Mon cher ami,
ともあれ、それは「作品」の「はじまり」ではなく、「作品」の「完成」、「終わり」じゃないか。フーコーが、アルトーは我々の言語の土壌に属していると言ったのは、そう言う意味ではないのか。では、それならアルトーは精神医学的に治癒したのか。世間で言われる言葉を使えば、アルトーは病気から癒えたのか。彼はついに狂気を免れたのか。僕自身どうか考えていいのかわからなかったし、便宜上、そのように言ったこともあった。しかし本当にそうなのか。実際には何が起きていたのか。アルトーのように狂気から非狂気へ移行する(移行?)なんてことができるのか。そう言うことができるのか。すぐにニーチェやヘルダーリンの生涯と晩年の「作品の不在」が思い浮かぶ。彼らの場合、文字どおりの「無為」しかなかったことはよく知られている。アルトー自身が自分と同じケースとして引き合いにするのはヴァン・ゴッホだけだが、ニーチェもネルヴァルもエドガー・ポーもロートレアモンも、最後には、アルトー言うところの「社会」、「社会の呪い」にやられてしまったと名前を挙げて力説している。つまり「作品」は破壊され、不在となった。ニーチェたちにあっては、アルトー自身のように狂気から非狂気、作品の不在から作品への移行は生起しなかった。
したがって、君が言うようにそこに「大差」はないのかもしれないが、それでも、実際どう考えても「作品の不在」と「作品」は同時的ではないように僕には思われる。それとも「私は狂人ではない」からそのような観点をもたざるを得ず、そう言うことができると私は信じているだけなのか。あるいは、ほんとうは、「言葉」を使うのであれば、日常的にだけではなく、作家であると、物を書く人間であると意識してそれを用いていると信じ込み、それを私は書いているのだと能天気に思っているのであれば、しかもさらに何かが「見えている」、「私は見ている」と「我思う」がゆえに信じているのであれば、そこにあるのは「狂気」だけなのかもしれない……。ふと、そのように思うことがある。明晰であること? 狂人の明晰さ? 君はマラルメもヘルダーリンもカフカもブランショにとっては同じような扱いになっていると言ったが、カフカの小説には「はじまり」しかないように思えるときがある。多くの読者がカフカの「日記」が面白いと感じるのは、日記は一日が終われば、何もかもが終わるからだ。つまり「一日」は「狂気」ではないということになる。