騒音書簡2-24

2024年2月29日

創士くん、ついでに森田くんにも、

ひょっとして、と思いつつひと月経ってしまった。ひょっとして森田版『レクイエム』が送られてくるのではないか、その感想がこちらからの書簡第24葉になるのではないか、そうしろと創士くんは誘導しているのではないか、と思いひと月待った。しかし送られてこなかったので、僕はいま本家『レクイエム』を流しながらこれを書いている。森田版をなお待ちつつ(頼むよ、森田くん!)、僕にとって長く鬼門であったモーツァルトについて書いてみようという気になっている。

要するに歌謡曲なのよ、僕にとってモーツァルトは。それも、聞きたくなくても街中で不意に聞こえてくる流行歌。否が応でもメロディーその他を覚えてしまう音楽。僕が歌謡曲を必ずしも嫌うものではないことは、創士くんのほうはよくご存知。森田くんに聞かせたことはないけど、愛唱歌もある。フツーに上手くてキショいぞ、カラオケで歌えば周りが引いてしまうぐらいに。ところが歌謡曲の中には、好き嫌い以前に耳に入り込み覚えてしまうものがある。好きになる暇のないもの。いい加減にしてくれ、と言いたくなる。最初に習ったピアノの先生がモーツァルト好きで、音楽を学びたいならとにかく部分的にでもモーツァルトを弾いてみなさいと宣う人で、それを真に受けた子どもの僕は写経でもするつもりで練習したわけだ。たしかに和音、調性、音階を勉強するには実によかった。その経験は、のちに楽典を座学で勉強するときにベートーベンとともに役に立った。なるほどね、と数々の曲を思い出して納得できた。けれども、ここでも書いたかもしれないが、その先生のあまりのスパルタぶりに嫌気がさして、僕はピアノを投げ出した。モーツァルトとともに。再びピアノに向き合うきっかけがモンクであったことも書いたかもしれない。あ、これでもいいんだ、こんなピアノもありなんだ、と思えて文字どおり「蒙が啓けた」。

そういう個人史を傍に置けば、モーツァルトは実に啓蒙時代(18世紀)の音楽家であったと思う。文法とレトリックがあればなんでも言える、と言いたげな点で。彼にとっては音楽の言語、言語としての音楽は、言語そのものと同じようにすべてを表象可能。すべてを舞台に上げることができる。たとえ音からできていても、その「絵(タブロー)」、そこで「語られたこと」がすなわち世界。そうした「言語」の内部を司る合理性を手にした私は、どんな注文にも応えてみせましょう。トルコ風? ──了解! 貴族たちのアホさ?── おまかせあれ。誰も聞いたことがないにもかかわらず、誰でも知っていると思える曲を書いてみせましょう。私は「見えるもの」すべてを「言う」ことができます。彼こそ今日まで続く流行音楽の礎を築いた人ではないか。18世紀の秋元康のようなものか。

そして生涯の終わりに、彼はもう飽きたのではないか。何しろ『レクイエム』の主題は「死」である。啓蒙の光はあまねく届くが、届くからこそ、「死」を光の外に置くというアイデアを彼にもたらしたのではないか(バロック時代の「死」は身近にあった)。なんでも言える文法とレトリックには、言えないことが一つだけある。その「言えない」ということだ!『レクイエム』は間違いなく、『悪徳の栄え』や『美徳の不幸』と同時代であったろう。まだロマン主義(「感情」を表出する)ではない、しかしもう古典主義(可視的「世界」を描写する)ではない、転換点をなす「言語」がそれらにはある。それ自体が「見えるもの」と「見えないもの」の折り目をなす「語り」。それまでいっさい裏のなかった明るい世界が、果てまで広がっていきなり反転して裏地になり、表地と一体になる歴史的瞬間を、『レクイエム』はただ一曲で感じさせる。純粋啓蒙主義的モーツァルトとの関係においてね。音の世界はそのとき二重化されたのか、それとも一重に「戻った」のか。とにかくもう何も表象しない。典礼の詩はアブラカダブラでもよかったのではないか?ラテン語を解さない人間にも鑑賞できるくらいなんだから。

しかし『レクイエム』がある種の洗練の極において生まれたことに間違いはなさそうだ。楽器編成を変える(ファゴット!)ことは、以前との関係においてのみ「意味」を持つ。一つの洗練の仕方であって初めて。その意味で『レクイエム』のモーツァルトは僕には『ビッチェズ・ブリュー』のマイルス(バスクラとエレピ!)を想起させる。そして洗練はまた間違いなく今の僕に、歌謡曲は退屈だと思わせる要因でもある。一度文法とレトリックが出そろえば、多少の揺らぎを取り入れつつ、洗練はいくらでも可能であるだろう。J-POPとて洋楽の洗練にすぎない。思い返せばモンクの音は、僕には洗練とは無縁のところからやってきた。

それでも本家『レクイエム』を聞きながら思う。それが流行の転換点をなそうと一種の事故であろうと、折り目は言葉が自転しはじめることで生まれる。言葉が何かについて語るのではなく、自分について語りだし、「言語の存在」がクローズアップされるときに。創士くんが前葉で言う「音」自体、音の「物質的次元」というのは、僕に言わせれば、言語がそれについて「語る」はずの「物」の「存在」から区別されて、それ自体で「存在する」かのように何かを言いはじめる、その瞬間のことにほかならない。つまり宙に浮いた、しかしあくまで何かの「語り」ではある言語。

さて森田くん、きみの『レクイエム』を自分で注文するのを止めたのは、買ってしまえば聞くことをあらかじめ洗練の罠に閉じ込めてしまうような気がしたからです。僕はそれをあくまできみからの言葉として、きみの自筆の手紙として受け取りたい。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】毎日せっせと歩いている。坂道の上り下りはほとんど一人SMだな。