騒音書簡2-6

2022年8月28日

創士くん、

音楽が好きかって? 俺には音楽絡みというわけではないのだが、一つの規範がある。いつのまにか出来上がった作業仮説のようなものにすぎないけれど。それは〈好き-嫌い〉でものを語らないということだ。とりわけ、こだわりのある対象については。そのこだわりが〈好き-嫌い〉の判断を許さない。そんな判断は信用ならない、と我ながら思ってしまう。信用すればこだわりとの関係において結果的に損をする、と。

話は終わってしまうではないか、〈好き-嫌い〉を持ち出せば。それを聞かされたほうは、そうですか、と返すほかない。〈好き-嫌い〉は主張の根拠になりこそすれ、それ自体に根拠のない最後通牒のようなものだ。これが好きな私、嫌いな私を語っているのみ。マグナス・ミルズに戻って言えば、告白派の告白がそこへと帰っていく最後のセリフ。どうしてそんな「私」を信用できるのか、と思ってしまう。求められてもいない誓約をして後で困らないのか、とも。恋愛の場合には致し方ないだろう。恋愛には告白=誓約に続き、二人でする契約が待っているので。しかし、自分とは契約をする必要などない。〈好き〉は〈嫌い〉の反対ではなく、〈嫌い〉から差し込む影のようなものだろう。正常と異常の関係に等しい。いつか〈嫌い〉になるかもしれない、異常に、病気になるかもしれない状態の名前が、〈好き〉であり正常であるだろう。音楽と雑音の関係もこれに等しいと思っている。

だからまた、分かっているつもりではある。〈好き-嫌い〉をはっきり言ったほうがよい瞬間もある、と。根拠としてそれを持ち出すのではなく、まして最後通牒にするためにではなく、こだわりを自分vs自分、自分vs他者の関係において持続させるために。先回の手紙でライブ評まがいの感想を綴ったのはそのためだ。騒音書簡は俺にとっては、きみたちにとってのセッションやライブのようなもので、反応しなければ続かない。その反応は反応される側にとっては、いつでも告白だろう。自分語りだろう。「私」はこういうボールを投げる、さて「きみ」は? その交換の継続が演奏であり、往復 (?) 書簡だろう。しかし、言い訳でなく言うのだが、告白はいつもフィクションだ。嘘をつくわけではない。あくまでほんとうのことを言っている。けれども、告白することで、その告白文の主語でしかない「私」を、告白している生身の「私」と儀式的に一致させ、告白される者に例えば──まさしく例えばでしかない──「市田良彦」というペルソナを持続的に虚構させる。この人物はいつか狂って「私はナポレオンだ」とか言い出すかもしれないのに。それでも「きみ」が反応を返すためには、少なくとも返すまでは持続する虚構が必須であるだろう。先回の手紙で自分をアンディ・ウォーホールだと言ってみたのにはこういう機微があった、と告白しておく。告白も感想文も、主語が「私」であるかぎり、誠実であることとフィクションであることは矛盾しないどころか、両立させることが誠実性の証だ。

こだわりは、〈好き-嫌い〉でないとすれば〈意志〉か? これもYesかつNoだ。そのこだわりを持続させようと望んでいるという点ではYes。望んでいなければ、すでにこだわっていない。しかし、望みどおりにならないものがあるからこそ、こだわりではないのか。捨てようと思っても捨てられないことがこだわりであるだろう。だからこだわりは〈非意志〉でもある。〈好き〉と〈嫌い〉同様、〈意志〉と〈非意志〉も互いの影であるだろう。格別ややこしいことを言っているつもりはない。欲情の身体的表れは「私」の〈意志〉の現れか? 望んでもいないのに「ヤツ」が反応しているという「私」の〈非意志〉であるから、欲情は「私」の欲情ではないのか。

「演奏しているときにはなにも考えないでいる」ことが自分の「課題」だと、書いていたね。俺はそれを、考えることも考えないでいることも、〈非意志的な意志〉だというふうに受け取った。生物としての人間にそれ以外のことができるのか、と思う。「課題」に括弧と下線の両方を付して読みたい。そのうえで、俺がなるべく〈好き-嫌い〉について語らないことを規範にしているもう一つの理由も書いておきたい。YesかNoか、Aかnot Aか、はっきりさせろという脅迫への抵抗が第一の理由であったわけだが、もう一つ、それに相反するような理由もある。生物としての人間には〈意志〉と〈非意志〉など裏表にすぎない、という理屈は、どうしてもキリスト教の原罪遺伝説を思い起こさせる。この理屈は、罪を犯してしまうことが罰である──罪としての〈非意志〉的欲情は汝がかつて〈意志〉的に犯した罪への罰なり──という仕方で転用されたではないか。いくら懺悔してもだめ、最後の審判の日まで懺悔し続けよ。現代では、とにかく〈好き-嫌い〉については尊重し、法律違反かそうでないかだけを問題する、ということがほぼ規範になっている。二つがセットになって人間を阿呆にしている。それにだけは抵抗したいと思う。なにか言うべきことがあるとすれば、この規範に対する騒音でありたい、と。

市田良彦

 

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

【Monologue】近況:温泉に行ってきた。旅館の飯は不味かった。高原を車で走るのは快感であった。