたみたいだった。まことの耳鳴りだったが、それは空耳と区別がつかないていのものだと感じた。頭がおかしくなったと思い、その騒音のなかに電波メッセージを聞き取ろうと躍起になった。ある意味、僕が言葉に取り憑かれているのは自分でわかっているが、そういうことではない。これはチャンスだ、やっと僥倖が訪れた、と考えた。意味のある言葉がノイズのなかから浮き上がるのを待った。君もそうだと思うが、僕はそれまで狂気の発作に見舞われたことはなかった。これでやっとひとかどの人間になれる! ホワイトノイズのテレビ画面に未来画像が一瞬映るかもしれない。以前からそんな映像を見てみたかった。やったね! ……だがいくら集中して耳を傾けようと、神の託宣も悪霊の囁きもない。今にも開かれようとしていた人生の局面が消えてしまったようで落胆した。ただ延々と雑音が続くだけだったのだ。

もちろん音楽を聞いているときもこれは止まない。ワーグナーを聞こうと、シェーンベルクやヴェーベルンでさえ騒音は共演していた。この場合は静かに共演していたといっていい。逆に騒音がましになり、打ち消され、それなりに聞こえなくなるのは、お察しのとおり、パンクや、ノイズミュージック、フリージャズ、シュトックハウゼンかクセナキスくらいだった。ただ単に音量と密度の問題だ。何を聞き取ろうとするのか、リスナーの心づもり、姿勢の問題かもしれない。だがいずれにしてもノイズとのバランスはとれない。

寝ているときはさらに悲惨だった。あたりが静まり返ると、耳のなかは川流れの音と蟬の啼き声で満たされた。蟬の声も凄まじい。電気的でもあるし、コロイド状であると言ってもいい。むろん眠りを妨げる。不眠症なのでさらに眠られない。身体の片隅が身体の一体性を絶えず妨害し続ける。そいつは身体のなかを遠慮なく流れ続けた。だが川が流れ込み、その流れが終わる大海はからだのなかに見出すことができない。耳から耳。ただそれだけ。頭のなかでよけいに増幅が起きる。

不眠のノイズを聞きながらジョイスの奇書『フィネガンズ・ウェイク』の冒頭を思い出した。《riverrun》。川流れ。川走り。冒頭の一文を意味だけ訳すとこうなる。「川流れは、イヴとアダムの教会を越え、海岸を迂回し湾のカーブに沿って、車の行き交う快適な村を通り、ホース城とその近郊まで我々を連れてゆく」。これでは忠実な訳とは言えない。柳瀬尚紀ならこう訳す。「川走(せんそう)、イブとアダム礼盃亭(れいはいてい)()ぎ、く()岸辺(きしべ)から()(きょく)する(わん)へ、(こん)()()せぬ(めぐ)(みち)媚行(びこう)し、(めぐ)(もど)るは栄地(えいち)四囲委蛇(しいいい)たるホウス(じょう)とその周円(しゅうえん)」。これはもうほとんどノイズだ! 『フィネガンズ・ウェイク』の「英語ではない英語」を最後まで読んだ人が世界に何人いるのか知らないが、この本がたとえノイズとミュージックコンクレートのつぎはぎだとしても、このノイズが読者をどこかへ連れて行ってくれることは確かだろう。しかし僕の川流れはどこへも連れて行ってはくれない。『フィネガンズ・ウェイク』のように企まれた謎が介在する余地がない。ミステリーがない。ただ音が、ノイズが、走って音を追いかけ、増幅し、あるときはものすごい塊になるだけ。これが「音楽」につながるのかどうか結論が出せない。余興みたいなものだと言われればそうだが、四六時中なのだから迷惑な話だ。耳鳴りは今でも治っていないが、軽度にはなった。半端な騒音ではなかったので、ああ、ただの耳の病気か機能的問題だと気づくのに十年以上という歳月を要することとなった。どうせ無駄だと思ったし、医者には行っていない。
続きはまた。では。

鈴木創士





2022年4月29日

So-siくん、

そう来たか、ジェイムズ・ジョイスか。ノイズ・ミュージックはさしあたり『フィネガンズ・ウェイク』の「ような」ものか。最後までそうであるかはさておき。前々から小説家としてのきみにいつか聞いてみたいと思っていたことがあった。いちおう文章を書く人間としてのおれには「できない」と思うことを、きみはときどきやる。小説と論文の違いの問題ではない。きみはとても論理的な文章も書くし、おれは小説のようであろうと意識して文章を書いたこともある。けれどきみはおれが自分には「できない」と自覚していることを、平気でなのか、そこになにかを賭けてなのか、すすんでやる。それが「ような」とか「ように」と書くことだ。おれはそれを意図して避けてきたように思う。

きみがそう書いているのを目にするたびに思い出す。「手術台の上でのミシンとコウモリ傘の出会いのように」。「ような」とか「ように」ときみが書いているのを見ると、オレはまだシュール・レアリストだぞ、と、きみが宣言している「ように」聞こえるんだ。アンドレ・ブルトンを引き継ぐ覚悟には敬服する。ブルトンが良い悪いではなく、自分の「作品」をどこにどう置くかをきちんと知っているということに脱帽する。おれに対し、ああおれはいつの頃からかシュール・レアリズムからも、さらに「文学」からも遠ざかろうとしてきたんだな、と思い起こさせてくることに感謝さえする。きみにも言ったことはあると思う。おれは今、ほとんどの小説が読めないんだ。入っていけない。

それは多分、「ような」/「ように」が言語以前にある──と想定される──心的経験なのか世界なのかを「隠喩」してしまうからだ。言葉はそれ自体でなにかしらの現実の隠喩なのか? それが「心の闇」であろうと、「いまどきのリアル」であろうと、「狂気」であろうと、言葉がその隠喩的表現であろうとしていると感じたとき、そんなものには興味がない、とその言葉に向かって言いたくなる。そんなもの、知ってるよ、いまさら言われなくても、と。歴史的蓄積のあるこれだけの情報社会(!)で、言葉で、それも喩えてみせる言葉でしか伝えられないものなんてあるのか。歴史を、年寄りを、なめんなよ。喩えなくていいから、情報だけくれ。

とはいえ、かく言うおれも、自分の書くものは「歌」の「よう」であってほしいと願っている。おれの文章は世界の隠喩でなくとも音楽だ! 踊りだ! と見栄を切りたい気分を、論文を書くときにも持っている。特に助詞の使い方と文末処理には「リズム」を賭けている。フランク・ザッパについて書いたときには、頭のなかでずっと彼の『黙ってギターを弾け』を流していた。CDを聴きながらではない。そんなことをすれば同調できない。おれは無音の状態でしか文章を書けない。たったいま頭のなかで流しているのは「ブラウン・シュガー」だ。もうコンサートで演奏しないというニュースを耳にしたから、おれがキースとミックの代わりに演ってやるぜ、ぐらいの心持ちでいる。

この差はなんなのだろう。きみの意見をぜひ聞かせてほしい。

「同調」と書いてしまったことに関連して、少し補足しておく。「ような」/「ように」を目にするたび、ほとんどの小説を読むたびに、おれは世界から遠ざけられた気分に陥る。隠喩は、隠喩されるものからは離れていることを前提にするからだろう。隠喩は世界との同調を妨げる。だから逆に、世界からいったん離れるために音楽に没入する時間もおれにはある。なに、ごくありきたりな効用さ。イヤホンをつければ外界から自分を一定遮断できる。そしてスピーカーから大音量でノイズミュージック──例えば先日の森田潤のライブアルバムな──を流せば、それが世界そのものになるから、つまり現実世界の隠喩たりうるほどリアルさを乗っ取ってくれるから、隠喩されたリアルな世界を一瞬忘れることができる。ああ、イランのペルセポリス神殿でクセナキスの「ペルセポリス」を聴きたかった! ベートーヴェンではもう隠喩にさえなれない。いっとき自分でマスタリングすることに凝った裸のラリーズの客録り音源も、おれにはもうだめ。いったいどうしてだろう。

市田良彦





2022年5月20日

親愛なる友、

君の質問に答えなければならないね。君が指摘する僕の文章、とにかくそれは「文学」だ。「……のように」だが、「直喩」でも「隠喩」でもいい、そいつは「現実」の裏をかき、その断片をかすめ取るためにあるんじゃないかと思ってきた。現実の網目の見えないタガを「外す」ためだ。蝙蝠傘もミシンも手術台も現実だけど、それは「ように」によってたしかに「世界から遠ざかる」。しかしまず言葉が言葉の「隠喩」なのだから、この隔たりによって逆に現実が遠く透けて見えることがある。僕はそれに賭けている。現実はデータによってできているわけではないし、現実との「同調」もまた「真理」にとって一つの「言葉」、つまり隠喩じゃないかな。小説にも色々あるが、現実の機微を捉えることはあると思う。

現実の裏をかく、いや、文学はやはりそれだけじゃない。つまり小説でも詩でもいいが、「文学」で何が問題となっているかといえば、実は「実在」が何であるかということだと僕は考えているんだ。僕にとって文学がそういうものでなければ、馬鹿の一つ覚えみたいにこんなに長い間「文学」に拘泥することはできなかった。今度の本『芸術破綻論』でもそのことに触れている、というかそのことしか問題にしていないとも言える。哲学者の君に即していえば、哲学だって「実在」が何であるかという問いは中心の近傍にあるだろうが、哲学もそのために「表現」するじゃないか。言葉の審級が異なるだけだ。

ボルヘスは(ちゃんと本を参照したわけでなく、記憶で引用するので不正確かも)、文学の歴史というのは幾つかの隠喩の抑揚から成り立っていると言うんだが、これにはさすがに僕にもいささか異論があって、じゃ、何のために「隠喩」があるんだという問いが頭をもたげてしまう。

そういう意味でそもそも「文学」は「破綻」していると僕は考えているんだ。「すぐれた」(!?) 文学はなおさらそうだ。そもそも「表現」は、表現主義は、最良の手段ではなく、破綻の一端だ。「文学」の本質は孤独ではなく破綻にある。だから「上手く」破綻できればどんなにいいだろうかとも思うんだ。でも正直に言えば、いかに現実から遠ざかるにしても、いろんな意味で「破綻した」人間である僕に残されたものは、そんな「文学」だけだったというのが実情であるのかもしれない。

だけど僕だって文学にうんざりすることがある。で、何で「音楽」をやっているのか? あえて言うなら、一つには音楽はこの問いを不問に付してくれる気がするときがあるからだ。それが幻想でしかないにしても。君が「音楽」を鳴り響かせながらリズミカルに文章を書いているのはよくわかるし、書き手としてさすがだと思う。でもそれだって「文学」だよ。最良の意味でね。マルクスにもアルチュセールにもそういうところがあった。ところで、君の名著『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』を僕は小説のように読んだよ。君の意に反するだろうが、哲学の門外漢である僕からすればこれは誉め言葉なんだ。だからといって君が「小説」を読む必要はないし、それでいいじゃないか(何なら『カラマーゾフの兄弟』でも読んでみるか?)。いずれにしろどれも面倒な実験だし、現実を書くこと、現実への接近の仕方は一つではないと思う。

一つ反論がある。僕は若いときさんざんブルトンを読んでたぶん思想的にも影響を受けたし、その点でブルトンに借りがあるが、今の僕はシュルレアリストではないな。正直言って、シュルレアリスムにもシュルレアリスムの「美学」にも飽きた。ブルトンに借りは返していないが、前回書いたように、僕は(偽の)古典主義者なんだ。

鈴木創士





2022年6月25日

So-siどの、

『カラマーゾフの兄弟』の代わりに、最近の小説を一つ読んでみた。君から文学者──「文学的な人」ぐらいの意味か──として認めてもらえたからというばかりではなく、誕生日プレゼントに「騒音書簡」の読者からもらったので。文学オンチ、比喩アレルギーのお前にはちょうどよかろう、と。『鑑識レコード倶楽部』という。ぜひ読まれたし(今度のライブに持っていくよ)。まさに我々の寓話だ。読後、少なくとも俺はコロッケにものまねされた岩崎宏美のような気分である。著者マグナス・ミルズのことはまったく知らないが、カリカチュアされる栄誉を味わっている。「音楽を語る」ことのカリカチュア。

3通目の手紙を送ってから、我々の間には手紙の交換以外にもう一つ出来事があった。君たちのライブである。久しぶりに聴いた。轟音にさらされて久しぶりにアレルギーが出た。ようやく消えかかっているところなので、来週のライブがちょっと心配ではある。とにかく今回の返信は、君からの手紙と先日のライブと予期せぬ読書経験の三つに対し、同時に反応してみたい。

これが君の言う「破綻」なのであろう。それを強いるものなどなにもなく、俺はただ往復書簡という規範を守って前の手紙に反応しているだけでよいのに、勝手に他の因子をこの場に引き入れている。他の因子は偶然ですらない。無視してもよいのだから。往復書簡というこの場の形式は、君にとっての「古典主義」のようなものかもしれない。それがなければ「破綻」が不可能なもの。先日のライブもその意味では立派に「古典主義」的であった。君は他のメンバー、特に俗に言うリズム隊の3人にうまく「破綻」させてもらっていた。その全体への森田潤の介入も、40年以上かけて成立した「EP-4サウンド古典主義」をうまく「破綻」させていた。

しかしちょっと待ってほしい。今回の「破綻」がなければ、俺があの場で思い起こさずにいられなかった、つまり俺の頭のなかで同時に鳴っていた昔日のEP-4の音は「古典」にさえならなかったではないか。君たちは何十年もバンド活動をしていなかったのだから。あの音はこの世から消えていたのだから。ライブから帰って、思わず聴き直してみた(今ではAppleのサブスクで聴ける──佐藤薫はそのことを知らなかったが)。「破綻」のありようを確かめたかったわけだ。その結果として言う。俺は偽であれほんものであれ「古典主義者」にはなれんな。

というのも、俺にはセロニアス・モンクが「破綻」しているとは思えんのよ。というか、前にも書いたが俺にとって「はじまり」をなすあの音を、「破綻」ではないものとして受容できるよう、俺は修行してきたのではないかと先日のライブを聞いてあらためて思ったのよ。一人であの音を出すことは難しくても、バンドならそれが可能で、それを希求する者たちの系譜が確実にあり、君たちもそこに連なろうとしているのではないか。いや、妄想的に言う。連なることを目指してほしい。« Sister Ray »のヴェルヴェッツ、 何作かのミンガス、« Les Stances à Sophie »のアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、« Last Date »のドルフィー(一曲目はモンクのカバーだ)等々、いくつものバンドが先人として頭に浮かぶ。それは俺の密かな言い方では、バンド音楽を「盆栽」にしないことに賭けてきた者たちの系譜で、君がひょっとしてノイズ・バンドなどという有難いのかそうでないのかよく分からんカテゴライズを受け入れてやろうとしている音もそこに連なるのかも──電子音を使ってな──とあの夜思った。日本にはジャズでもロックでもうまいバンドはいくらでもいる。けれどもいくらそれに感心しても、感心しているその瞬間、俺は盆栽を愛でる気分になっている自分に気づいて嫌になる。森の野生を忘れてしまったのか、と。どんなバンドの音も必ず音楽史のそれなりの総括と縮図になる。そのようにしかバンドは聴くことができない。そこに「古典主義」もその「破綻」もない、と俺には思える。盆栽か森か──比喩である。

俺があの夜耳にし、次のライブでも聴きたいと思っている演奏はもちろん幻だ。その幻の音を『鑑識レコード倶楽部』は、人前ではかけられずに終わる無タイトルのデモ盤として登場させた。この倶楽部は「コメントなし評価なし」にレコードを聴くという盟約に結ばれた者たちの集まりで、自分語りとセットでしか音楽を聴かない「告白レコード倶楽部」と対立している。「鑑識」派からは、沈黙の掟に耐えきれず、周辺的蘊蓄なら喋ってもよしとする「認識レコード倶楽部」という分派が生まれた。今回の手紙で書いたことも「鑑識派」と「告白派」と「認識派」の混淆でしかない、と俺は知っている。次のライブを楽しみにしてるよ。幻の電子版モンクを聴かせてくれ。

市田良彦





2022年7月28日

こんにちは

君と同じように「比喩」を嫌悪している作家マグナス・ミルズの『鑑識レコード倶楽部』を読ませてもらったよ。だけど俺にはこの比喩の拒否はこの作家特有のレトリックにしか見えなかったし(たとえそれが彼の長きにわたる経験に裏打ちされたものであるとしても)、この小説全体がそもそも何かの「比喩」のようではないかと感じた(それが小説というものの本性かもしれんが)。政治的寓意、集団的寓意という点では、俺の訳したベルナール・ラマルシュ=ヴァデルのフェイク・バロック小説『すべては壊れる』のほうが俺にはしっくりくる。この政治的集団的寓意は「死」に包囲され、現代の死体解剖所見となっているのだが、作家本人も頭をピストルでぶち抜いて自殺したのだからオチまでついている。まあ、自分が訳したのだから、単なる手前味噌なんでしょうが。

それはそうとして、音楽を聴くということについては、この小説が語るように、ノーコメント派(鑑識派)、告白派、認識派がいるというのは確かにそのとおりだろうし、なかなか言い得て妙だった。鑑識派の主眼は四の五の言わずに「聴く技を磨く」ことなのだから、究極的には聴くことから「思考」を追い出すことが求められることになりそうだ。「感情」については言うまでもない。この場合、「感覚」なるものはどのあたりにあるのだろう。しかしそこまでいけばこの試みは至難の技だ。モンクについて君が俺たちunitPに要求するように、「モンクのように」に試みるとして(これにかなり深い意味があることは俺にはわかるが、こんな要求は無謀だよ)、どうやって「思考」を追い払えばいいのだろう。

演奏しているときに何も考えないでいることは俺の課題なんだ。ただしあれこれ考えたほうがいいときもある。盆栽音楽については、凡庸な思考の臭いがぷんぷんするだけで、肝心の内容がそっちのけのものや、逆に内容盛り沢山でもミュージシャン臭で辟易するものがあるが、君が盆栽音楽を退けるのはうなずける。音楽は鑑賞するものじゃない。趣味でもない。告白派そして認識派には盆栽を愛でる傾向がある。

ところでこの本で一番はっとした箇所がある。パブの臨時女給でミュージシャンでもある、この小説の隠れた主人公ともいえるアリスが、鑑識派の「俺」に放った言葉だ。《「あんた、ここで何してるわけ」アリスは言った。「あんたそもそも、音楽なんて好きじゃないじゃない」》。お前そもそも、音楽なんてどうでもいいじゃないか! 音楽を聴くふりしているだけだろ! ああ、なるほどそういうことがあるな。アリスの言うとおりだ。彼女はミュージシャンなのだから、とだけ考えてはいけない。だけど俺は音楽が好きなのだろうか。まったく音楽を聴く気がしなかったり、受けつけないときもあるが、たぶん好きなのかな。君はどうなんだ。佐藤薫はどうなんだろう。こんな馬鹿げた質問を彼にしたことはないが、佐藤はオーケストラの指揮者のようなものだから、誰よりも音楽を注意深く聴いてきたことは確かだ。聴いてきた音楽の範囲もとても広い。それは俺が保証する。でも音楽を注聴することは音楽を愛することなのか。それとも佐藤の頭のなかでは、音楽ではなく、音が鳴っているだけなのか。音楽が好きというのは何のことなのか。

こんなことを思ったのは、もうひとつには、先日、氷川きよしをテレビで見たからだ。彼のビジュアル的変貌はとてもいい選択だったと思うが、その番組で氷川はジャズのスタンダードを歌おうとしていた。嫌悪していた演歌をずっと無理やり歌わされてきた腹いせはよくわかるが、歌ったジャズのスタンダードはひどいものだった。相変わらず彼の歌う節回しはジャズではなく、演歌のままだった、というようなことが言いたいのではない。でも俺にはわかったんだ、こいつは音楽が好きじゃないな、って。

鈴木創士