2024年11月30日
市田良彦さま
近いうちに、ある本を書こうとしていて、僕もいやおうなく過去を思い出さねばならないのだが、なかなか思い出すことができない予感がしている。どうしたものか。今のところはまだ書く気がないので、考えないようにしているが、書くことによってしか端緒につくことはできないだろう。細部が消えているわけではないが、細部の連なりばかりで、時間の経過が穴だらけになっている。だがほんとうに経過したものはあったのか。水が流れるように? はたして時間とは経過のことなのか。たぶんそうではない。でも在り得たはずの出来事は芥子粒みたいに小さく縮こまっている。それを取り戻すことは絶対にできないが、その在り得たことに向かって、何度も出発し直さなければならない。
君は憂歌団の音楽や人となりを思い出して、自分で意図せずに時間のなかに放り込まれる。現在はない、とマラルメは言っていたが、その時間の中にかつての現在と今の現在を見出そうとすること自体が、「老い」を思い知ることかもしれない。それは誰もが感じたことのある時間の奸計に似ている。はたして我々は何かしら焦燥にかられているのか。焦燥にかられるということは、思いどおりに運ばなかった事があったということだし、今もあるということになるが、自分が急いでいるのか、時間自体が急いでいるのかわからなくなる。「光陰矢の如し」というのは、時間そのものが急いでいることである。我々は早回しのシュルレアリスム映画のなかにいる。急げ、マルセル・デュシャン! 頭の後にはヒトデか星の形をしたハゲができている。
17世紀フランス・バロックの画家ニコラ・プッサンは中風だったのか、そのタブロー『洪水』の筆致は「見捨てられた時代と老人の手」を思い起こさせる、とシャトーブリアンは自身最後の本『ランセの生涯』のなかで言っていた。「素晴らしい時の震えよ! しばしば天才たちは傑作によって自らの最後を告知した。飛び立つのは彼らの魂である」。ちゃんと筆を握れないほど、ジジイの手が震えていたのだ! だが震えているのは時のほうで、やがて手は消える。時間の振動、時間の震えは、それ自体「老い」とは無関係だ。精神と肉体の「老い」は隠喩ではなく換喩のひとつかもしれないが、君がこの往復書簡の最初のほうで言っていたように、比喩はどのみち現実に達することはないだろう。精神と身体の衰亡は歴史の衰亡と同じようなものであって、誰の経験なのか後になってみれば意味が変わる。つまりどうでもいいことになる。教訓があるのに、誰にもそれが届かないし、届かなかったというのは皆が知ってのとおりだ。人類は馬鹿だ。だが仏教が教えるように、どのみち生きとし生けるものは滅ぶ。僕と森田潤共作の次のCDは『帝国は滅ぶ~俺たちは決して働かないだろう』となるだろう。そこでラップやレゲーをやったよ。画家と同じように音楽をやれないわけがないだろ?
僕は晩年のビリー・ホリディやチェット・ベーカーが好きだ(モーツァルトも)。ビル・エヴァンスの最晩年のピアノもいいが、ちょっとセンチメンタルすぎる。ビリーやチェットは二人とも若い頃とは別人だ。大いなる芸術! 別の芸術! 音楽批評家たちがいくらけなそうとも、どれだけ下手くそになっていても、誰にも真似ができないほど素晴らしい。あの声、あの沈黙、あの息遣い、あの消失……。すべてが独特の緩急をもっていて、息が吸われ、吐き出され、最後のあがきのように速度が変わる。そのままで「老人」の音楽なのだろうが、そうであって、そうではない。過去の演奏は消えている。別の音楽なんだ。転移はない。回想はない。分裂はない。何もない。エラー? 彼らは間違ったのか? 彼らは演っている。彷徨うものがある。それだけ。何が起きたのだろう。
シュルレアリスムが過去のものとなった頃、ソレルスがブルトンについていいことを言っていた。「祝おう、祝おう、祝おう、菊の花をたむけよう、そして死のう」。
君は憂歌団の音楽や人となりを思い出して、自分で意図せずに時間のなかに放り込まれる。現在はない、とマラルメは言っていたが、その時間の中にかつての現在と今の現在を見出そうとすること自体が、「老い」を思い知ることかもしれない。それは誰もが感じたことのある時間の奸計に似ている。はたして我々は何かしら焦燥にかられているのか。焦燥にかられるということは、思いどおりに運ばなかった事があったということだし、今もあるということになるが、自分が急いでいるのか、時間自体が急いでいるのかわからなくなる。「光陰矢の如し」というのは、時間そのものが急いでいることである。我々は早回しのシュルレアリスム映画のなかにいる。急げ、マルセル・デュシャン! 頭の後にはヒトデか星の形をしたハゲができている。
17世紀フランス・バロックの画家ニコラ・プッサンは中風だったのか、そのタブロー『洪水』の筆致は「見捨てられた時代と老人の手」を思い起こさせる、とシャトーブリアンは自身最後の本『ランセの生涯』のなかで言っていた。「素晴らしい時の震えよ! しばしば天才たちは傑作によって自らの最後を告知した。飛び立つのは彼らの魂である」。ちゃんと筆を握れないほど、ジジイの手が震えていたのだ! だが震えているのは時のほうで、やがて手は消える。時間の振動、時間の震えは、それ自体「老い」とは無関係だ。精神と肉体の「老い」は隠喩ではなく換喩のひとつかもしれないが、君がこの往復書簡の最初のほうで言っていたように、比喩はどのみち現実に達することはないだろう。精神と身体の衰亡は歴史の衰亡と同じようなものであって、誰の経験なのか後になってみれば意味が変わる。つまりどうでもいいことになる。教訓があるのに、誰にもそれが届かないし、届かなかったというのは皆が知ってのとおりだ。人類は馬鹿だ。だが仏教が教えるように、どのみち生きとし生けるものは滅ぶ。僕と森田潤共作の次のCDは『帝国は滅ぶ~俺たちは決して働かないだろう』となるだろう。そこでラップやレゲーをやったよ。画家と同じように音楽をやれないわけがないだろ?
僕は晩年のビリー・ホリディやチェット・ベーカーが好きだ(モーツァルトも)。ビル・エヴァンスの最晩年のピアノもいいが、ちょっとセンチメンタルすぎる。ビリーやチェットは二人とも若い頃とは別人だ。大いなる芸術! 別の芸術! 音楽批評家たちがいくらけなそうとも、どれだけ下手くそになっていても、誰にも真似ができないほど素晴らしい。あの声、あの沈黙、あの息遣い、あの消失……。すべてが独特の緩急をもっていて、息が吸われ、吐き出され、最後のあがきのように速度が変わる。そのままで「老人」の音楽なのだろうが、そうであって、そうではない。過去の演奏は消えている。別の音楽なんだ。転移はない。回想はない。分裂はない。何もない。エラー? 彼らは間違ったのか? 彼らは演っている。彷徨うものがある。それだけ。何が起きたのだろう。
シュルレアリスムが過去のものとなった頃、ソレルスがブルトンについていいことを言っていた。「祝おう、祝おう、祝おう、菊の花をたむけよう、そして死のう」。
鈴木創士
鈴木 創士(すずき そうし)
作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など
【Monologue】鈴木創士+森田潤の次回作は feat.マッキー・ザ・ナイーヴ『帝国は滅ぶ~俺たちは決して働かないだろう』(WINE AND DINE 33)です。12月3日発売!