2022年12月29日
鈴木創士兄、
困るなあ。僕は貴兄たちのアルバム──LAST CHANCE IN KOENJI──を批評するのに適任ではないと思うぞ。特に批評を貴兄が求めているのではない、ということは僕も分かっているつもりだが、何を書いたところで「騒音書簡」には読者がいる。顔も人数も分からない公衆という存在がいて、彼らには僕が何を書こうが書くまいが、それは批評になってしまう。書く側としては、作品を批評するにはある種の無関係が作品との間に必要であるのに、僕はどうしてもこの「騒音書簡」という〈デュオ〉における貴兄を、鈴木創士vs森田潤のそれに投影して聞いてしまう。そんなこと気にしなくていいじゃん、と読者も貴兄も思うだろうが、こちらにそれは無理。この無理を読者には分かってもらえないと思う。というか、この〈分かってもらえないかも〉という関係が、僕が何かを批評するには対象との間で必要なんだ。おれとおまえは関係ない、だからおまえについて何ごとかを書ける、それを他人に読ませることができる──そういう次第。以下はそれを踏まえて読んでいただきたい、皆様。
アルバムに即して具体的に言うと、森田潤を相手にする貴兄と、僕が「騒音書簡」で知っている貴兄がどうしても被ってしまう。貴兄は自分でも書いているように、よく「聞く人」だ。共同作業の現場で、とりあえず自己主張したいというような類の人ではない。相方(たち)との間には決して「非和解的関係」など設定しない。アルバムの貴兄は森田潤に反応し続けている。反応の中に、貴兄の言う「偽古典主義」──僕ならたんに「想起」(過去の音楽の)と言うが、とにかく「古典主義」を規範主義とは解さない──を織り交ぜ、森田の反応を待ちつつ全体に予期せぬ仕上がりを与えようとしている。
ところが森田については、彼の過去作をいくつか聞いてきたせいか、まったく違う感想を持ってしまう。自分と無関係に聞くこともできる。モジュラーシンセは玩具箱のようなもので、一人で実に多様な「合奏」をすることができるだろう。インド古典音楽を一人のモジュラーシンセ奏者が再現(?)したアルバムを聴いたことがあるが、ほんとうに何世紀も前のバンドのようであったし、森田が一人「フリージャズ」を試みてきたことは貴兄も知っての通り。けれども、しばらく前から、森田はそのことに不満を抱いているように僕は感じてきた。演奏において他者を必要としない、ということに。一人でやっていてはいつまでたってもこれは「おれの楽器」にならないではないかと思いはじめたのでは、と。言わばモジュラーシンセを真っ当な一つの楽器にすべく、彼は「反応」してくれる相手を求めはじめたのでないか、と邪推している。それ自体は肉声からもっとも遠い電子音の玩具箱を、肉声にする努力? アノニモ夫人との合作にはそれをはっきり感じた。その相手が今回は貴兄だったのかもしれない。一人で弾く貴兄のキーボードシンセは、モジュラーシンセの相手としてはアナログ楽器だ。一つの、一人の声。アルバムのはじめのほうは、どこが二人なの? 森田のソロアルバム? と聞こえていたが、だんだん〈デュオ〉に聞こえるようになって僕はなぜか安堵した。
ひょっとすると、これは僕の個人的音楽体験史に根差し過ぎた感想かもしれない。というのも、僕にとってパンクもポストパンクも、PILの「フラワーズ・オブ・ロマンス」ぐらいで終わってるのよ。その「あと=ポスト」はほとんど存在していない。基本的にボーカルと打楽器だけ、ギターもベースもなし(実際には色々音色は入っているのだが)で、ロックにできるという証拠に触れて、僕は僕の古典たる「歌」に回帰していったようなところがある。どんな楽器も音楽も「歌」として聴く、というか。以降、ボーカルを入れない、あるいは声を楽器の一つと見なすかのようなバンド──例えばCAN??──はどこか遠ざけてしまっている。萩原健一を超えるパンク歌手が現れないことがすごく不満である。ノイズミュージックには正直に言って、どこか肉声へのコンプレックスを感じてしまう。肉体に近づきたいなら歌えよ、みたいな。
貴兄たちの〈デュオ〉がこれからどうなっていくのか分からないが、貴兄のキーボードがPILの前記アルバム中の≪Francis Massacre≫におけるジョン・ライドンの歌のように聞こえるようになったとき、少なくとも貴兄は紛れもないもない「偽古典主義」者だと僕は納得するよ。まさにポストパンクの「マック・ザ・ナイフ」だったもんな、あれは。森田に手伝ってもらえ。
アルバムに即して具体的に言うと、森田潤を相手にする貴兄と、僕が「騒音書簡」で知っている貴兄がどうしても被ってしまう。貴兄は自分でも書いているように、よく「聞く人」だ。共同作業の現場で、とりあえず自己主張したいというような類の人ではない。相方(たち)との間には決して「非和解的関係」など設定しない。アルバムの貴兄は森田潤に反応し続けている。反応の中に、貴兄の言う「偽古典主義」──僕ならたんに「想起」(過去の音楽の)と言うが、とにかく「古典主義」を規範主義とは解さない──を織り交ぜ、森田の反応を待ちつつ全体に予期せぬ仕上がりを与えようとしている。
ところが森田については、彼の過去作をいくつか聞いてきたせいか、まったく違う感想を持ってしまう。自分と無関係に聞くこともできる。モジュラーシンセは玩具箱のようなもので、一人で実に多様な「合奏」をすることができるだろう。インド古典音楽を一人のモジュラーシンセ奏者が再現(?)したアルバムを聴いたことがあるが、ほんとうに何世紀も前のバンドのようであったし、森田が一人「フリージャズ」を試みてきたことは貴兄も知っての通り。けれども、しばらく前から、森田はそのことに不満を抱いているように僕は感じてきた。演奏において他者を必要としない、ということに。一人でやっていてはいつまでたってもこれは「おれの楽器」にならないではないかと思いはじめたのでは、と。言わばモジュラーシンセを真っ当な一つの楽器にすべく、彼は「反応」してくれる相手を求めはじめたのでないか、と邪推している。それ自体は肉声からもっとも遠い電子音の玩具箱を、肉声にする努力? アノニモ夫人との合作にはそれをはっきり感じた。その相手が今回は貴兄だったのかもしれない。一人で弾く貴兄のキーボードシンセは、モジュラーシンセの相手としてはアナログ楽器だ。一つの、一人の声。アルバムのはじめのほうは、どこが二人なの? 森田のソロアルバム? と聞こえていたが、だんだん〈デュオ〉に聞こえるようになって僕はなぜか安堵した。
ひょっとすると、これは僕の個人的音楽体験史に根差し過ぎた感想かもしれない。というのも、僕にとってパンクもポストパンクも、PILの「フラワーズ・オブ・ロマンス」ぐらいで終わってるのよ。その「あと=ポスト」はほとんど存在していない。基本的にボーカルと打楽器だけ、ギターもベースもなし(実際には色々音色は入っているのだが)で、ロックにできるという証拠に触れて、僕は僕の古典たる「歌」に回帰していったようなところがある。どんな楽器も音楽も「歌」として聴く、というか。以降、ボーカルを入れない、あるいは声を楽器の一つと見なすかのようなバンド──例えばCAN??──はどこか遠ざけてしまっている。萩原健一を超えるパンク歌手が現れないことがすごく不満である。ノイズミュージックには正直に言って、どこか肉声へのコンプレックスを感じてしまう。肉体に近づきたいなら歌えよ、みたいな。
貴兄たちの〈デュオ〉がこれからどうなっていくのか分からないが、貴兄のキーボードがPILの前記アルバム中の≪Francis Massacre≫におけるジョン・ライドンの歌のように聞こえるようになったとき、少なくとも貴兄は紛れもないもない「偽古典主義」者だと僕は納得するよ。まさにポストパンクの「マック・ザ・ナイフ」だったもんな、あれは。森田に手伝ってもらえ。