騒音書簡2-12

2023年2月28日

同志Sô-siへ、

歌……ゴダールは映像 image と音 son からなる映画 film を≪Notre musique≫(我らの音楽)と呼んだが、僕は音楽と言葉からなるものを「歌」と考えたい。というかそう思っている。音楽と詩を結婚させれば総合芸術としてのオペラが出来上がる、と見なしたワグナーに倣いたいわけではない。音楽に言葉を乗せたり、逆に言葉にメロディーを付けたり、という「歌」作りのノウハウは、いつかはともかく〈後〉からできたもので、あくまで〈はじめ〉に「歌」ありき。音楽よりも言葉よりも先に。

とはいえルソーばりの「自然状態」を信奉しているわけではない。鳥の囀りに音楽と言語の共通の根を置くようなね。そんなものはまさに〈後〉から成立した幻想か、「曲=歌」作りのための一種の作業仮説だ。

「歌」が音楽と言葉からなるという状態はむしろ、音楽と言葉の分裂を指し示しているように思う。音列だけがあるのに言葉を聞き取ってしまう、言葉の意味の向こうに音楽を聞いてしまう、その経験が僕の言う「歌」だ。ある曲に別の曲を重ねてしまう場合も、過去の詩から別の詩を作るときでも、僕に言わせれば「歌」を作っている。「今」の「私」、「私」の「今」を分割している。一方に身体を、他方に観念を置いても同じこと。懐かしく知っているものと、味わったことのない感覚の交差。そして、この状態について僕にもっともしっくりくる記述はパスカルのものだ。「人間はかくも必然的に狂っているので、狂っていないことも、狂っていることの別の顔であるだろう」。分かりやすく、同時に「二つ」であることと言ってもいいけれども、この「二つ」の共存と交代に人間はふつう耐えられない。だから「歌」を、狂気と理性のように音楽と言葉に分離してしまう。それでもほんとうは「一つの回転体」だと知っているから、気づいているから、分離した上で総合を考える。「回転体」をねじ伏せようとする。それがワグナーであり、ルソーであったろう。

ねじ伏せる別のやり方が、一方では純粋音楽に立てこもりつつ、他方で「これ」こそ詩であると宣う(逆でもいい)、「二つ」を互いのミメーシスである関係におくような美学であるだろう。音楽を詩の、詩を音楽の隠喩であるかのごとくに語る立場だと言ってもいい。この書簡の最初のほうで述べた僕の隠喩嫌い(前回も振り返ったはず)は、間違いなくそういう美学や語りへの反発から来ている。昔話をして恐縮だけれども、もう15年も前の本になる僕の『ランシエール──新〈音楽の哲学〉』はそんな反発をベースにしていた。ランシエールには僕の個人的な反発の歴史的由来を教えてもらったような気がして、今でも感謝しているけれども、あの頃も今も、あるいは今ではいっそう、ではどういう「歌」ならそんな隠喩ごっこ──そう言ってしまおう──を抜け出せることになるのか、という点では、彼には不満がある。抜け出そうとするのは一種の前衛主義で、それこそ近代美学の最たるものだ、と言うに止めるからである、彼は。美に宗教の後継を見ておしまいにするから、と言い換えてもいい。かつての神の位置に、あるときから人間は美を置いた。いずれにしても、隠喩するものとされるもの(人間と神、音楽と詩、等々)の間には「似姿」の関係があり、どちらが根本的モデルというわけではなく、ただ相互送付する隠喩があるのみ。そう主張するランシエールに対しては、僕としては、音楽や文学は宗教の代わりに果たしてなれたのか、と強く思う。パロディーにはなれたかもしれないが。

彼がけっして見ようとしないのは、美が一つの規範であること。醜くては、かっこ悪くてはいけない、とそれは命じる。そんな規範は、間違えるなとか正しくあれという別種の規範(論理的規範と倫理的規範)の否定としてしか存立しえない。意味を持たない。オレはろくでなしだがかっこいいだろ? それが美というもの。そして諸規範にはすべてを支える最高規範、普遍的規範などない代わりに、規範に合わせよう、正常化しようとする機能的一致がある。思い切り端折って言ってしまえば、狂うな、パスカルを認めるな、それが諸規範の収斂点において発せられる命令だろう。

だから僕の言う「歌」は、これも端折って言ってしまえば、音楽や詩によってたえず正常化されよう(美しい何かに変えられよう)としているノイズ、雑音、騒音なのよ。音楽と言葉の合体に孕まれる「耐えられないもの」。狂え、とか、ひたすら轟音を出せ、とか、ましてアナーキーにやれ、というのとはまったく違う。そんなのは美的規範の一つにすぎない。ヤク中のオレってすごいだろ、みたいなツッパリにすぎん。もしくは、惨めな前衛主義。それよりはワーグナー的に「二つ」の幸福な結婚を追求しているほうがまし。そんな結婚はどうせ破綻するし。「耐えられないもの」がいつか頭を擡げる。「運命論者ジャック」かな? 現代ではノイズを言語として差し出すミュージックだけが「歌」だとわりと本気に思っている。狂人の私的言語ではなく、あくまで「通じる」言語として。そこにほとんど生歌のないことはやはり悲しいけれど。久しぶりにゴダールを見てそんなことを考えた。Notre musiqueは「耐えがたい」。これを美しいなどと言うな。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

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