騒音書簡1-20

2023年10月29日

市田良彦さま

バンド(EP-4 unitP)の「作品」がバンドそのものでしかないというのは、確かにそのとおりで、それがバンドの強みであり、「ハーモニー」であり、その「破綻」であり、スリルであると僕も思ってきた。つまりバンドの「政治」があることは君もよく知ってのとおりだ。バンドは本来の意味でのライブのためにある。バンドにとってはすべてが一回きりの「ライブ」でしかない。あとは、踊って、全部忘れてくれ、というわけだ。しかし今度の森田潤との共作CD『Vita Nova』はそうはいかなかった。我々はバンドではなく、デュオであるし、これはいささか意味が違う。我々ひとりひとりには「音のイメージ」が細部にわたってあった。それには、君が言うように、たぶん我々のそれぞれの茫漠たる記憶が介在しなければならなかった。申し合わせはなしで、いつもそうしなければならなかったし、同時にそうであることしかできない。だからこそ音楽その他によって僕の不確かな記憶は君の記憶にも触れることができる。勿論それが、記憶を共有するのとはまったく別のことであるのは言うまでもない。

君がCDを誉めてくれたことは、率直に言ってとてもうれしいが、誉められているのか、見透かされているのか、全部バレバレなのか、こちらとしてはちょっと気恥ずかしいところがあるし、つくづくリスナーという存在は怖いなあと思う。ところが、リスナーに対する未知の触発というのはどんなフェーズにもあって、どんな具体的次元でも考えうることであるが、本当のことを言えば、音楽をやるとき僕はリスナーのことを全然考えていない。それどころか自分自身がリスナーであることしかできない。えらっそうなことが言いたいのではない。「作品」という観念があり、もう一方に「作品の不在」=「作品ではないこと」=「作品のそれ自体における解体」があり、作品からの分離、作品の除去、脱作品があり、それが君の言うように同時的であるとしても、到達すべきその地点において演奏者としての僕は曖昧なままの自分を感じて、慄然とせざるをえない。意識的に「ゼロ地点」を維持するのはたいそう骨が折れる。なぜなら僕は音を創造するのではなく、あくまで何かを「聴いている」にすぎないからだ。偽古典主義者なんか、おととい来やがれという感じ。この地点より先には、帰還は、帰るところはないというのに、とにかく行ってみるしかない。同時的である精神と身体について結論を語るスピノザのようには結論を出せないでいる。

今度のCDが君の言うようにそれなりに「作品」になったとすれば、それは森田の才能によるところが大きい。だから僕にとってもこのデュオは楽しいよ。森田自身がどう思っているかは知らないけれど、勝手な言い草ながら、それは僕にとってある種の絶対的な信頼関係に裏打ちされている。バンドとは違う信頼関係。だがこの信頼関係は自分自身を知らない。触発とも違う。俺は触発なんかされない。不思議なことだが、森田潤を昔から知っていたわけではないのに、なんかよく知っているという錯覚を突然覚えたりする。2023年上海生まれの俺の年の功なんかじゃない。秘密を漏らせば、このような錯覚は「作品の制作」にとって非常に貴重である。大音響とともに作動した森田の記憶は僕の記憶を陥没させる。彼の記憶の断片は僕の記憶に向かって流出し、音楽的な意味で僕の記憶にはあちこち穴が開く。そしてとても観念的な象嵌(ぞうがん)が行われる。別の新しい「記憶」が生まれようとしている。だがそれぞれの過去からは何ひとつ失われないし、何ひとつ付け加わらない。それでいて両者の記憶は溶解することなく、しかも「私」が「他者」であることを確認する必要もない。互いの記憶は互いのなかに混じることがないのだから、もはや形骸ともいえる記憶は「内容」の断片そのものとなり、その場で結晶化し、この象嵌が作品の「形式」となる。

Vita Nova(新しい生活)が誰のものでもあるというのは本当だ。「詩は万人によってつくられねばならない」、ロートレアモン(イジドール・デュカス)は『ポエジー』の一節にそう書いた。この詩は狂っているかもしれない。それはゼロ地点である。どこかの一丁目のゼロ番地。つまり始まりにあっては始めるしかない。やれやれ……。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】先日、京大時計台で催された市田良彦「ミシェル・フーコーの会」は、いい会でした。