騒音書簡1-04

2022年6月28日

親愛なる市田君、

君が言うように哲学は存在しなかったかもしれないから、君は哲学者になったんだろ? なるほど哲学も文学もどうでもいいと僕も思っている。フーコーの有名な言葉、「別の仕方で思考すること」ができるなら……。だが今更「思考」なんて言っている奴のなかには(我々のことだけど)、破綻した哲学者と破綻した作家がいるだけだ。我々はそれを恥じたりしない。別の仕方でやることができれば、別の仕方で生きて考えることができれば、ほんとうにそれができるなら、思考のなかに「音楽」や素数の不可能な分布やフォトンが生じることを君もよく知っているだろ。 それは素晴らしい経験であるし、裏返しになった「政治的」光景だ。そのために、それが何らかの幾何学的射影であっても、この眺望、この観念にはあらゆるノイズの介入が必要なんだ。ノイズがなければうまくいかない。我々はキチガイではないが、まあ、この環境でまともでいることはできない。ちなみにノイズは「ピンポン球」ではないし、対位法ではない。聾のベートーヴェンだって、聾だからこそそのことを知っていた。晩年のベートーヴェンはある意味で凄腕だよ。聞くことが問題であっても、耳に聞こえている必要はない。森田潤が音楽造作の切片をさらにノイズと別のリズムで徹底的にお釈迦にして鼓膜の向こうへ飛ばしてしまうあのやり方を僕はとてもよく理解できる。たいしたもんだよ。森田氏は「上手く破綻している」んだ。言っとくけど、あそこにも「ピンポン球」はあり得ない。諦めたほうがいい。佐藤薫を含めて動かない「アスリート」である俺たちは卓球が得意じゃない。俺は全ての「卓球」を否定してもいいと思っている。全く違うことが生じているんだ。 たしかにこの書簡はスパイラル状になっているので、そろそろ俺も混乱してきた。この手紙の君の前回分だけを読み返せばいいのだけれど、他の手紙もつい見てしまう。読み返してしまう。するともうだめだ。三回目、四回目ですでに混乱しているのだから、先が思いやられる。誰が書いているのか。イタリアの画家ボッティチェリに倣って「私はこの手紙を混乱の中で書いた」とでも言っておけばいいのか。私は混乱を愛している、愛さざるを得ない、と。幻の「はじめの一文」にとどまることも、「はじめの一文」が消えてしまったことも、もう大差はない。我々はDNAに舞い戻ったのさ。DNAの二重螺旋は永久に交わらないけど、しかし二つの染色体の遺伝的な形質的特質は負の性向においてなぜか奇跡的に交わることがある。愛が生まれる。ピンポン球はいらないわけ。 「ように」の話を蒸し返すのは面白くないだろうけど、「嗅ぎ分ける」と書く場合、僕は「死にかけの犬のように嗅ぎ分ける」と直喩で書きたくなる。犬を登場させることは文の全体にとって違う効果を与える。死にかけの犬という実在(名前?)が加わる、ただそれだけのことにすぎないけど……。中世フランチェスコ派の神学者オッカムが禁じたことだが、俺はむやみに実体を増やしていることになるわけだ。手紙も実体だし、ピンポン球がなくても、実体は増える一方だ。これも佐藤の陰謀の一環だから仕方がない。その絵画的音楽的拡がりや増殖の中にどのようにこの身体があるのか、あり得るのか、書き手の身体的リズムの違いが、段差が、小さな事象を生み出すこともある。どう説明すればいいんだろうね。難しいな。「ように」が介在しようとしまいと、ひとつの「経験」が生起すればいい。偶然であれ必然的であれ、音楽がどんな音色を、どんな「ノイズ」を選択するのかと同じことだよ。何でもいいわけではない。これでは答えになってないな。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】アルトー「ロデーズからの手紙」、宇野邦一+鈴木創士訳、月曜社刊、出ました。