騒音書簡2-30

2024年8月30日

Sô-siどの、

ライブ空間を思い浮かべてもらいたい。「体験」は言わば流れだ。体験する「私」にとって、それは「すでにそこにある」。いつはじまったのかいつ終わるのか分からず、というかどうでもよく、「私」はただそれに身を委ねるだけ。展開の予想はできず(そんな余裕はなく)、どんな一貫性も示さず、連続性さえあやふや。それは無限にただ「持続」している。いや、それも正確ではないだろう。何が持続しているのか、その「何」を「私」には言うことができないのだから。「体験」の流れはつまり持続する「無」だ。流れは「私」に向かって勝手に、流れ自体を独り言として語りかけることをやめない。言うなれば客観的に。ところがこの受動状態の主語はずっと「私」である。これは私の「体験」であり、私はこれを見ている/聞いている、と「私」は知っている/感じている/体験している。「体験」の内容を動詞で表せば、動詞群は一人称でしか活用しない。「体験」の主体は「私」でしかなく、「体験」はあくまで主観的である。「私」に限定される有限のものである。

そんな転倒ないし交代が「体験」では生じている。そしてライブはいつしか終わる。「私」は夢から覚める。すると反省的意識が頭をもたげ、「体験」は「経験」になる。過去に遡って「体験された経験」になる。「私」はこのライブに立ち会った! 彼らの音を体験した!「それ」──彼らの音にして私の体験──は「ほんとうにある」! 主観的なものと客観的なものとの一致は古来より「真理」の定義であるから、真理なるものはこのようにして発生すると言ってもいい。真理とは「体験」の「意味」にほかならない。「それ」はあった!「それ」は私の手元に今もある! つまり「存在」もまた「存在する」という「意味」でしかない。

ことが厄介であるのは、「意味」である以上、そして「意味」には誤解も伴う以上、「体験」はでたらめ、まったくの間違い、嘘、幻想、妄想であったかもしれないという点だ。「体験」の真理性は虚偽性を排さないどころか、生みさえするのである。妄想を「ほんとうだ」と言う/思うから、統合失調症者は病人であるわけだ。彼らが自分の妄想に閉じこもり、何も言わなくなれば、彼らはただ、私たちのものとは違う彼らの「世界」を生きているだけ。彼らの「真理」を生きているだけ。俺は『裸のラリーズ』のライブを体験した、『伸展のずる』に会った、君たちはそれを見ていないだろう、知らないだろう…。「体験」の流動性は、「体験」を「経験」として語る言葉の中にそのまま真偽の反転可能性として持ち込まれ、嘘を言ってはならない、間違いに固執する者は異常だという、「体験」の本性とは何の関係もない規範の介入を待つ状態を作り出す。ずっと夢を見ている人に向かって、それは夢ですよ、幻想ですよ、と告げても彼らの「体験」の真理性を壊すことはできないからこそ、デカルトは「ひょっとして私は夢の中にいるのかもしれない」と懐疑する前の段階で、私は少なくともあんな狂人ではない、狂人は懐疑すらしないのだから、という排除を実行しなくてはならなかった。懐疑する私は狂っていない──デカルトのこの言明は、「体験」が真である/真理の根拠は「体験」にある/真理は「体験」が「経験」になったときに生まれる、という事態を承認すればこその規範的宣言であったろう。

問題は、「体験」を根拠に何かを語る人、自らの「体験」を記述しようとする人は、「体験」とは異質のこの規範に乗っかって、「私」語りをしているだけ、という点だ。語られた「体験」について、そんなものは幻想だ、騙されているだけだ、と論駁しようとする人もまた、私はそうは思わないというその「私」、別の規範に従う「私」を語っているだけ。音楽についてなら、要は最終的に「好き嫌い」で語ってもよい、仕方がない、という状態を「体験」は準備してしまう。「好き嫌い」が、他人に規範を押し付けることへの防波堤になってしまう。「私」は~を愛好する者として「あなた」の趣味を尊重しましょう。それが規範を押し付けないという規範になって、音楽語りはおしまいになる。「それってあなたの感想ですよね」という誰かの決め台詞が聞こえてくる。

そんなことしかできないのかという苛立ちが、語る人としての僕にはつねにある。そんなことならいっそ、誰の固有の「体験」にも立ち入らない文章を書こうと僕はしてきた。水谷孝の音楽と詩について長々と導入的文章を認めたとき(『The Last One:裸のラリーズ詩集』を参照ください──高価ですが版元にとってはすべて売れても赤字で、再版はありません)には、特にその自覚が強かった。受容における「体験」主義が典型的に蔓延っているバンドのように思えたので。 君たちのアルバムのために書いたライナーノーツでも、ここ「騒音書簡」でも同じこと。僕が務めてきたのは、自分を含む誰かの音楽「体験」については極力語らず、書くものを聞いたことへの応答とすること、もう一人の事後的バンドマンとして「演奏」に参加すること。つまりは狂人かもしれない音楽家たちの「世界」を言葉という別次元に再-現すること(「再-現」とは別次元での再現前化つまり一種の移動であって、モデルの模倣としての「再現」ではありません──僕が音楽家ではない以上、「再現」は不可能)。彼ら/君たちのように「世界」が作れれば、と願っている。「のように」はこのときモデルとの「同じ」と「違う」の両方を含んでおり、その意味では僕は君の「ように」、あるいは君以上に、偽の古典主義者たる自覚と自信はあるね。ただしその「古典」は僕が「体験」するすべての音楽のことだが。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】8月は災厄の連続であった。クレジットカードが不正使用され、おかしな夏風邪(コロナでもインフルエンザでもなかった)のせいで2度も高熱を出し、それが治りきらないうちに東京に行かねばならず、さらに、ちょっとした炎上騒動に巻き込まれつつあり…。