2023年6月28日
創士くん、
せっかくだからアルトーに託けた話をもう少しだけ。君の音作りに一定親しみ、君の小説を読み、また「偽の古典主義者」だという君の自己規定を知るにつけ、常々考え込んでしまう問いがある。これのどこにアルトー的なところを見出せばよいのだろう。アルトーの写真を使ったライブもあったし、彼の声を使った動画もなかったか。そうした引用をさておいても、僕は君がアルトーについて直接語っていることに僕の問いに対する答えを見つけてはいけない気がしていた。そんなことをすれば、どんなアルトー愛好者の作品も「正しく」アルトー的と言わなくてはなるまい。作品レベルの違いが見えないどころか、固有にアルトー的なものなど何もないと言うに等しい。
この書簡を続けているうちに、分かったことが一つある。この書簡もまた君の作品であるとしてだが、君は全くもって非アルトー的な作品も作ることができるからこそ、君にとってのアルトーを血肉にすることができるのであろう。この書簡の君は彼からはかぎりなく遠い。僕は少なくとも、彼から手紙を受け取ったリヴィエールのような気分になったことがない。この往復書簡もいつまでも続けていけるような気がする。それは単純に、言葉をやり取りする上での「破綻」がないから。そして君はどうやら、振り返って君の他の作品を思い出すに、「破綻」を「作品」にしたいという衝迫と熱に駆られているようだ。爆音でスタンダートを演奏したいという呟き然り、ヴェーベルンと塹壕の風景を重ねる連想然り。君がライブで時折、耳に馴染み深いメロディーを無秩序な音群に挟み込むことなお然り。同じようなことを往復書簡でやられれば、僕のほうは「何を言っとるの?」でおしまいだろう。それをここでしないこと、持続的一作品化の可能性そのものが極めて危ういこういう場でそれを避けていることが、僕には君が「破綻」の作品化の何たるかを心得ている証のように思える。
「破綻」はプロセスだ。最初から壊れているものは端的な無や死や沈黙とほぼ変わるところがない。何も言わない。「破綻」もまた、行き着く先にそういう状態を眺望させるには違いないけれども、ほかならぬ「まだそこではない」という事態が、そんな終わりへの抵抗を感じさせる。つまりプロセスには「破綻」に逆行するベクトルもまた含まれている。そして作品になった「破綻」は、作品が終わる瞬間に、プロセスの全体をひっくり返す。この「終わり」は作品がそこから生まれたのと同じ「無」であった、「はじまり」の場所であった、と告げる。作者による「終わり」の宣告──ピリオドを打つ/演奏を止める──は、これ以上ない「破綻」と「無」への抵抗の言葉──〈我々は振り出しに戻ったにすぎない〉──であろう。アルトーは彼の詩を破綻させた「空虚」あるいは「狂気」に近づこうとしなかったか、近づくプロセスをその後の作品にしなかったろうか、と君の筆と音は僕に思わせてくれる。
だからこそ思う。こんなふうに対象化して言えてしまう現代とはいったいどういう時代なのだろう。一方において「破綻」しない言葉のやり取りを続けつつ、あるいはそれを続けることができるからこそ、他方において「破綻」の作品化を試みることのできる君──まっさきに思い浮かぶのは『うつせみ』だ──が生きた証人である、この現代とは。アルトーと同時代に生きていれば、少なくとも僕は今のようには彼や君の作品を読めなかったろう。彼があの時代に狂人であったとして、現代人である僕にはむしろ、一切の「破綻」を退けようとしてあらかじめ「書く」手法を作り、種々の手法に忠実であろうとしたがために作品を自死でしか締め括ることのできなかったルーセルのほうが端的に狂っているように見える。アルトーとは異なり、まともに読めない作品を機械のように書き続けた彼のほうが。自死以外の終わり方では「破綻」に屈したことになる、とでも言いたげだ。僕には、誰か一人を特に現代的な作家──小説家であれ詩人であれ音楽家であれ──として例に挙げることができない。作品を作ろうとする人たちの全体が、一人のレーモン・ルーセルのように思える。みんな、「ジャンル」の規則──これも手法には違いない──に汲々としているではないか。アルトーやルーセルがそれぞれの固有名を持って作家たりえた時代はむしろ幸福であったと思う。そして、そうだとすれば、本性的に「破綻」の繰り返しである「歴史」はほんとうに終わったのかもしれない、とも。
けっしてポストモダニズムに白旗を上げているのではない。アルトー的「破綻」とそのルーセル的欠如の間の隙間からいったいどんな作品が生まれてくるのか、とひたすら期待している。ひょっとすると人間はようやくホメロスの時代に戻りつつあるのかもしれない。まだ文字が一般人の間には存在しなかった時代の叙事詩は、「歌」でしかありえなかったろう。そうでなければ、いかに天才といえども作品を諳んじることはできなかったろう。文学にも音楽にも先立つそんな「作品」を目指してほしいと心の底から願う。ただ読めてしまう、聞けてしまう「作品」を。
この書簡を続けているうちに、分かったことが一つある。この書簡もまた君の作品であるとしてだが、君は全くもって非アルトー的な作品も作ることができるからこそ、君にとってのアルトーを血肉にすることができるのであろう。この書簡の君は彼からはかぎりなく遠い。僕は少なくとも、彼から手紙を受け取ったリヴィエールのような気分になったことがない。この往復書簡もいつまでも続けていけるような気がする。それは単純に、言葉をやり取りする上での「破綻」がないから。そして君はどうやら、振り返って君の他の作品を思い出すに、「破綻」を「作品」にしたいという衝迫と熱に駆られているようだ。爆音でスタンダートを演奏したいという呟き然り、ヴェーベルンと塹壕の風景を重ねる連想然り。君がライブで時折、耳に馴染み深いメロディーを無秩序な音群に挟み込むことなお然り。同じようなことを往復書簡でやられれば、僕のほうは「何を言っとるの?」でおしまいだろう。それをここでしないこと、持続的一作品化の可能性そのものが極めて危ういこういう場でそれを避けていることが、僕には君が「破綻」の作品化の何たるかを心得ている証のように思える。
「破綻」はプロセスだ。最初から壊れているものは端的な無や死や沈黙とほぼ変わるところがない。何も言わない。「破綻」もまた、行き着く先にそういう状態を眺望させるには違いないけれども、ほかならぬ「まだそこではない」という事態が、そんな終わりへの抵抗を感じさせる。つまりプロセスには「破綻」に逆行するベクトルもまた含まれている。そして作品になった「破綻」は、作品が終わる瞬間に、プロセスの全体をひっくり返す。この「終わり」は作品がそこから生まれたのと同じ「無」であった、「はじまり」の場所であった、と告げる。作者による「終わり」の宣告──ピリオドを打つ/演奏を止める──は、これ以上ない「破綻」と「無」への抵抗の言葉──〈我々は振り出しに戻ったにすぎない〉──であろう。アルトーは彼の詩を破綻させた「空虚」あるいは「狂気」に近づこうとしなかったか、近づくプロセスをその後の作品にしなかったろうか、と君の筆と音は僕に思わせてくれる。
だからこそ思う。こんなふうに対象化して言えてしまう現代とはいったいどういう時代なのだろう。一方において「破綻」しない言葉のやり取りを続けつつ、あるいはそれを続けることができるからこそ、他方において「破綻」の作品化を試みることのできる君──まっさきに思い浮かぶのは『うつせみ』だ──が生きた証人である、この現代とは。アルトーと同時代に生きていれば、少なくとも僕は今のようには彼や君の作品を読めなかったろう。彼があの時代に狂人であったとして、現代人である僕にはむしろ、一切の「破綻」を退けようとしてあらかじめ「書く」手法を作り、種々の手法に忠実であろうとしたがために作品を自死でしか締め括ることのできなかったルーセルのほうが端的に狂っているように見える。アルトーとは異なり、まともに読めない作品を機械のように書き続けた彼のほうが。自死以外の終わり方では「破綻」に屈したことになる、とでも言いたげだ。僕には、誰か一人を特に現代的な作家──小説家であれ詩人であれ音楽家であれ──として例に挙げることができない。作品を作ろうとする人たちの全体が、一人のレーモン・ルーセルのように思える。みんな、「ジャンル」の規則──これも手法には違いない──に汲々としているではないか。アルトーやルーセルがそれぞれの固有名を持って作家たりえた時代はむしろ幸福であったと思う。そして、そうだとすれば、本性的に「破綻」の繰り返しである「歴史」はほんとうに終わったのかもしれない、とも。
けっしてポストモダニズムに白旗を上げているのではない。アルトー的「破綻」とそのルーセル的欠如の間の隙間からいったいどんな作品が生まれてくるのか、とひたすら期待している。ひょっとすると人間はようやくホメロスの時代に戻りつつあるのかもしれない。まだ文字が一般人の間には存在しなかった時代の叙事詩は、「歌」でしかありえなかったろう。そうでなければ、いかに天才といえども作品を諳んじることはできなかったろう。文学にも音楽にも先立つそんな「作品」を目指してほしいと心の底から願う。ただ読めてしまう、聞けてしまう「作品」を。