創士兄、
それに対しマラルメの詩は、言語であることは分かるものの、何について何を語っているのかよく分からない。客人の言う「意味」があるのかないのか分からず、言語だから意味は「ある」のだろうが、ではその意味は?と問えば詩をほぼそのまま繰り返す──説明せずに記述する──ことぐらいしかできないし、「賽の一擲」に至ってはその記述さえおぼつかない。まさに、それを日本語にして何の「意味」があるのか。彼の詩の「世界」はあくまで自己充足的で、そのとき「世界」という語は「作品」の同義語でしかない。絶対音楽なる理念を体現していると言われたりするブラームス以降の音楽も、その「世界」がどのようであるかを言おうとすれば、曲を最後まで聞いて「このようである」とただ指差すか、曲を成り立たせる規則や技法を記述するしかない。これも「このようである」と言うことのバリエーションだろう。そこに作品外の「世界」などない。
それでも、そこが上の寓話の面白いところだと僕は思うのだが、客人は「世界」を伴わない音列を言語だとは認識する。これは絶対音楽を「音楽」として聴く──「聞く」ではない──こととどこか似ていないか。とりあえず無調の12音技法を使っていることは分かる類の絶対音楽は、ここでの例としてあまり適当でないかもしれない。音に規則がある──言語に文法があるように──と実感できるのだから。ここでの例としてはむしろ、φononの数々のアルバムを考えてみるべきだろう。僕たちはラジオのぶちぶち音や肺の呼吸音まで「音楽」として聴くことができる。上の寓話を知って、僕は何よりまずそれらのことを思い出した。僕はこの客人としてあれらの音を受け取っていた。
「世界」を欠いた音楽や詩にも「語っている」ことはある。それらは「私は語る」とは語っている。「私は語る」とそれらが「語っている」、と僕はそれらを読む/聴く。その「私」に「おまえ」と呼ばれている気がする。この「私」は作者でも演者でもない。僕がそれを聴いたり読んだりしている間だけ、語られている「私は語る」なるフレーズの発話主体として、その語られていることの中かつ外にいる〈人物〉だ。だからその「私」を三人称で「彼」と呼んでもいい。ブランショがそうしたように(『私についてこなかった男』)。
そんな「私は語る」の持続が、前回の手紙で僕の言った「歌」であるのかもしれない。だとすれば「歌」に「内容」があってはいけないのかもしれない。しかし僕としては言いたい。詩を欠いた器楽曲に逃げるのは極めて安易なやり方だと思う。音楽を詩のメタファーにして「世界」を捏造させてしまうから。「私は語る」は言わば、あらゆる小説の冒頭の一行だ。それを音楽家にも詩人にも持続させてほしいとひたすら願っている。その持続の締めくくりには、エリック・ドルフィーの「言葉」あるのみ。「音楽はいったん終われば空中に去ってしまう。二度とそれを捕まえることはできない」。