2024年6月29日
創士兄、
いやあ連載第27回、我々の27通目の手紙はようやく二重奏の真骨頂を見せましたな。喜ばしい。「経験」を主題に二つの旋律を同じ時間の中で絡み合わせている。オーネット・コールマンとドン・チェリーのよう(アルバム『フリージャズ』な)。二重螺旋たるこの連載では、それぞれの手紙に別々に返信が書かれるわけであるから、読者が月初めに目にするのは、ズレの生起と解消が同時に起きるドラマ──と言えば聞こえはいいが、ヘタクソな即興連弾だ──であり、ハーモニーはほぼ期待できない。その代わりに、読者には次回への期待が、我々には新たな書く動機が、毎回生産される。ところが第27書簡では、言わば和音による構造的制約なしに、上へ行く旋律と下へ向かう旋律が偶然の対位法を奏でている。
上へ行ったのは僕だ。僕は「経験」の中身についてはほとんど素通りしている。これまでも意図的にそうしてきた。もう少し説明しておくと、僕は「体験」と「経験」を微妙かつ決定的に区別している。例えば夢。それを見ている間、僕は夢を「体験」している。その中にいる。だからそれを一つの「夢」としては認知していない。ところが目覚めた瞬間、それは一つの「夢」になって、こんな夢を見たという「経験」になる。もちろん両方が混じり合う浅い眠りも存在するが、目覚めることのない眠りの中に夢の「経験」はない。そして他人にとって夢の内容はつねに「ああ、そうでしたか」の類のものでしかない。聞かされるほうとしては「つまらない」。面白さが生まれるのは夢に「経験」として意味を持たせていく 解釈 の過程からだろう。フロイトで面白いのはまさに夢解釈であって、報告されている夢内容ではない。解釈は必ずしも言葉として表現されるものではないだろう。立ち居振る舞いのすべてが、過去の「体験」を「経験」として(再)解釈した「表現」でありえる。ジャズマンのソロが典型的にそうだ。彼らの個性はつねに過去に聞いた──と現在思っている──音の再-現であるだろう。実際、英語のinterpretは解釈であり演奏であり演出である。
それに対し君は、「経験」の下、僕の言う「体験」の層に降りていく。もちろん、そこを「無知」や「残余」と間接的に呼ぶことで、君もまた解釈の次元に身を置いて「体験」と「経験」の差異を語っているように受け取れる。しかし君にはあくまで、解釈しきれない下層が解釈の表面にまさに「無知」や「残余」として浮上すること自体と、そのときの様相が問題のようだ。君にとって「経験」とは、けっして一つにはならない混濁した「体験」が表面に現れる際に受け取る形態としての「ゼロ」──無知の「無」にして解釈しきれない「残」──のように見受けられる。プレーヤーとしての君はそこに「ない」音を響かせようとする。「ない」を音にしようとする。違うだろうか。
とにかく僕には、第27書簡において、二人のコントラストが面白いものであった。僕はあくまで学者か分析家──解釈を解釈する者──で君は「体験」の表現者? これは僕の目にははっきり違うね。僕には君のほうが「経験」を掘り下げようとする態度においてよほど学者的であるように見えるし、僕のほうがこざかしくスタイル──あるスタイルはつねに別のスタイルの解釈だ──にこだわる表現者のように思える(実際、話をうまく組み立てることばかりに気を配っている)。なるほど『ネフェルティティ』に感じられる「掘り下げ」が『ビッチェズ・ブリュー』にはないかもしれない。ましてカーラ・ブレイはずっと「組み立て」の人だ。
しかし、レーモン・ルーセルに即して言わせてもらえば、作家である彼にとって「体験」はたった一つだ。長編処女作『代役』を書き上げた直後に味わった「栄光の感覚」のみ。ヘーゲルに言わせれば「思い上がりの錯乱」だろう(『精神現象学』「C:理性」章)。義賊となった『群盗』(シラー)の主人公にも認められる、ある意味ありふれた狂気。ただし、自分の味わった「栄光」を「経験」として解釈していくことがルーセルには作品制作そのものになった。「手法」を開発する礎になった。栄光「体験」以外の「経験」が彼には不要であったから、彼はどこに旅行してもカーテンを閉め切って外の景色を見ようとしなかった。彼は何の「掘り下げ」もしようとしなかった。あの「体験」はつねに彼とともにあり、彼の筆を照らす太陽であり続けたのだから。実際、『眺め』ではペン先に埋め込まれたガラス球が「世界」を文字通り在らしめる。そして『新アフリカの印象』。僕には今ではこの作品がフリージャズの遠い祖型のように思えてならない。音楽家になるべくバイオリンを修行したルーセルは和音の限界が9度であるという規範を叩き込まれていた。その9度がここでは九重の括弧──次々に「 」の中に「 」や注が開かれていく──に転移され、異なる旋律──それぞれ物語の推移だ──を共存させる構造になる。
そんな作品制作にあるのは「洗練」というより「労働」だろう。僕がこれまで「洗練」という語をやや皮肉に用いてきたことに注意されたし。「洗練」は極論すれば誰にでもできる。何のプロでもプロはみな「洗練」を目指して腕を磨く。それをできる人がプロであるだろう。しかし、ありふれた狂気に忠実に、そこへ立ち戻ることそのものを「作品」にしようという人は、少なくとも他人からの賞賛をもって「栄光」とすることは諦めねばならないだろう。その「労働」生産物は「理解」されないことを前提にしているのだから。それは「理解」されなくても──何しろただ狂っているだけであるから──誰かから読まれ、聴かれ、参照され続ける。そのことにプロが耐えきれるはずはなかろう。フリージャズなど今や廃れた「ジャンル」だ。それでもルーセルにおいてもオーネット・コールマンにおいても、問題は「労働」であった。自動書記よろしく出鱈目に書きまくる/吹きまくることとは何の関係もない。
上へ行ったのは僕だ。僕は「経験」の中身についてはほとんど素通りしている。これまでも意図的にそうしてきた。もう少し説明しておくと、僕は「体験」と「経験」を微妙かつ決定的に区別している。例えば夢。それを見ている間、僕は夢を「体験」している。その中にいる。だからそれを一つの「夢」としては認知していない。ところが目覚めた瞬間、それは一つの「夢」になって、こんな夢を見たという「経験」になる。もちろん両方が混じり合う浅い眠りも存在するが、目覚めることのない眠りの中に夢の「経験」はない。そして他人にとって夢の内容はつねに「ああ、そうでしたか」の類のものでしかない。聞かされるほうとしては「つまらない」。面白さが生まれるのは夢に「経験」として意味を持たせていく 解釈 の過程からだろう。フロイトで面白いのはまさに夢解釈であって、報告されている夢内容ではない。解釈は必ずしも言葉として表現されるものではないだろう。立ち居振る舞いのすべてが、過去の「体験」を「経験」として(再)解釈した「表現」でありえる。ジャズマンのソロが典型的にそうだ。彼らの個性はつねに過去に聞いた──と現在思っている──音の再-現であるだろう。実際、英語のinterpretは解釈であり演奏であり演出である。
それに対し君は、「経験」の下、僕の言う「体験」の層に降りていく。もちろん、そこを「無知」や「残余」と間接的に呼ぶことで、君もまた解釈の次元に身を置いて「体験」と「経験」の差異を語っているように受け取れる。しかし君にはあくまで、解釈しきれない下層が解釈の表面にまさに「無知」や「残余」として浮上すること自体と、そのときの様相が問題のようだ。君にとって「経験」とは、けっして一つにはならない混濁した「体験」が表面に現れる際に受け取る形態としての「ゼロ」──無知の「無」にして解釈しきれない「残」──のように見受けられる。プレーヤーとしての君はそこに「ない」音を響かせようとする。「ない」を音にしようとする。違うだろうか。
とにかく僕には、第27書簡において、二人のコントラストが面白いものであった。僕はあくまで学者か分析家──解釈を解釈する者──で君は「体験」の表現者? これは僕の目にははっきり違うね。僕には君のほうが「経験」を掘り下げようとする態度においてよほど学者的であるように見えるし、僕のほうがこざかしくスタイル──あるスタイルはつねに別のスタイルの解釈だ──にこだわる表現者のように思える(実際、話をうまく組み立てることばかりに気を配っている)。なるほど『ネフェルティティ』に感じられる「掘り下げ」が『ビッチェズ・ブリュー』にはないかもしれない。ましてカーラ・ブレイはずっと「組み立て」の人だ。
しかし、レーモン・ルーセルに即して言わせてもらえば、作家である彼にとって「体験」はたった一つだ。長編処女作『代役』を書き上げた直後に味わった「栄光の感覚」のみ。ヘーゲルに言わせれば「思い上がりの錯乱」だろう(『精神現象学』「C:理性」章)。義賊となった『群盗』(シラー)の主人公にも認められる、ある意味ありふれた狂気。ただし、自分の味わった「栄光」を「経験」として解釈していくことがルーセルには作品制作そのものになった。「手法」を開発する礎になった。栄光「体験」以外の「経験」が彼には不要であったから、彼はどこに旅行してもカーテンを閉め切って外の景色を見ようとしなかった。彼は何の「掘り下げ」もしようとしなかった。あの「体験」はつねに彼とともにあり、彼の筆を照らす太陽であり続けたのだから。実際、『眺め』ではペン先に埋め込まれたガラス球が「世界」を文字通り在らしめる。そして『新アフリカの印象』。僕には今ではこの作品がフリージャズの遠い祖型のように思えてならない。音楽家になるべくバイオリンを修行したルーセルは和音の限界が9度であるという規範を叩き込まれていた。その9度がここでは九重の括弧──次々に「 」の中に「 」や注が開かれていく──に転移され、異なる旋律──それぞれ物語の推移だ──を共存させる構造になる。
そんな作品制作にあるのは「洗練」というより「労働」だろう。僕がこれまで「洗練」という語をやや皮肉に用いてきたことに注意されたし。「洗練」は極論すれば誰にでもできる。何のプロでもプロはみな「洗練」を目指して腕を磨く。それをできる人がプロであるだろう。しかし、ありふれた狂気に忠実に、そこへ立ち戻ることそのものを「作品」にしようという人は、少なくとも他人からの賞賛をもって「栄光」とすることは諦めねばならないだろう。その「労働」生産物は「理解」されないことを前提にしているのだから。それは「理解」されなくても──何しろただ狂っているだけであるから──誰かから読まれ、聴かれ、参照され続ける。そのことにプロが耐えきれるはずはなかろう。フリージャズなど今や廃れた「ジャンル」だ。それでもルーセルにおいてもオーネット・コールマンにおいても、問題は「労働」であった。自動書記よろしく出鱈目に書きまくる/吹きまくることとは何の関係もない。