騒音書簡1-32

2024年10月31日

市っちゃん

君は君自身と対比して僕を「作家」だと言うが、じつは何も書かない(本を一冊も出さない)、何も書けない詩人や作家、つまりそれでも書き続けている「無名の」作家が(なぜなのかは永遠の謎だ)、ある意味でずっと僕の「お手本」だった。それを口にしたことはないので、ここではじめて白状するよ。つまり彼らは「誰でもない人」であり、いかに天才であっても、才能豊かであっても、そうであればあるほど、たぶん「作家」というものの社会的成立を否定する存在であるはずだ。誤解を招く変な言い方だが、彼らは積極性において、何も「想像」しないし、表象しないし、堅固な想像世界からあらかじめ締め出されている。気がついたら、書き終えていた、というようなことがあれば、だからそれは最高の状態かもしれない。しかし古今東西、すぐれた詩人たちにはそのようなところがある、というかそのことを理解しない、それを自分の衝動を含めて本質的様態としないような奴は、僕にとって結局は全員ダメな、ヘボ作家にすぎない。ランボーやアルトー、あるいは自殺したダダイスト(ダダイスト商売人は大勢いるが、論外だ)のことだけを言っているのではない。無名の人は名前を挙げることができないので、有名どころで言えば、プルーストだって、別の意味では、ボルヘスだってそうだ。ブランショのような批評家はそのことにいち早く気づいていたと言えば、少しわかりやすいだろうか。

以上のことを言い換えるなら、君には釈迦に説法だろうが、「作品」の前に「作品の不在」があるのではなく、それどころか厳密な意味でそれはまさに同時であって、最後まで、つまり言うところの作品化の過程の最後まで、作品化が果たされたずっと後にまでそれはつきまとう。どんな「作品」も「作品」そのものとして受け取ることはできないし、また受け取ってはならないし、作品を読むには作品の不在を読まなければならない。まあ、この点をまたぞろここで繰り返すのは野暮だからこの辺でやめておくが、売れない作家として言っておけば、端的に言って、自分が何かを「表現」している、「作品化」しているとはいまだに思えないんだ。別の次元でそれがかなり深刻なジレンマになったことも、勿論あるにはある。こんにちは、芸術家諸君! 表現している奴は嫌いだ。君は、僕が何かを表現していると言う。作家としてもミュージシャンとしても。しかし君の言う「体験」として僕にはその実感がない。僕の書いたものにもいくつか「作品」めいたのがあるのかもしれないが、作品としては、それはすでに自分から遠いところにある、というかそれにあらためて接してみれば、いよいよ他人の作品と大差ないんだ。ベタな言い方をすれば、それははじめから「精神病的」構造を持っているとしか言いようがない。

君は言う、〈歴史家として言わせてもらえば、「前衛」はどこかに必ず「在る」〉。頼もしい言葉だ。嫌味で言っているのではないよ。前で衛もる者にとっても後で衛もる者にとっても、衛もるものはない。歴史家でない僕にとっても、それはガキの頃からの永遠の問題だった。どうやってそれを発見するのか、それに近づくのか、それになるのか。私はアヴァン・ギャルドである! 今でも僕は胸をはってそう言うだろう。それは「外」に出ることであり、「自分の外」に出ることであり、歴史家でない僕にとっても、「私に抗う」ことだった。僕にとっては自明のことだ。だからこそ、ファッション前衛しか見当たらない世界のなかで(うんざりだ!)、僕は「表現の神」にも、「伝統」にも帰依しないし、したことはないのだから、自分のことを「偽の古典主義者」と言うんだ。ランボーが誰にも理解されずに言っていた「現代的であらねばならない」は、21世紀にもなれば、軽く見られ、空疎な意味をまとい、地に落ちたが、いうまでもなく「古典」それ自体も存在しない。そんなものはない。それが書かれたり描かれたり何なりした時点のことを考えてみればいい。その意味において、古典である『マルドロールの歌』も『ロクス・ソルス』も、古典音楽家であるマイルスもヴェーベルンも、アヴァン・ギャルドなんだ。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】EP-4 unitPのライブ録音『THIS WAS THE END』がWINE AND DINEからリリースされます。