騒音書簡2-11

2023年1月31日

親愛なる友

歌……。すべての音楽、あるいは「音」が、「歌」に収斂するのかどうか僕にはわからない。最初に「歌」があったのか、「歌」とともに、「言葉」やメロディ、リズム、その他のものが、我々の「血肉」になったのかどうかもわからない。ミュージシャンとしても自分でそのことを確認できない。たぶん自分から好んでのことだろうが、僕はとても曖昧な立場にいる。歌は聞こえている。歌はたゆたっている。みんなが歌えばいいと思う。たまにだが、僕のなかに「歌」が響いていることは間違いない。それはひとつの普遍的な経験なのだろう。《どんな楽器も音楽も「歌」として聴く》。なるほどね。これを覚えておかなきゃ。君が言っている意味とは違うかもしれないが、僕の頭のなかのどこかにも「歌」があることはたしかだ。しかし演奏者として言えば、楽器を「歌」と化すのはとても難しい。歌うようにやればいい、ということでないことは僕にもわかっている。

歌……。ところで、正直に告白するが、昔からシューベルトの歌曲とかが好きでね。いまでも聞くことがある。しかし、PILのジョン・ライドンの歌のファンではあるが(Francis Massacreは僕も大好きだよ)、「ロック・ミュージシャン」としての僕にとって、いつも頭のなかにある「歌」はどれなのかといえば、いまでもやはりモンテヴェルディのミサやモーツァルトのレクイエム、バッハのマタイ・ヨハネ受難曲の合唱であるとしか言いようがない。理由はいいろつけることができるけれど、ひとつには、たぶんそれらの歌には、クラシック音楽特有の複雑さの向こうに骸骨のように透けて見える単純ともいえる構造があって、「例えば」古代の石笛の音や、洞窟のなかに反響している音や、チベットの呪文のようなものが、予想に反してかすかに聴こえることがあるからだ。バロック的な重層と拡がりという遠近法が最後に集まる「消点」のその奥から聞こえてくるみたいだ。向こう側から厚みを破る、というか反対向きに穴をうがつものがある。こんなのはなかなかない。ロックにもジャズにもない。幻聴の宝庫といってもいい。脳が痺れるようだ。自分がメロディーを意識しているときでさえ(僕にもメロディーを求めることはあるさ)、僕はそれを聴こうとしてしまう。言うまでもなくエスニックなものそれ自体を探し求めているわけではない。だがこの「例えば」という思想は音楽ではないし、音楽とは関係ないかもしれない。

歌……。僕と森田君の『Last Chance in Koenji』の批評だが、君の言うとおり君が適任でないかもしれないけれど、まず君の感想を是非とも聞いてみたかった。無理強いしました。ありがとう。楽器が一つの声となること。だがジョン・ライドンの歌のように聞こえるようにするには……。僕がやるのかい? オルガンで? えらいこっちゃ! でもいいヒント、というかいい助言をもらったと思っているよ。ジョン・ライドンのことは最近忘れていたが、さっそくPILをあわてて聞き直した。どんな風にやれるかはわからない。森田潤との次回作、あるいはunitPのライブで?

歌……。『フラワーズ・オブ・ロマンス』は僕にとっても特別なアルバムだ。Francis Massacreについて言えば、君の言う「歌」がずばりジョン・ライドンの唄う歌そのものを指しているのか、彼の歌が想起させるものを指しているのか、そうではないのか、いま少しわからないところがあるけれど、この曲の演奏は『フラワーズ・オブ・ロマンス』のなかでもとびきり冴えているというか、とても面白いと思う。太鼓、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ? 全体の出来はともかく、この曲についてはバックの演奏を聴いてしまう。だがこういう見解は、まあ、ミュージシャン目線だから、君が言いたいことに照らせば的が外れているかもしれない。とにもかくにもこのアルバムでは、生霊であれ死霊であれ、逆にシド・ヴィシャスの幻影は消えている(フラワーズ・オブ・ロマンスって元々シドとキース・レヴィンがいたバンドの名前だろ?)。ジョン・ライドンはシドの弔いをやったのか。シドを葬ったのか。こんなことを言うと、反論があるだろうが、このアルバムにはキース・レヴィンのギターもいらないくらいだ。 

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】「おまえの指が太鼓を一打ちすると、すべての音がぶっ放され、新しいハーモニーが始まる」(アルチュール・ランボー)