騒音書簡2-21

2023年11月28日

親愛なる良彦さま

「完全にってわけじゃない」けど、君が言うように、リズムが狂っている、あるいはリズムを狂わせるのは、自慢することではないが、僕のオハコかもしれない。いや、いや、もちろん自慢しているわけじゃない。セロニアス・モンクのようにリズム自体がもつ独自の跛行性にまで達することができないのだから、僕はミュージシャンとしてはヘタクソな部類だ。まあ、それは仕方がない。完全にヘタクソってわけじゃなければいいけど、それはそれで使いようがある……。ともあれ我々の『騒音書簡』、言うところのノイズ自体は、リズム的に完全には狂っていない。というか完全にはスベらないこともあり得るわけだ。「完全にってわけじゃない」、とにかく言いたかったのはこれだ。例のごとく、何かの余地が、余白が残されるだろう。想像的空白だよ。「完全にってわけじゃない」。この言葉はセリーヌからのパクリで、世界中で耳目を集めた(日本ではそうでもなかった)新刊書、発見されたセリーヌの手稿『戦争』の冒頭の言葉だ。この言葉は本にするにあたって校訂者によって削除された。ノイズのように。

それはそうとして、君がついにちゃぶ台をひっくり返し、別の意味で騒音を立てながらこの書簡にピリオドを打たないでくれて幸いでした。前回の手紙で僕は君を怒らせようとしたわけではないからね。つまり騒音書簡をまだ続行することができる。エリック・ドルフィーのように(お互い)すっ頓狂な音を出すことができる。君はノイズには三人必要だと言ったが、僕たちの場合は佐藤薫がいるから、まだ誤魔化しがきくんじゃないだろうか。佐藤は聞き流すだけで、たぶん動じないんじゃないか。少なくとも僕はそうであることを願っている。ところで、君は自分がドルフィーの立場にいるんじゃないかと疑心暗鬼になっているが、そんなことはないのではないか。僕はどちらかといえば君にはコルトレーン役をやってもらいたいと思っているし、実際、前からそのようなつもりでいた。実際、コルトレーンは練習熱心で真面目な「哲学的」ミュージシャンだった。昔、知り合いから聞いたけど、日本公演に来たとき、新幹線のなかでも練習していたくらいだからね。しかも「ここでは、おれ次第なんだから」と言ったのは君なんだから。だから言うところの君の役柄は、どちらかと言えば、ドルフィーではないんじゃないかと思っている。たしかにコルトレーン役は大変だよな。コルトレーンと一緒にステージに立てるならドルフィー君は気楽なもんだよ。

最近はグールドのベートーヴェンが気に入っていて、ベートヴェンのピアノソナタかパブロ・カザルスのチェロばかり聞いている。僕の「アルトー」を含めて、ここ、あるいはそこかしこで何が起きているのかという問いはこの際どうでもいい。「アルトー」に関しては森田潤との第二弾で音楽の一様相とてして続行するつもりでいる。日々、クラッシック音楽を好んで聴けば聴くほど、僕はミュージシャンとしてノイズをやるしかなくなる。音楽とか文章とか、手段はどうでもいい。これがノイズです! まさにそういうこと。もうそれを提示するしかなくなっているのかもしれない。君にはわかっていることだろうが、僕がクラッシック音楽を好んで聴くことは、直の反応とか、生理的欲求が問題になっているのではない。前回の手紙で引用したアルトーの言うように、理論と実践においてそうなんだ。

市田良彦に教えてもらったアルチュセールの言葉を思い出すよ。曰く、「ぼくは自分と直接かかわりのないことを、理論においてなにも理解できない」! まさにそのとおり。つけ加える言葉はない。じゃあ、自分と直接かかわりのあることとは何なのか。それをここで読者諸氏「レディース・エンド・ジェントルマン」にばらしてしまうのは野暮だからやめておくが、僕に関わり合いのありそうなことで言えば、たとえ君が言うように、ローリング・ストーンズが講談哲学の新哲学派だとしても、それはそれで構わないのではないか。ストーンズの今回のアルバムを聞いたが、予想以上に良いなあと思った。ビートルズの新譜らしきものが最悪のゴミだったことを思えば、たいしたもんだよ。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

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