Mon camarade
ランシエールを批判して、美は一つの規範だと君は前回の手紙に書いているが、僕にもそれはわかるよ。この規範には意味も意味に対する解釈もないし、その必要もない。アントン・ヴェーベルンは「生きること、それは一つの形を守ることだ」、と手紙に書いていたが、彼にとって生きることは、十二音階の音楽をつくること、彼にとっての美の破調、「ウィーンの危機」をつくり出すことだったのだから(これらは前衛主義とは何の関係もない)、似たようなことを言っているのだと思う。たとえ彼が最後はベランダでタバコを吸っているときに誤ってアメリカ兵に射殺されたのだとしても、それが生きることであり、ヴェーベルンにとって手に負えない必然だったのだろう。ヴェーベルンを聞くと、どうしても世界大戦時のヨーロッパの「塹壕」を思い起こしてしまう。
規範、形……。形というのは形態でもあるし、形式でもある。形はどこから来るのだろう。狂ってないものが狂っているものの別の顔であるように、真理に対する生の形式は、必然的に人は狂っているのだから、賭けのなかにあると言っていい。パスカルはそうも言っていた。生が強要する美はそんなやわなものじゃないし、断崖絶壁にある。いつも賭けられているものがある。ノイズが音楽や詩によって正常化され、美に変えられようとすればするほど、僕にとってノイズはパスカル的な「賭け」でもある。
マラルメが言うように、偶然はその点で廃棄されるのだろうか。そうであれば、規範、形、形式は移動を始め、別の感覚の領域に移ることになる。そうはいっても偶然と音楽の字義どおりの結合は美の硬直した形式でしかないと感じざるをえなかった。ずいぶん前、スコアどおりにジョン・ケージを弾くピアニストと二人で現代音楽の解体みたいなことをやったことがあるが、すぐに飽きてしまった。ジョン・ケージの重要さを認めるにやぶさかではないが、僕はどうもケージが好きになれなない。彼の音楽が表しているとされるように、規範、形において、純粋に偶然だけが介在できるのか。それが何かになるのか。少なくともそれは「歌」にはならない。
君の隠喩嫌いに照らせば、ますます偶然は廃棄されるはずだ。ブルトンを俟つまでもなく、現実のなかにある偶然なるものは隠喩的作用を免れない。あちらとこちらが、突然にしろ、くっつくのだから。君は隠喩を嫌悪していると言うが、君は直喩も退けているのだから、君が嫌悪しているのは隠喩だけではなく、言葉と言葉のある種の関係かもしれない。その関係はひとつの認識ではあるが、しかしその逆に、隠喩的でない関係が必ずしも現実を構成しているのではなく、言葉の関係にあって現実をつくりだしているのは、たとえ「喩え」を成立させているかのように見えるとしても、むしろそれらの言葉それぞれの独立性だと僕には思われる。そうでなければ、それがいまだに僕にとって何なのかはっきりわからないにしても、「詩」は存在できないだろう。