騒音書簡1-8

2022年10月30日

Mon cher ami,

友人同士の手紙のやりとりというのは、そもそも変な感じがするし、恣意的にやればやるほど、やりにくいところがあるのもわかってきた。まあ、嫌いな奴との往復書簡というのも考えにくいが、僕と君があらためて逸脱気味に何を想い、書いているのかちょっと漠然としてくることもある。書いているのは別の奴ではないけれど、君と会っても、電話で話しても、示し合わせたわけではないのに、お互い事務的事項以外にこの往復書簡について何も話さないというのは、我ながらなかなか興味深いと感じる。何しろここで事は螺旋状に起きているのだから、いつも明後日にいるような所在ない感じがしないでもないが、「書く」ことの新しい形式を経験している感じがする、とまで言えば大げさかな。もしかしたらこの企画は実にいいものかもしれないと考えたりもできるが、これに佐藤がからんでいるのだから、余計に事態はややこしくなっている。

君も知ってのとおり、僕は裸のラリーズの水谷孝氏について書く予定があって、ここであれこれ意見を言っちゃうと原稿が書けなくなりそうなのでやめておくが、京大西部講堂をとりまく状況に対する君の反発はなんとなくわかっていたよ。リスナーとしての君とラリーズの抜きさしならぬ、しかし独特の関係と非関係は君の『ランシエール』を読んだときにかなりはっきりとわかった。あれを読んだとき、僕の知っている限りでの君のかつての印象までもが思い起こされ、ふむ、なるほどね、そういうことなのね、と思ったのだから、僕は良い読者だったということになる。「“全共闘” 生き残り組の “カルチャー” ときっぱり縁を切りたい」と君が思ったいきさつは詳しく知らなかったが、君は京大西部講堂に関わっていたのだから、たとえそれが具体的に「ローカルな政治」に発していたとしても、ローカルな問題とは必ずしも言い切れないところがあると僕は思う。そもそもかく言う「カルチャー」自体が曲者だからだ。それに60年代、70年代のカルチャー政治に反作用するように、「あのフィードバック、構成、轟音と静けさ」のなかでラリーズが変化したのだということ、これまた必ずしもローカル性を示すものではないよな。おっと、ラリーズのことはこの辺でやめておく。

いつだったか、あまり誰も西部講堂のことを気にしなくなった時節、西部講堂はどうなるのか、と問いかけた僕に君がこう答えたのを覚えているよね。「西部講堂か? 最後にラリーズのライブをやって、その後は燃やしてしまえばいい」! つまり60年代70年代アングラは燃やしてしまえばいい! 当時の政治とその他のものとの関わりは、非常に複雑な問題を孕んでいるようにみんな言っていたけれど、案外そうではなかったのかもしれない。例えば、今思い出したから言うが、ブリジット・フォンテーヌは「ウッドストック」的なものは全部ダメみたいに当時からきっぱり言っていたけれど、すでにその頃からそのような微妙なニュアンスを嗅ぎ分けて、同族に対する違和をはっきり感じていた人は少なからずいたことになる(新宿フーテン族のなかにはヒッピーだけじゃなく、日本型ビートニクもいた)。

何を隠そう、僕もそうだった。見るべきもの、感じるべきもの、体験すべきもの、行くべきところ、それに仕方なく行ってしまうところはたぶん連中と大差なく、同じようなものだったが、ガキだった僕は何度「つまらない、こんなのは違う」と思ったことか! そのことしか考えていなかった時期もあるくらいだ。それはほとんどかつての僕の行動規範だった。この書簡で自分のことを「偽の古典主義者」などと言ったのは、この感触と無関係ではなかったというか、まさにそれに端を発している! 人間がまるくなって、今じゃそのことを忘れてしまいがちだけれど、一見するとそれなりにアングラの知人ばかりなのに、自分はアングラではないということ……。

今更ながらだけれど、西部講堂がかつて面白い場所だったことは認めるよ。まだ若かった僕は一人の観客でしかなかったのだから、それなりに気楽なものだった。三高時代からのあの古い瓦屋根、とつぜん屋根に描かれたオリオンの三つ星、ステージで何が行われていたにしろ、前の土の広場に雨が降ると、汚い水溜りができていた……。ヘルメットの学生たちもいたが、僕は年上の彼らを無視した。あの治外法権の場所でヘルメットをかぶる必要はなかった。

何が起きていたのか細かいことはほとんど忘れてしまったが、今でも覚えているのは、土方巽の舞踏、村八分、ラリーズ、二人だけのストラングラーズ、トーキング・ヘッズ、ケネス・アンガー映画祭、フランク・ザッパ……。近いところでは日本赤軍関係のイベントもあったが、まあ、それはいいだろう。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】ベケットの50年ぶりの新訳「どんなふう」を読んでいます。