騒音書簡2-8

2022年10月29日

鈴木創士殿、

何に対しどう反論されているのか、ちょっとよく分からんが、とりあえずいくつか応えてみる。それらはたぶん、相互に連関しているはずだ。

1) 『鑑識レコード倶楽部』におけるアリスの位置は、俺にとってははっきりしている。演者にとっての「音楽そのもの」だ。君が「好きなのか」と聞いたものを、演者の立場で代表している。そしてその含意もはっきりしている。「音楽そのもの」について「語りうる」のは実は演者のみ。ただし「語りえる」のは、アリスの言ったことだけ。「音楽」はある、これをあなたは「好き」か。それ以上のことを語ったとき、演者はすでに演者ではない。聴く立場に回って語っており、それはアリス以外の三派の言説のいずれかに回収される。つまり小説におけるアリスは、演者と聴者、音楽と言葉の非和解性、非対称性、絶対的な差異を小説のなかに導入する仕掛けだ。その昔、遠藤ミチロウが言ったことを俺は忘れられない。「客との非和解性を大事にしたい」。彼にとっては、いくらファンが求めても、自分は求められることを演るとはかぎらない、ということであった。俺にとっては、自分はもう客でいい、と思わせる言葉であった。俺は別の土俵に行く、と。文章を綴ることをその土俵にすると決めても、読者との非和解性は俺にとって「大事にしたい」ものの一つであり続けている。だがそれは、自分の音楽があるとか、俺の文章は俺の自己表現だ、という所有権の主張ではまったくない。むしろ逆。演者/書き手に回れば、音楽であれ言語であれ、それ「そのもの」から決定的に締め出されるという「経験」を味わうことになるという諦念の確認だ。「経験」は聴者と読者の特権であると思う。あくまで受動的な体験であるという意味において。能動的な立場に回った人間とは、「そのもの」の門前で「なかに入れてくれ」と祈り跪く「棄教者」の姿に俺のなかでは重なっている。自分の音楽を「楽しんでいます」などと言う音楽家を、俺は「口舌の徒」として信じることができない。俺は様々な「棄教者」のおかげで、「門のなか」が「ある」と信じることができる。

2) 聴く側には、好きな音楽と必ずしも好きではない音楽があるだけだ。嫌いな音楽は「音楽」ではない。俺が好きとか嫌いとか言いたくないのは、音楽の聴き手としてではなく、文章を書く人間としてだ。自分の文章に、そんなことを言わせたくない。それを言わせれば、俺は自分の文章まで評点しなければいけないだろう。もちろんそういうことを絶えずやりながら文章を書いているわけだが(特に外国語で書く場合)、それはまさに書き手としての問題であり、「客との非和解性」からして、ほっといてもらいたい部類のことがらである。あなたたちには言いたい放題言う権利がある、存分に語ってくれたまえ。しかしこちらとしては、手の内を明かすようなことは、やろうと思っても十分にはできない。私は言葉の門前で祈り跪く人間でしかないのだから。そう俺は「言う」。君の言う「音楽あるいは音楽的ということに無感覚な思想家や書き手」、あるいは「音楽が嫌い」な人間を、俺は音楽について好き嫌いだけ「言って」いればいい者と解する。俺としては、そういう人を信用するとか信用しないではなく、いい身分だよなあとしか思えない。

3) 君の「空耳」はミュージシャン、演者としてのものか? そうであるなら、俺には聞こえないと「言う」しかないが、俺にはなにか書いているとき、つねに、そこへ入れてもらおうとしている「門のなか」がある。そこから、俺は呼びかけられている。「空耳」のようなものだろう。その呼びかけに応えるべく、俺はいつも書いている。ただ俺はそれを「自分の身体」だとも「過去の経験」だとも「思わない」。最初の頃の手紙で書いたと思うが、俺には「言語以前の経験」が「ある」とは思えない。書く俺に呼びかけてくるのはむしろ、かつて受動的、身体的に「経験」することで、俺がそこから決定的に締め出されてしまった、「そと」にあるなにものか。前の手紙で少し書いたように、書き上げたばかりの本の最後のほうでは、俺はラリーズの音から呼びかけられていた。かつて書いた本の執筆時には、同じく最後のほうではザッパのギターから。ま、君が中上健次に見た「観念的『愛着』」かもしれんね。あるいは音楽と言葉は俺にとって互いにフィードバックしているのかもしれん。いつも。

4) 中上で思い出したが、彼は俺が自分の文学オンチに居直るきっかけになった作家の一人だ。彼のようには書けないと思ったからではない。ミチロウさんに対しては、あなたのようにはとうていなれませんと思ったけれど。中上が、上に書いた「手の内を明かす」ようなまねをやったからだ。よく覚えている。「路地」シリーズのどれかにたしか「夏芙蓉」という名前の花が出てくるのだが、彼はその花について、そんな花は実在しない、自分が作品全体を通じて「実在」させるんだ、とどこかで喋っていた。「夏芙蓉」は実在しない、「路地」も。そんな当たり前の「秘密」を明かし、それを文学はやるんだ、と見栄を切られてもなあ、と思った。ならば俺は、犯人のいない探偵小説を書くぜ、と思ったことをよく覚えている。一つのモデルはレーモン・ルーセル。

市田良彦

 

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

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