騒音書簡2-27

2024年5月28日

良彦さま

デスマス調は日本語のひとつのテクニックなのだから、それには気をつけなければならない。君の前葉を読んで、これは、ぜひとも「経験」等々について自分の考えを述べないといけないと思った。この反論は君には弁明じみて聞こえるかもしれないが、まあ、辛抱してくれ。

経験しようがしまいが、そのこと自体は人の勝手だ。「経験」は直接、創作に直結しない。もちろん「作品」においておやそうではないし、作品は経験から出発したとしても、経験との距離、乖離へしか辿り着かない。経験は、それ自体において感動、恐怖、その他の情動を退けたとしても、特権的瞬間を構成しない。それはまさに「無知」にもとづくものであるし、経験は無知と等価である。それはましてや記憶ではないし、たとえ記憶に属することができたとしても、記憶の陥没、窪み、裂け目、裏側、等々でしかない。しかし「経験」はいやおうなく残ってしまう。経験としてのみ残される。旧約聖書でイザヤが言うとおり、皆殺しの天使による大殺戮の後にも、どうしても「残余」がある、というように。かくしてそれは孤立している。そしてそれは「残ったもの」として知らずに過去から借用する。日々、「経験」はあるのか。それを積み重ねて「自己」の形(おおむねそれもひとつの連続性をまずは仮構したものだ)が出来上がるわけではまったくない。だから君の言う「ああ、そうですか、そうなんでしょうね」と言う言葉は、経験ではないし、非経験でもない。だからこそ逆に文学も音楽もひとつの「経験」になることがある。

《人は身体が何をなしうるか知らない》ということ、《「私」にとっては連続しているはずの身体経験こそ、「私」には「外」をなしていた》ということは、スピノザ主義者でない僕にも自明のことだ。「経験」としてさえ「私」はそれを知っている。だからこそ「身体」は「残余」に属している。20世紀の「哲学」にとって、いつも「存在」の後に「身体」が来たのはそれ故ではないだろうか。連続性の外にあるものが、そのようなものとして、特異な表現の形(作品)をもつことが稀有なことであって、それが「事と次第による」のは本当だとしても、レイモン・ルーセルのような人を考えるなら、それでは満足のいく回答ではないね。この満足のいかない回答は僕自身の原則的問題のひとつのままであるのだから、今はその点について君と議論するのはとても興味深いとだけ言っておこう。

君は自分が「創作家」であることを認めたのだから、その点についても少しだけ。「創作家」、要するに「作家」だ。たとえば、数学者たちや物理学者たち、僕の敬愛するゲオルグ・カントールやクルト・ゲーデル、ポール・ディラックは、残念ながらそのままでは「作家」ではないし、言うまでもなく他の講談哲学の人たちはまったくそうではないが(彼らは三文小説家だ)、マルクスだって(『共産党宣言』や『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』のあの素晴らしい文章!)、アルチュセールだって「作家」じゃないか。評価は別にして、ドゥルーズもデリダもそうだ。フロイトもまさにそうだった。そして君も作家じゃないか。君の書いた数々の本がそれを示している。そうでなければ、僕はいうところの哲学的感銘を受けたりしないし、第一、二ページ目を読む気になれない。「作家」は、écrivainではなく、écrivantと書くべきだ、とあるときロラン・バルトがおずおずと言っていたように、たんにそれは「書く人」、「書いている人」なのだからなおさらだ。日本語だと「家」がつくので、職業家か、それとも一家をなす人みたいだけれど、それは近代のニュアンスにすぎない。紫式部も、清少納言も、鴨長明も、西行も、幾人かの江戸の俳人たちだって、そうではなかった。

マイルスの「洗練」について一言。君とは少し見解が異なる。マイルスの「洗練」は『ビッチェズ・ブリュー』ではなく、その直前、60年代の黄金のクィンテット(マイルス、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズ)に極まると僕は思っている。『マイルス・スマイルズ』、『ソーサラー』、『ネフェルティティ』の頃だ。たしかに『ビッチェズ・ブリュー』は好んで聞いたアルバムだし、「最強のロック・バンド」の演奏であると思うし、打ち明けるならEP-4もずいぶんその恩恵にあずかっていたけれど、ビバップを基点とする、その前と後のジャズの「連続性」における「洗練」という点では、黄金のクィンテットに勝るものはないと今でも思っている。マイルス・バンドの電気化は当時衝撃だったけれど、今となっては、「エレクトロニック」であること自体はそれほど問題なのだろうか。しごく当たり前のことと言っていい。『ビッチェズ・ブリュー』は黄金のクィンテットがなければ生まれなかった。その点から言って、『ビッチェズ・ブリュー』は最高だが、ウェザー・リポートはイマイチだ。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

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