騒音書簡1−15

2023年5月26日

So-siくん、

ひょっとして君は、言語がなくても音楽はある、と考えているのだろうか。「音楽を聞いたことがない状態を想像できない」とはそういうこと?「我々の聴覚の体系」に入り込んだ「隠された歌」は言語ではない──〈まだ〉あるいは〈本性的に〉──と言いたい? 僕としてはそういう「歌」があるなら、それはすでに立派な言語ではないかと問いたい。歌なんだから。僕がここ数回の書簡で書いてきたことは、言語と音楽は同時的なもの、〈双子〉のようなものであろう、ということに尽きる。一方を欠いて他方は存在も存続もしえない互いの〈分身〉と言い換えてもいい。そして、にもかかわらず我々は両方の〈分裂〉を生きている。そのことをあの寓話は見事に言い当てているように思えた。すなわち、聞こえた音から音楽を寓話的に、つまり想像上の操作により、消去しても言語は残る。何かを語っている、ということが。その何かに了解可能、再言語化可能な意味があるかどうかは二次的な問題。

僕が言ってきたつもりのことは、それに付随してもう一つある。この双子にはもう一人の分身がいる。何かを語るという可能性は、「狂人である」可能性と同時的なもの、双子のようなものであろう、ということ。僕にそのことを教えてくれた──フーコーを通じて間接的にだが──のは、君が僕よりもはるかに親しんできたアルトーだ。リヴィエール宛書簡の頃から言いはじめた空虚(「完全な不在」、「真の減衰」、「完璧な虚無」…)の話。思考を崩壊させ、編集者リヴィエールが期待したようなまっとうな詩の言葉を彼の詩から奪った空虚。けれどもアルトーがすぐそこに立ち返り、そこに「言語が今後役立ちえる唯一の用法」を認めた空虚、「狂気の、思考の抹消の、断絶の手立てであり、非理性の迷宮である」空虚(『シュルレアリスム革命』誌第3号)。言語を不可能にすると同時に可能にするもの、と言ってもいい(そのかぎりでマラルメの「虚無」に同じ)。その点は僕にとってまだ生煮えなのだが、この「空虚」としての「狂気」こそ、音楽と言語が接触する場所なのではないかと思っている。それを示唆してくれたのも、「発話行為がかき立てる空気の移動、ただそれだけ」を演劇の言葉において実現しようとしたアルトー(『アルフレッド・ジャリ劇場』)。つまり僕にとって「残酷演劇」の一つの──あくまで「一つの」にすぎないけれども──定義は、言語がそれだけで「歌=音楽」になる場所だ。君に向かってアルトーの話をするのは、生煮えのままでは憚られたので、今まで言わずじまいだった。

それでもここでそれを言った以上、我々の書簡の主題である「騒音/ノイズ」に引っ掛けてもう少し言えば、発せられたどんな言葉の隣にもこの空虚から発せられる〈他の言葉〉が張り付いていて、この二重性が音楽では「楽音」と「ノイズ」のように聞こえてしまう、と考えたい。ここで言う〈他の言葉〉をフロイトは精神分析により聞き取ろうとしたのだろうけれど、精神分析が登場して以降は、我々はどんな音楽も──君の言うようにモーツァルトですら!──ノイズ・ミュージックのように聞くこともまたできるようになった──不幸にしてなってしまったと言うべきかもしれない──と思っている。精神分析のおかげではなく、あくまでそれが登場した頃から。生活音や爆発音でも音楽として聞くことができる(アンビエント、サウンドスケープ、シュトック・ハウゼン……)のは、それと裏腹の事態であろう。我々は皆「精神分析家」なり──それが現代性ということかもしれない。

君の言う「とてつもなく古い」音楽の例として、僕の頭にすぐ浮かぶのは、古代インドの『リグ・ヴェーダ』第10巻に含まれる「ヴァーチュ」讃歌だ。「声」そのものである神「ヴァーチュ」が自らを讃える歌。「声 voice」の語源となった神の唄う歌。古すぎてどんな歌であったかなどもう分かりようもないけれども、コーランの詠唱を聞いたり、ラ・モンテ・ヤングの通称「ブラック・レコード」なんかを聞いたりすると、あの讃歌はきっとこんな感じで歌われたのだろうと夢想してしまう。最近の佐藤薫を聞いても。「ヴァーチュ」は古代ギリシャになると、神の機能として分裂してしまう。神託(=言葉)を与える機能と、人間に音楽を教える機能に。それはさらに、もっぱら神託を授ける神と、その神への返礼として音を奏で、歌を唄う人間に分裂してしまう。坊さんたちによる経の合唱を聞くと、僕はデュメジルから教えられたこの話を思い出す。近代になって音楽と言語が「芸術」における音楽と文学として分裂し、現代ではさらにその音楽が音楽と騒音に、文学が文学と「狂った」言語に分裂したのだろう、と思いつつ。しかし分裂はいつでも「狂人」によって無効にされて、「ヴァーチュ」に帰ろうとする。

そういえば、今年の「5・21」に女性ヴォーカルは登場しなかったけれど、立花ハジメのサックスと森山未來のダンスは君たちの音楽に対し、立派に言語として相対していたと思うぞ。森山はまさに「両の瞼を肘、膝蓋骨、大腿骨や足指と代わる代わる組にして踊らせたい、そしてそれを見てもらいたい」(『残酷演劇』)という意志を君たちに返していたではないか。それが返礼としての歌でなくて何であろう。これは比喩でもなんでもない。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

【Monologue】ケイト・ブランシェットの『TAR/ター』はなかなかよかった。