騒音書簡1-26

2024年4月30日

良彦さま

前葉で君の言う、“プルーストの言う「同じだが、違う」の正反対のこと”、つまり、はしょって言えば、「違うけど、同じ」なのだから、『レクイエム』全体はただ「一曲」だった可能性があるということ。君のこの意見はかなり面白いね。いつも感心してしまうが、君はやはり哲学徒だ。事象に対して、言説に対して、そのような即座の反応、即座の解読は、僕にはできない芸当だよ。まあ、こんなお追従めいて聞こえることは君にはどうでもいいことだろうし、それはいいとして、それに対して、それまでの他のモーツァルトの楽曲に関しては、実際、それらがその「正反対であること」の対極にあるということ……。つまり『レクイエム』だけは違うということ。僕にとっては、いくら言葉をともなっていても、『レクイエム』はモーツァルトの他のオペラとも全然違うように聞こえる。その点において、森田潤の『100レクイエム』を聞いてしまった以上(ひとつだけリスナーまたは読者諸氏に助言するなら、これは超爆音で聞かなければならない、しかもひとりっきりで)、それと本家モーツァルト自身の『レクイエム』を僕は頭のなかで簡単に切り離せなくなっている。もはや一緒くたでしかないんだ。「批評的精神」からほど遠いことを言うようだが、音楽は「経験」なのだから、そもそも音楽とはそういうものではないだろうか。モーツァルトの『レクイエム』の秘密(?)、その暗い非歌謡曲性をすでに僕はそのようにしか感じざるを得なくなってしまっている。

だからというか、あえて勝手に想像してしまうなら、『レクイエム』においてはじめてモーツァルトは真剣に作曲に取り組んだのではないか。ミサという形を借りて、言いたいことを言おうとしたのではないか。その他は、君が歌謡曲だと言うように、おちゃらけだったのではないか。それまでのモーツァルトには操り人形めいたところがあったし、同時に音楽家として天才の傲慢故に音楽界を小馬鹿にしていた。言ってみれば、ふざけたことに、人生ではじめてクソガキが真剣になった! はじめて自分と向き合った! はじめて! モーツァルトが毒殺されたどうかは、いろいろ意見がわかれているようだが、そのことと作品の出来あるいは本質とは直接関係はない。伝説化されようが、されまいが、そんなことはどっちでもいい。だが他のモーツァルト作品について言えば、確固たるものだったかどうかは別にして、後世にスコアーとして残されたからといって、そしてそれが人の言うところの傑作だったからといって、何しろモーツァルトを含めて「彼ら」はすでに生前から歌謡界の有名人なのだから、すでに存在してしまった「作品」あるいは「作品化」という点で、本人の真の意思あるいは動機とは無関係な「創作」が数多くあったと言えるのではないか(ああ、またあの厄介な「作品」だよ)。そのように思える節がある。音楽学者がどう言っているのか興味もないし、ぜんぜん知らないが、彼自身の手紙からもそれは窺えるのではないか。あのクソガキのことだ!……。かなり複雑で微妙な疑問点は残されているし、しかも生前有名人ではないが、カフカの場合だってそうだ。「作品」に関して真のカフカの意図についてはよくわからないところがある。モーツァルトとカフカ、なかなかいいテーマではないか。これは冗談です。

とはいえ、まあ、知ったことではない、というかずっとモーツァルトについて何か適当な印象をつらつらと述べてきたようで、自己嫌悪ではないが、そろそろ嫌になってきたし、読者諸氏も飽きただろうし、モーツァルトの『レクイエム』についての僕の感想はこのへんで打ち止めにすることにします。それでも、ひとつだけ原則的問題が残されている。その「ノイズ」可能性だ。佐藤薫にサービスしているわけではないが(『騒音書簡』だし……)ミュージシャン(?)として、どんなものにも「ノイズ」を聞き、重ねて考えようとする悪い癖が僕にはある。「ノイズ」の「未来」を考えれば(!)、モーツァルトからでも、ワーグナーからでも、パクることができるのだから。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】森田潤との共作CD『残酷の音楽』が5月18日に発売です。