騒音書簡2−14

2023年4月30日

鈴木創士殿、

もうすぐ「5・21」40周年ライブなんだね。その機会に君が、別働隊unit PとはいえEP-4にヴォーカルを入れるとは嬉しいニュース(にしてもPって何?)。たまたまマーク・スチュアート(The Pop Group)の訃報に触れたタイミングでもあったので、昔のことを思い出した。僕はあの頃、佐藤薫とマーク・スチュアートを頭の中で拮抗させていた。EP-4の曲に歌詞はないけれど(それが遠藤ミチロウのファンであった僕には物足りなかったわけだが)、アルバムタイトルの「昭和崩御」という日本語が、マーク・スチュアートが歌の中に差し入れた“We are all prostitutes”という英語のフレーズと、響き合った。二つのバンドの「音」の同時代性みたいなものに、言葉の共鳴がリンクした。乗っかった。僕にとっては時代そのものの一つのアイコンになるくらいに。しかし、思い出したのはそのことじゃない。「昭和崩御」という語はEP-4には「歌えない」、もし歌えばEP-4の曲にならない、と痛切に感じたことだ。同時に、佐藤薫はうまいやり方を発明したものだな、と。語を歌詞の外に放り出して「音」の中に入れる、というやり方。それがなければEP-4とThe Pop Groupが僕の頭の中で拮抗することはなかった。そしてこの拮抗する一対がYMO的「アジア」と対立することも。さて、来る5月21日に、君はバンマスとして君の歌姫にどんな「歌」を唄わせるのだろうか。楽しみにしている。

よもや日本語詞を乗せることはあるまい、とは予想する。単語の絶叫(?)ならあるかもしれないが。しかしどうして「よもや」なのか。大昔の論争──日本語にロックは可能か──に絡めて言っているのではない。論争にはもう決着がついているだろう。日本語が乗るロックは「ある」ということを、数多のミュージシャンが実証してきた。あの論争は問題の立て方が間違っていた、と。内田裕也にとっての「ロック」には確かに日本語は乗らないだろう。しかしこの決着の仕方が、改めて僕に思わせてしまうわけだ。EP-4の「音」には日本語詞は乗るまい。君も書いていたね、プレスリーやバルバラを爆音ノイズでやりたくなる、と。忌野清志郎でも美輪明宏でもないわけだ。それでもプレスリーやバルバラを爆音ノイズでというところに、僕は日本語問題を感じずにはいられない。君が日本語で文学を実践する人間であるという事実との因縁を。早い話、アメリカ人ならプレスリーを、フランス人ならバルバラを「破調」させてみたいと思わんだろう。思うアメリカ人やフランス人もいるかもしれないが、君の欲望が「マイウェイ」を「破調」させたシド・ヴィシャスと同種のものだとは思えない。君の言う「爆音ノイズ」はむしろ、かつての佐藤薫の「昭和崩御」に近しいと感じる。日本語が乗らない「音」に招き入れられた「日本語」。

「音」と「言語」の鈴木創士的関係(佐藤薫的と言ってもとりあえず良いのだが)に、ヨーロッパにおいて近しいと僕が感じるのは、例えばエイミー・ワインハウスだ。彼女の歌は一面、実に痛々しい。それは、彼女がドラッグに溺れていたこととは何の関係もない痛々しさである。歌い方、英語の発音の仕方に僕はそれを感じる。彼女がトニー・ベネットとデュエットしたスタンダードナンバーを聞いてみてほしい。ベネットの歌い方と発音の「自然さ」と対照的な、彼女のそれの「不自然さ」が実によく分かる。彼女の歌声が、昔日の甘いポップスとは決定的に異質でどこか「よくできたモノマネ」のように聞こえてくる。その結果、彼女の自作曲まで違って聞こえてくる。”My tears dry on their own”などそれ自体として実に見事な詞だと思うけど、その見事さが歌い方の「無理」と人工性に支えられているように。彼女が薬に溺れたのは、あくまでこの「無理」の結果だと僕は思う。どう憧れても決して同じになれないもどかしさを一つの「形」(鈴木創士用語のつもりで書いている)にし続ける「無理」の結果。以前ここで紹介した小説『鑑識レコード倶楽部』の隠れた主人公、あのウェイトレスは僕の中ではエイミー・ワインハウスだった。

もう一つ、例を挙げたい。今度は君が文学者であることに関わる例。怒るかもしれないが、最近実際の映像を見て君のことを思い出さずにはいられなかったのよ。ピアノを弾くサルトルだ。ドビュッシーか何かを弾いているのだが、これがまた実に下手くそで、演奏の体をなしていない。というか、彼には1、2小節ごとに立ち止まらないと次に進めないという癖がどうもあるらしい。指はある程度動いているのだから、ちょっと練習すれば下手でもそれなりにスムーズに弾けたろうに、どうもそういうことではないらしい。休止を入れることでいちいち聞く時間、味わう余裕を作っているように見える。この独特の時間性が、彼の文章、特に哲学や批評のフィールドにおける文章の、延々ととぐろを巻くような時間性とあまりにかけ離れていることに、僕はある意味安心した。サルトルにおいて言葉と音楽はまさに無関係。両者の関係に関しては、ニーチェがくどくど言うことよりよほど信頼できると思った。

要するに、無関係という関係にも色々ある? 言語的ないし音楽的「規則」にしろ、チェスのルールのような側面(無視すれば会話が成立しない)から、料理のレシピのような側面(無視しても食える)まであるのと同じかもしれない。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

【Monologue】ケイト・ブランシェットの『TAR/ター』はなかなかよかった。