騒音書簡1-23

2024年1月31日

創士くん、

観客として言わせてもらえば、演奏されているときにこそ、音楽は言語と見分けがたくなる、と思っている。客席からは、舞台上の君(たち)は自分(たち)と「語りあっている」ように見える。あるいはそう聞こえる。自分(たち)の声を聞いている/聞きあっている(s’entendre parler)ように。言葉である歌のあるなしに関わらず。客席に届けられる前、客席とは無関係に、君たち自身が自分および隣の演者と会話しており、そのループに客席の僕は付き合っているように。音が連続継起する、長かったり短かったりする「間(ま)」ごとにそのループはあって、こちらからは分からない「合図signe」をその「間」の一瞬で送り/受け取りあいながら、君(たち)は演奏を作っているのであろう。こちらからは発せられた音しか聞こえず、音の一群や全体が僕に向けられた「記号signe」のように受け取れるのだが、それが「意味するsignifier」のは結局のところ、音と音の間に広がる君たちどうしの会話なのだろう。そこから排除されているという疎外感が客席の僕にはある。演奏者が一人でも複数でも、この事態に変わりはない。アシュケナージでもモンクでも。

最終的に「意味される」のはループそのものとその推移であるから、これこそ「言わんとすること」である、と意味内容を言語的に描写することはできない。というかループは刻々、作られては消えていくだけであるから、その「中」には何も入っていない。あるいはそれは意味の欠如、真空を「意味する」だけ。この欠如なり真空を、君は前葉で「穴」と呼んでいたのではないか、と僕は解する。この「穴」があるから、音楽は言語のようであってしまう。要するに、言わんとする意味のあるなし、それが何を言っているか以前に、こちらの解釈を強いるものが音楽にはある。恋人の一挙手一動のようなものか。いや、この恋人は何の意思もなく、こちらに「サイン」を送ってくるぶん、よほど始末に悪い。君は演奏中、そんな女を相手にしているわけよ。そして僕はまた観客として、君の演奏の向こうにそんな女を幻視している。けっして「愛している」とは言ってくれない女。まあ、この話はプルーストを読むドゥルーズ(『プルーストとシーニュ』)の僕なりのアレンジだな。

しかし、《signe》と《s’entendre parler》を関連づけることは、ドゥルーズはしていなかったはず。しているのかもしれないが、そこに彼の〈音楽としての小説〉論の主眼はない。また《s’entendre parler》は普通、「我思う、ゆえに我あり」のように「私=私」の自己同一性を基礎づける根拠のように見なされ悪者扱いされるけれども、僕は上に書いたことからも窺えると思うが、まったく逆に、それを自分が自分でなくなる原因のように見なしている。分身の出現をこそ根拠づけるものにように。自分と自分の間に距離を生み、自分の中に「穴」を導き入れる原因のように。その「穴」から、「穴」の向こうから、僕の言葉は僕に到来する。僕はそれを聞く。ドゥルーズは「身体」の発する「シーニュ」について、それだけが強い意味において「存在」すると語ったけれども(「存在するのはシーニュだけだ。(…)存在するのは諸々の身体だけである。(…)諸々の身体がそれ自体すでに言語である。」)、僕は「シーニュ」よりも「身体」よりも先に「s’entendre parler」という〈分裂〉を置いている。とりあえず人間に関しては。声なり音がそれ自体と意味とに〈分裂〉する──二つの同音異議語をなすかのように──わけだが、意味のほうは実のところ、最終的には分裂の結果できた「穴」──君の言うように「間隙」でも「陥穽」でもいい──を意味している。〈意味がない〉ということを。〈ない〉から、そこを埋めようとして意味が傾れ込んでくる場所、それが《s’entendre parler》ではないだろうか。人間だけが、言葉の二重奏として音楽を奏でる/聞くことのできる動物ではないだろうか。あるいは音楽こそが純粋な差異の範例であり、その絶えざる再来、反復であると言えばよいだろうか。このこと自体にはドゥルーズも同意してくれるかもしれないが、言わば生の直中にある死のような「虚無」──そう言ってしまおう──がそれを支えている、と彼は認めるだろうか。演奏しながら君は「死んでいる」──死を体験している──と僕は言っているようなものだから。「かんたんに死ねない」とカフカ流に言ったところで何も変わらない。音楽でも文学でも、芸術の〈生産〉は死の反復だ、と僕なら言うね。

あらゆる音はつねにその音であってすでに別の音である、つまり二重奏である、ということぐらいは、「シニフィアン連鎖」を云々する人は認めるかもしれない。プルーストも偉大な芸術について、例外なくみな「同じだが、違う」と言っているそうだ。だが、そこから純粋な「差異と反復」としての「存在の一義性」を帰結する──「ある」のは差異の反復、反復としての差異だけだ!──ことに対しては、ちょっと待ってくれと言いたい。二重奏は幻想にすぎないじゃないか。実際に「ある」のは一つの音だけではないか。分身はあくまで〈余分の存在〉ではないか。僕も君も現実にはまだ死んではいない。存在するものとその〈余分〉が同じように存在しているとは、僕にはどうしても思えない。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】最近、同時に自分の過去を振り返らざるをえない原稿を書く機会が多い。正直めんどうくさい。過去は忘れて次に行ってしまいたいが、次はあるのか?